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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「パーソナリティ・個人差」の記事一覧

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知能とg

 この章の初めで,「知能」の日常概念が明確な意味をもっていないことを述べた。それは,どうにでも取ることができ,比喩的であることもある。どんなものであれ,特定の1つのものを指しているとは考えにくい。
 これとは対照的に,スピアマンのgの概念は明確なものだ。それは,特定の事実(正の集合の存在)を説明するために提案された理論的構築物だ。その理論では,gを測定する正確な方法が詳述されていて,その手続きに従えば,結果は,性質の分かった安定した測定値になる。では,それが「知能」なのか?これは間違った問いでしかない。ある意味で,gは知能以上だ。つまり,より明確で,より客観的で,よりしっかりと定義されている。一方,ある意味では,知能以下でもある。gのような概念で「知能が高い(インテリジェント)」と呼ばれる多くの異なるものをすべて説明するのがほとんど不可能だからだ。私たちは科学に期待して,新しい考えを生み出した。それは以前に持っていた考えと関係がないばかりか,同じものですらない。

ジョン・ダンカン 田淵健太(訳) (2011). 知性誕生:石器から宇宙船までを生み出した驚異のシステムの起源 早川書房 pp.60
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指標の非重要性

 あらゆる種類のテストに共通する影響力(すなわちその人のgのレベル)があるという考えは,もう1つの印象的な予測をもたらす。それは,またもやスピアマンの最初の実験で予想されていたものだ。2つのまったく無関係なバッテリーを作るとしよう。最初のものは私がついさきほど述べた,記憶と反応時間,語彙,移動,注意のテストからなるバッテリーとしよう。2つ目のバッテリーには,重さの弁別とジグソーパズルを解くこと,通常とは異なる角度から写真を撮られた物体の認識,ブロックを使って何かを作ること,算数を入れよう。表面的には,この2つのバッテリーはまったく異なるものを測っている。したがって,1つのバッテリーをうまくこなす人がもう1つもうまくこなすと考える確たる理由はないだろう。しかし,スピアマンの理論によれば,どんなテストがバッテリーに入っているかは重要ではない。より多くのテストを含むようになれば,すべてのバッテリーでより正確に同じgを測れるようになる。スピアマンは,多くの異なる方法によって同じくらい正確にgを測定できるこの理論的可能性を,「指標の非重要性」と呼んだ。この予測は大胆だったが,現在,これはほぼ間違いないことが分かっている。2つのバッテリーが適度に大きく,多様である限り,1つのバッテリーの平均成績はもう1つのものの平均成績と強い相関を示す。したがって,スピアマンが学力と感覚弁別を比較したときに見出したように,1つのバッテリーから導き出されるgはもう1つのものから導き出されるgとほぼ同じだ。

ジョン・ダンカン 田淵健太(訳) (2011). 知性誕生:石器から宇宙船までを生み出した驚異のシステムの起源 早川書房 pp.58-59

正の集合

 スピアマンが予想したように,結果は常に同じだ。いくら多くの課題が考案されても,内容や心的操作,成績測定の方法の面でどれほど注意深く分離してそれらを行なっても,同じ結果が繰り返された。テストを受ける人数が多い限り(観察結果が多くなればそれだけ相関は安定した),そして,その人々が正規分布する母集団から適切に,幅広く選ばれている限り,測定された何十あるいは何百の相関はすべて正になるだろう。相関が弱いものもあるだろう(すでに述べたように,たとえば,音楽はほぼすべてsであり,ほかのあらゆるものと非常に弱い相関しかないことを意味している)。ほかのものよりずっと相関の強いものもあるだろう(こういったものはすぐに重要になるだろう)。しかし,異なる結果を見つけようと強く望んでいる心理学者の手中にさえ,基本的な結果は残る。この結果は,専門用語で「正の集合(positive manifold)」と呼ばれている。これは,すべて正を示す異なるテスト間の相関の大きな集合であり,同じ人が異なることをうまくやる包括的な傾向を反映している。
 これは実はかなり驚くべき結果だ。物理が得意な子がフランス語もかなりできる,あるいはできる傾向があることは最初から分かっていたかもしれない。しかし,同じことが,電話番号を思い出すこととか,ライトが点灯したときできるだけ速くキーを押すことにも当てはまることを本当に知っていただろうか?きっと,こういった種々の関係のすべてが,正確にどの程度成り立つかを推測できるとは期待できなかっただろう。世間の人々は,実験心理学が本当に科学かどうか不審に思うことがある。しかし,ここで,行動に関する簡単な測定値によって分かるのは,新しい,注目すべき,確定される事実であり,説明が求められるものだ。

ジョン・ダンカン 田淵健太(訳) (2011). 知性誕生:石器から宇宙船までを生み出した驚異のシステムの起源 早川書房 pp.56-57

gとs

 次の段階として,スピアマンは想像力と方法を並外れて飛躍させた。彼は,複数の教科の成績が,一般的な学力の高さを測る複数の結果と見なせるかもしれないと考えた。同様に,複数の種類の感覚における弁別の正確さは,一般的な弁別能力を測る複数の結果と見なせるかもしれない。問題をこのように考えることによって,スピアマンは測定の非信頼性に対して相関を補正する自らの新しい方法を生かすことができた。個々の点数を信頼できない結果とみなせば,それらを用いて,根底にある真の,一般的な学力あるいは一般的な感覚能力を把握できるだろう。このようにして,スピアマンは測定された相関を補正し,根底にある一般的な能力間の相関を推定した。その後の100年間に,このような種類の統計的手法ははるかに洗練されたものになった。たとえば,「因子分析」は,現在,科学と工学全般で相関データのパターンを解析するために用いられているが,スピアマンの研究の直接の子孫と言えるものだ。しかし,方法は単純だったにもかかわらず,スピアマンの解析は,驚くべき結果をもたらした。彼の方法で推定すると,学力と感覚能力は約1の相関を示した。言い換えると,ある種の数学を用いて個々のテスト間の見かけの相関に潜んでいるものを調べ,2つのまったく異なる分野(学校と感覚実験)の一般的な能力を推定すると,2つの能力が同一のものであるように見えた。学校で全般的に成績がよかった人は,感覚弁別でも全般的に成績がよかったのだ。
 こういった発見を説明するためにスピアマンが提案した理論は,もう1つの想像力に富んだ飛躍だった。学力あるいは感覚弁別だけでなく,いかなる心的能力あるいは心的成績(決定の速さや記憶する能力,音楽的あるいは芸術的能力)も測定するとしよう。こういった能力の1つ1つに対して,スピアマンは2種類の寄与があると主張した。1つ目は,それぞれの人の性質の中の一般因子(general factor)(取り組むどんなことにでもその人が用いるもの)からの寄与だ。最初,スピアマンはこれを「一般知能」と呼び,この用語は生き残っているが,彼自身は,私がこの章の初めに示した理由でのちにそれを放棄した。その代わりに,彼は単純に一般因子,あるいはg(= general)と呼ぶ方を好んだ。2番目として,1つ以上の特殊因子(specific factor)からの寄与が挙げられた。こちらは,個人の技能や才能,その他の因子であり,記憶や芸術のような,測定される特定の能力に特有のもので,他の活動にほとんど,あるいはまったく影響しない。gのレベル(一般因子がどれくらい効果的に働くか)は人によってまちまちだろう。ありうるすべての特殊因子もまちまちだろう。スピアマンはそれらをs(= specific)と呼んだ。

ジョン・ダンカン 田淵健太(訳) (2011). 知性誕生:石器から宇宙船までを生み出した驚異のシステムの起源 早川書房 pp.52-54

自我の消耗

 「自我の消耗」と呼ばれるテーマの研究は非常にわかりやすい。研究者たちは被験者の自己コントロール能力に(チョコレートチップクッキーの皿を前において我慢するというように)負荷をかけ,そのあともっと自己コントロール力を必要とする作業をさせる。負荷をかけなかった対照群の人たちに比べて,負荷をかけられて消耗した人たちはほぼ決まって2番目の作業の成績が良くない。シロクマのことを考えないようにしてください,と言われた人たちは,その後,滑稽なビデオを見せられると笑いを抑えられなくなる。最初にチョコレートを我慢させられた人たちは,その後で難しい問題を解かせるとすぐに諦めてしまう。自己コントロール力が消耗した人たちはくだらない娯楽や食べ物を選ぶ。ダイエット中なら,食べ過ぎる。
 興味深い研究がある。被験者に「退屈な歴史上の人物の伝記を音読してください」と頼むのだが,その際に身振りや表情でできるだけ感情を強調してくださいと指示する。別のグループにも同じ文章を音読してもらうが,こちらは読み方を指示しない。そのあと,全員がありふれた商品を割安で購入するチャンスを与えられる。感情的に消耗した人たちのほうがよけいにお金を使った,と聞いて意外に思われるだろうか?さらに,消耗していた人たちは値段が高くても買う傾向があった。

ダニエル・アクスト 吉田利子(訳) (2011). なぜ意志の力はあてにならないのか:自己コントロールの文化史 NTT出版 pp.345-346

屈辱感と罪悪感

 屈辱感と罪悪感には共通点がある。どちらも嫌な感情を避けたいがための先延ばし,サボり行為を誘うことがある。またどちらも先延ばしのサボりから生じる場合がある。先延ばししてサボっていると嫌な気持ちになる。だから先延ばしのサボり行為は原因であり結果で,逃げ道であり悪化要因だということになる。ふつうはぐずぐずと先延ばしするのはやめようと決意すれば止められるが,どうも先延ばしする性質そのものに遺伝的な面があるらしい。双子の遺伝子とパーソナリティを調べた別の調査によれば,先延ばししたがる傾向のほぼ22パーセントは遺伝的に決まっているらしいという。

ダニエル・アクスト 吉田利子(訳) (2011). なぜ意志の力はあてにならないのか:自己コントロールの文化史 NTT出版 pp.285-286

フロイト説について

 フロイト説は鋭い考察により,思い設けぬ視野を切り拓いてみせる。ベッテルハイムが観察方法としての精神分析学にもっとも高い評価を与えているのは,もっともである。この方法が巧妙に適用されるとき,常識的な外見の裏に潜む別の世界像が次第に梅雨を払って現われでるような不思議な魅惑に襲われる。夢判断は,もっとも典型的な例証をなす。
 しかし,反面,動的心理学や人格心理学としての理論化・体系化には数々の疑問が残る。フロイトは,当時の最新科学思想たる力学的自然観の信奉者ブリュッケを慕って生理学を専攻したほどであるから,通常想像されるようなロマンティストではなく,厳密な科学主義者であった。心身両面を通じての一次元的エネルギーであるリビドー概念の創出や,いったん生起したリビドーはけっして消失せず抑制しても神経症候その他に変形して再現するという一種のエネルギー保存の原則などは,フロイトにおける力学的自然観の影響をよく示しているというべきであろう。また,当時の自然科学者らしくフロイトは決定論にこだわったようにみえる。多元決定などと一方では唱えながら,大筋としては幼児期の外傷体験や欲求不満がほぼ一元的に神経症候を作るとされ,後に幼児期宿命論の批判を浴びるもととなった。

藤永 保 (1991). 思想と人格:人格心理学への途 筑摩書房 pp.179-180

創造過程

 創造過程については,なお興味深い多くの問題が残っている。創造者とは,個性的で偏狭な人間嫌いと思われていることが多いのだが,それは必ずしも当っていない。まさしく発見が成し遂げられたと信ずるとき,創造者はきわめて強い伝達の欲求を感じるという。前述したように,インスピレーションのさい,答の正しさは直観的に確信されるのだから,証明は本質的には無用な作業——というのがいいすぎであれば二次的作業にすぎない。検証は,これもすでに指摘したように,直感的な発見を論理の大道に乗せて公共化することにほかならない。いいかえれば,他者あるいは自己を納得させる作業である。このことに創造者が熱中する理由は,1つには自己確信の強化でもあろうが,より主要なものはやはり共感への熱情,ひいては超越的な普遍者への参与の感覚とでもいった動機に基づくとしか考えようがない。決闘前夜,死の危険を予感したガロアが自己の発見をなぐりがきにしたというエピソードは,たんなる名誉欲などではとても説明はできない。とすれば,創造者は,その気難しい外見の底にむしろ人恋しい共感への欲求と創造を通じての普遍化への願望を秘めているのだろうか。

藤永 保 (1991). 思想と人格:人格心理学への途 筑摩書房 pp.100

拡散的思考

 しかし,その点でもっとも衝撃的な影響を与えたのはJ.P.ギルフォードによる収束的思考対拡散的思考の二大別である。彼は第二次世界大戦中アメリカ陸軍の戦略局に動員され,そこで臨機応変の対処能力,ひいては思考の流暢性とは何かの研究に携わったことから,上の概念に到達したといわれる。当初から,彼の発想は定型的ではない課題解決過程に指向していた。
 収束的(convergent)とは,さまざまな刺激状況が常に同一の目標反応に結びつく事態を指す。拡散的(divergent)は,反対に,同一の刺激状況が多様な目標反応に結びつきうる事態である。収束的思考とは,したがって,正答が一通りに定まっているような課題状況における思考様式を指し,拡散的思考は逆に型通りの解決が与えられていない課題,解決やそこに至る通路そのものを構想しなければならない事態,極端にいえば問題そのものがまだ現前していない状況下で未然にそれを感得する事態等々における思考様式を指すことになる(以上の説明では簡略にすぎて誤解を生むおそれがある。正答が一通りに限られていても,解決過程は多様である場合は数学などによくみうけられるし,逆に多様な回答はありえても自ずと良い解決が定まるという事態は作文などに典型的に認められるだろう。この点もう少し議論の必要があるのだが,前述のハイムなどを参照して欲しい)。
 この語を用いるなら,知能テストは収束的思考の能力を測るテストの典型だということが分かる。では,拡散的思考の能力を測るにはどうすればよいか。
 以後,この要請に応えて,創造性テストと呼ばれるものが続々と作りだされていく。その代表は,ギルフォードによる日常的事物の用途をできるだけたくさん案出させる用途テスト,連想の豊かさやかけはなれた連想能力をみる連想テスト,二本の線を与え,これにかき加えて意味のある図形を作る描画テストなどであるが,その他にもたとえば抽象的な線描のパタンに対してできるだけ多くの意味づけを与えるパタン意味づけテストなどいろいろ考えられよう。

藤永 保 (1991). 思想と人格:人格心理学への途 筑摩書房 pp.82-83

知能は思想

 現行の知能概念が,人間にのみ生得的理性が賦与され,したがって自然界は知性の優劣により秩序づけられるという神人同型説を出発点としているかぎり,グールドが厳しく告発するように,常に人種差別的合理化の企てとして機能してきた一面はとうてい否定し難い。このような事情に日本の研究者はあまりにも無知であり,知能やIQをたんに理論的・抽象的概念として,また探求に値する真理としてしかみてこなかったのは素朴に過ぎることだった。知能とは——イギリス学派の実体観とはうらはらに——まさしく一種の思想であり観念である。ある社会階層の利害の代弁者という意味でなら,イデオロギーと呼ぶにふさわしい。

藤永 保 (1991). 思想と人格:人格心理学への途 筑摩書房 pp.79-80

一次元いろいろ

 このようなリストをとり上げればまだきりもなく続くことであろう。しかし,これらを一般知能因子説への決定的異論とみなすことができるだろうか。サーストンのような多因子説は,1つには因子分析の技法上のちがいからもたらされるものであり,みようによっては一般因子の下位分類ととれないでもない。C.バートやP.E.ヴァーノンらは,スピアマンの一般因子説を発展させ,たとえばヴァーノンはG因子に次ぐ群因子として言語・数・教育に関する因子,機械・空間・運動の因子の2つを分けるという階層構造を考えた。サーストンも,因子が相互に関連をもつ場合(斜交回転)のさいの高次因子という1種のGを認めているから,両者は似ていないとはいえない。その他の分類,たとえばキャテルの区別は古くからの形式対内容の別を思わせるし,これに通じる言語性対動作性知能の対立も,その意味では常識を多くでていない。これらの動きは,知性一次元という大枠のなかでの小波とみなせるだろう。

藤永 保 (1991). 思想と人格:人格心理学への途 筑摩書房 pp.74-75

1つの数値で

 最後にもう1つ,知能テストの重要な特性を付け加えておかねばならない。パーソナリティ・テストは,ことの性質上当然,その結果を1つの数値で表わすことはできない。オールポートにきくまでもなく,個性や人格特性は多様なものだから,因子分析その他の技法によってどんなに結果を簡約化したところで,たとえば支配性はきわめて高いが,社交性は低いのように,いくつかの特性値の組みあわせ,たかだかある類型として記述できるだけである。まして,人びとを1次元に序列化することなどは不可能である。
 これに対し,知能テスト結果は終局的には知能指数というたった1つの数値によって表示しうる(と信じられている)。むろん,ウイスクのような言語性と動作性のIQをそれぞれ別々に算出するテストもあり,また,各下位テスト結果をそれなりに問題にすることもできるが,ふつうは総体としてのIQだけを指標にする。あたかも,それぞれの下位能力は結局みな同じ知性の一環にすぎないかのように扱われるのである。スピアマンは,Gという知能の一般因子を仮定したが,知能は人間の基本的かつ普遍的な特徴をなすというパラダイムが,この観念を強化している。
 そうして,この点で知能検査の実用性はパーソナリティ・テストより格段に高まる。たった1つの数値によってある人の知的能力をあますところなく知りうるとしたら,これほど便利なものを人間性について他に考えうるだろうか。しかも,人間にはかの有名な「兵隊の位」で象徴されるように,人間の上下を一本に序列化したいという素朴な願望もまた根強い。偏差値競争の源泉の1つは,ここにも潜んでいる。

藤永 保 (1991). 思想と人格:人格心理学への途 筑摩書房 pp.69-70

相対的知能観というアイデア

 近代の心理学は一時根強い本能論に支配されていた時代があったのだが,これは人間と動物との連続性を主張し,したがって人間にも本能,動物にも知能を認めるダーウィンの影響——直接的にはH.スペンサーの影響を受けたためであると考えられる。このように,当時の人文系諸科学一般に進化論の影響は大きかったのだが,ことの性質上発達研究の領域ではことさら深いものがあった。たとえば,ビネーが知能テスト作製に成功した理由の1つは,それまでのF.ゴールトンその他のように,知能の絶対値を直接計測しようとする企てを捨てて,年齢が増すほど課題解決能力ひいては知能も比例して高まっていくという相対的な知能観を採用したところにある。

藤永 保 (1991). 思想と人格:人格心理学への途 筑摩書房 pp.58-59

一面の継承

 問題はその先であり,オールポートは科学的・分析的方法以外にも臨床的診断の意義を重視しているのに対して,アイゼンクのような純粋化学主義者はそうした了解的方法の価値を認めない。彼は,マンセルの色票系の例を引いて,人間は三百万にもおよぶさまざまな色の個性を識別しうるけれども,それらは明度・彩度・色調という色の3次元上での変量の組み合わせとして表現しうるという。必要なのは,パーソナリティの次元分析と各次元上での計測であり,オールポートのいうような絶対的な意味での個性や独自性,ひいては個人的頚性などを仮定する必要はなくなる。現在の科学的パーソナリティ研究は,おおむねその方向に志向しつつあり,オールポートの一面のみを継承しているといえよう。

藤永 保 (1991). 思想と人格:人格心理学への途 筑摩書房 pp.41-42

個性とは

 個性とは,元来これ以上分析できないものの意であるという。ヨーロッパでは,このような人間の総体としての独自性や統一性は自明の原理とみなされ,すべての性格学説に多少とも内包されている。この観念の具象化の典型がいわゆる類型学である。したがって,研究の手法も,あるがままの全体を直観的に把握しようとする了解心理学的方法が根強く信奉されている。一方,アメリカ的学説には,行動主義に典型的に認められるような要素主義が強いから,したがって分析と総合という科学主義の正当な手法が盛んにとりいれられることになる。後述の特性論にみる諸特性の列挙,因子分析によるパーソナリティ次元の究明などはその好例をなす。アメリカのパーソナリティ研究は,実験心理学との結び付きが相対的に強いといえるだろう。

藤永 保 (1991). 思想と人格:人格心理学への途 筑摩書房 pp.28

機能主義

 パーソナリティ研究のもつ第2の特色は,それゆえ,まず機能主義的方向を目ざす点にある。いいかえると,生活体の適応という主題に常に最大の関心が払われている。実験心理学者が,感覚を一種の「モノ」とみなし,人間の心を感覚的要素から組み立てられた寄せ木細工なみに扱っていた時代に,フロイトはすでに,運動・感覚麻痺という身体症状を前面に押し出しているヒステリーという病気が,けっして器質的な障害などではなく,通常の手段によっては対処できなくなったために発動された過剰な適応過程にすぎないことを見破っていた。物忘れやいい損ないも同じようにみることができる。つまり,ある行動を説明しようとするとき,「いかに」というメカニスティックな説明原理と並んで,「なぜ」そのようなふるまいがとられるのか,その裏に潜んでいる動機は何かを探求するというもう1つの原理のあることが知られる。パーソナリティ理論家は,行動を支配するメカニズムよりは,それを制御する目標や動機の力に,より多くの関心を払う。「いかに」よりは「なぜ」「何のために」に注目するのである。

藤永 保 (1991). 思想と人格:人格心理学への途 筑摩書房 pp.13-14

異端者

 第1は,パーソナリティ研究が,実験心理学を主流とする心理学の発達史のなかで,常に異端者としての役割を果たしてきた点である。19世紀後半に,心理学は大学の学問分野のなかに初めて公式の市民権を認められることになるのだが,その心理学とは実験心理学の謂にほかならなかった。実験心理学は,英国経験論その他によって与えられた認識論的な課題を,物理学をモデルとする自然科学的手法を借りて解決しようとする一種の境界領域として誕生したとみられる。その開祖であるW.ヴントやアメリカ心理学の始祖W.ジェームズが,いずれも感覚心理学についての基礎的素養のうえに生理学教室内に心理学実験室を創設し,後年はむしろ哲学者として正名をはせたことは,この事情を象徴的に物語っていよう。
 ジェームズは,しかし,実験心理学のもつ冷い抽象的性格にあきたらず,次第に別の途を求めていったけれども,ヴントの主導した実験心理学の本流は,純粋に理論的関心とりわけ方法論的要請に左右されて,その問題領域を定めたのであった。あえていうなら,綿密な実験的分析に適し数量的測定の可能な事象が心理学のまず第1の対象とされ,それ以外は実験心理学の領域からは疎外されていった。さすがにヴントは,それのみでは十分ではないことをよく知っていたが,彼の創りだした流れをもはや止めることはできなかった。物理主義を正面に押しだした後の行動主義への転回は,けっして偶然の所産ではなく,その布石は実験心理学の生誕とともに準備されていたとさえいえるだろう。

藤永 保 (1991). 思想と人格:人格心理学への途 筑摩書房 pp.12

特別はナルシシズム

 自分を特別だと思うのはナルシシズムである。自尊心でも自信でもないし,子供に育んでやるべきものでもない。ナルシシズムと自信は違う。子供には,算数がよくできるねとか,がんばれば算数ができるようになるよと言ってやればよく,おまえは「特別だから」と言う必要はない。自分は特別だと思って悦に入るのもいいが,人と一緒に働き,行列に並び,高速道路で割り込まれる現実の世の中では,挫折するだけだ。ニコールが言ったように人を尊重するようになることもまずない。自分を特別だと思っている人は規則に従わなくてもいいだろうと考える。それは人から見れば不公平ということだ。私たちは5歳の子供に無理やりバスケットボールをやらせて,うまくできないことを思い知らせてやれとか,綴り方の勉強をしている娘をできが悪いと叱ったりしろと言っているのではない。「特別」だとわざとらしく褒めるのではなく,学ぶ楽しさや努力は報われることを教えてやるほうがいいと言いたいのである。

ジーン・M・ドゥエンギ/W・キース・キャンベル (2011). 自己愛過剰社会 河出書房新社 pp.229-230
(Twenge, J. M., & Campbell, W. K. (2009). The Narcissism Epidemic: Living in the Age of Entitlement. New York: Free Press.)

自尊心を高めようとして失敗する

 多くの人は「自尊心」をもとうとして,自己陶酔的な虚栄に陥ってしまう。小麦色の肌に見せたがるせいだろうが,15歳から34歳までの女性の皮膚がんの発生率がこの10年で20パーセント高くなった。それでも日焼けするのはなぜなのかと聞いてみれば,みな18歳のジャッキー・ハリスと同じように答える。「自分のことをいいなって思えるの。いまは,皮膚がんのことなんか考えていないわ」。整形手術を受けた理由に,多くの人が「自尊心」などのかたちを変えた自己賛美を挙げる(ただし,アメリカの文化で自尊心としてまかり通っているもののほとんどは,実際にはナルシシズムである)。こうした世界観をもつかぎり,自己賛美には皮膚がんや術後の合併症の危険を冒すだけの価値がある。アレックス・クチンスキーが書いているとおり,美容整形手術のリアリティ番組では「自尊心という言葉がマントラのように繰り返される」。ある男性の首のたるみ除去とまぶたの手術をした理由を,「もっと自信をもちたいんだ」と説明した。

ジーン・M・ドゥエンギ/W・キース・キャンベル (2011). 自己愛過剰社会 河出書房新社 pp.182
(Twenge, J. M., & Campbell, W. K. (2009). The Narcissism Epidemic: Living in the Age of Entitlement. New York: Free Press.)

メルアドとナルシシズム

 Eメールアドレスでさえ,目立ちたがりのナルシシストの小道具になる。ある調査によると,ナルシシストは人から見ると「大仰」で「卑猥な」アドレスを選ぶ傾向がある。そのためEメールアドレスからその人がナルシシストかどうかが判断できた。自分に酔っている人は,Eメールを送るたびに自分のすごさを吹聴することになる。研究者らが述べているとおり,「thefascinatingking@gmx.net(すてきなキング)というアドレスのもち主をナルシシストではないかと推測するのは妥当だろう」

ジーン・M・ドゥエンギ/W・キース・キャンベル (2011). 自己愛過剰社会 河出書房新社 pp.136-137
(Twenge, J. M., & Campbell, W. K. (2009). The Narcissism Epidemic: Living in the Age of Entitlement. New York: Free Press.)

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