忍者ブログ

I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「パーソナリティ・個人差」の記事一覧

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

覚醒レベルの問題

 どれだけ刺激を受けたいかは,神経学的に覚醒レベルが通常どの程度であるかによって決まる。つまり,脳が生まれつきどれだけ敏感で活動的かで決まるのである。生まれつき敏感な人は,強い刺激を好まない。なぜなら,強い刺激によって簡単に針が振りきってしまい不機嫌になるからだ。一方,生まれつき神経覚醒の値が低い人を盛り上げるには,さらに多くの刺激が必要になる。つまり,刺激希求性の高い人は実は比較的低レベルの神経覚醒で機能している。そういう人にとって,生きているという実感をより強く得るには激しい経験が必要になるが,低い刺激しか求めない人は内面ですでに興奮しているため,それ以上の覚醒を避けたがる。あるいは現在の興奮を弱めようとする。刺激希求性の高い人も刺激希求性の低い人も,それぞれ,感情を高めたり抑えたりしようとして行動し,環境を調節することで快適に生きようとしている。刺激希求性の高い人は,消防士やレーシングドライバーになることが多いが,低い刺激しか求めない人は図書館司書や庭師になることが多い。当然,刺激希求性の高い人は刺激希求性の低い人よりもはるかに多くのホラー映画を観て,存分に楽しむ。元気づけられるからだけではない。観た以上の見返りが期待できるからである。

レイチェル・ハーツ 綾部早穂(監修) 安納令奈(訳) (2012). あなたはなぜ「嫌悪感」を抱くのか 原書房 pp.203-204
PR

Big Five

 嫌悪しやすい性格だけが健康に影響を与えるわけではない。性格を形成するいくつかの構成要素——心理学者が『ビッグ ファイブ』と呼んでいる——も健康(あるいは不健康さ)を保つこととの関係を根源としている。『ビッグ ファイブ』の性格特徴のひとつである,「実直さ」——ボーイ スカウトのモットー,「備えよつねに!」の理想化——は,嫌悪感が情動のひとつとして健康と結びついている。これは,実直な人は規律をよく守り思慮深いため,いきあたりばったりでだらしなく実直さを欠く人よりも頻繁に手を洗い,衛生面全般への予防策を講じていることが多いからだ。心の状態に気を配る人は身体にも気を配っている。実直さがあれば,長生きもできる。『長寿プロジェクト』では,医学博士のハワード・フリードマンとレスリー・マーティンが,子供時代から80代までの人々を追った大がかりな研究結果を報告している。それによると,長寿で健康な人生を送った人を最もよく言い表した子供時代の性質をひとつだけ挙げるならば,それは「実直さ」だった。これとは逆に,『ビッグ ファイブ』で得点の高かった他の2つの性格特徴は,病気をもたらすことが多く,人を早く天に召してしまうことがある。その2つとは,生き生きとした想像力や芸術・感情・冒険や今までにないアイデアを全般的に理解するといった「新しい経験を受け入れようとする姿勢」と,他人と一緒にいたがり,パーティ好きで,知らない人にも積極的に会おうという気持ちを示す「外向性」だった。こうした特性もまた,リスクをはらんだ行動を試そうとする可能性を高める。タイの僻地で新しい料理を試そうとしたり,出会ったばかりの人と気軽にセックスしたりすることは,経験としてはいい思い出になるかもしれないが,感染症,あるいはそれよりも悪いことにつながる恐れもある。

レイチェル・ハーツ 綾部早穂(監修) 安納令奈(訳) (2012). あなたはなぜ「嫌悪感」を抱くのか 原書房 pp.120-121

(引用者注:「実直さ」は”Conscientiouness”であり,「勤勉性」「誠実性」と訳されることもある)

disgust sensitivity

 嫌悪に対する態度(disgust sensitivity)が高い人はとりわけ汚染に敏感であり,しかも,「誰か他人が触ったことがわかっているものに触れることに抵抗がある」といった記述に同意する人は,この記述に同意しない人に比べて,風邪や腹痛,感染性の病気にかかることが実際には少ないことがわかった。少しOCDの傾向があるくらいのほうが,健康でいられる。もっとわかりやすくいうと,不快な気分にさせるものに敏感な気質であればあるほど,実は病気になりにくいのである。

レイチェル・ハーツ 綾部早穂(監修) 安納令奈(訳) (2012). あなたはなぜ「嫌悪感」を抱くのか 原書房 pp.120

筆跡診断

 筆跡分析や性格診断は,性格について大胆に断定してしまうと最初のハードルでつまづいてしまう。個人的には,就職活動の際に筆跡診断で不採用にされた人は,不服を申し立ててしかるべきだと思う。占星術に基づいて不採用にされるのと大差ないからだ。筆跡心理学は,その見事なルールや脱構築,もっともらしい表面的な理論のわりには,観光地の遊歩道で手相占いをしている,まともとは思えない老人と同じくらい当てにならない。筆跡鑑定家は,ある種の傾向(正直さや社交性)を筆跡から見抜くことができると主張するが,曖昧な指摘は誰にでも当てはまるように解釈できるし,文字を書いたのが男性か女性かといった,もっとも基本的かつ検証可能な情報は筆跡分析からは得られない。
 性格というものは流動的で,自分と対話をしている人は自分に反応しているのだから,自分の影響を受けている,というこの事実は物理主義であり,ボディ・ランゲージなどのツールを基にした簡単すぎる性格診断は避けるべきだ。単純に,正しくないからである。同様に,相手に対する自分の先入観も捨てる必要がある。この人はわがままで嘘つきな人だと感じたら,それを裏付ける身振りや仕草を探すだろう。言葉を用いない非言語コミュニケーションでの反応を発達させるには,あるレベルの距離感,客観性,厳密性が必要だ。これができなければ誤った結論を導き出し,人間関係を台無しにする結果になりかねない。もちろん,完璧に客観的になることなどほとんど不可能。多少の個人的見解は常に入ってくるが,それでも先入観を取り除く重要性に気づくことがきわめて大切なのである。

ダレン・ブラウン メンタリストDaiGo(訳) (2013). メンタリズムの罠 扶桑社 pp.308-309

完全主義と先延ばし

 一般に,先延ばしをする人は完璧主義者なのだとよく言われる。自分に課す基準が高すぎて,その理想に届かないのがいやで,課題に手をつけられない,というわけだ。この「先延ばし人間=完璧主義者」説は,説得力がありそうに聞こえるし,耳に心地がいい。おおむね,完璧主義は好ましい資質とみなされているからだ。「あなたの最大の欠点は?」という問いに,あなたはどう答えるだろう?アメリカの視聴者チャレンジ型のテレビ番組『アプレンティス』で優勝を目前にしていたビル・ランチックという男性は,こう答えた。「ぼくは完璧主義すぎるんです。それが欠点ですね」。そう言われれば,相手はこう言わないわけにはいかない。「いや,完璧主義はいいことですよ。高い理想に向けて努力し続けるのですから」
 しかし,「先延ばし人間=完璧主義者」説にはデータの裏づけがない。この点は先延ばし研究の分野で最も詳しく研究がなされているテーマで,これまでに何万人もの人を対象に調査がおこなわれている。そうした研究結果を見る限り,完璧主義と先延ばしの間にはほとんど相関関係がない。完璧主義度の診断基準「オールモースト・パーフェクト・スケール(=おおむね完璧な基準)」を作成したカウンセリング心理学のロバート・スレーニーによると,「完璧主義者はそうでない人に比べて,先延ばし癖の持ち主が少なかった。つまり,これまで個別の事例に基づいて主張されてきた通説が覆されたのである」。私の調査でも,同様の結論が得られている。几帳面で,計画的・効率的に行動できる完璧主義者は,概してものごとをぐずぐず遅らせたりはしない。

ピアーズ・スティール 池村千秋(訳) (2012). 人はなぜ先延ばしをしてしまうのか 阪急コミュニケーションズ pp.29-30

互恵的関係

 イチローのような仕事とトイレ掃除の仕事とでは,みための魅力という主観的・感情的側面にも,収入という客観的側面にも雲泥の差がある社会に,たまたま私たちは生きています。人が生きているかぎり,遺伝的な条件の差異から生じた能力の差が,その時代社会のさまざまな社会的,経済的,心理的条件の中で,さまざまな偶然と必然の経験の連鎖を経ながら,それぞれの仕事を通じて互いに互いを補い合っています。
 だれでも野球をし,トイレ掃除をする潜在能力は持ち合わせているでしょう。しかしアメリカ大リーグで10年連続200安打を達成するような,多くの人々をわくわくさせるようなことをするには,たくさんの特別な遺伝的才能がそろっていることが必要とされます。そして同じように,安い賃金でも誇りと喜びをみつけながら毎日毎日トイレをきれいに清潔に保つ仕事をするにも高度な遺伝的才能が求められます。いずれも生物学的にはだれもがもてるものではない稀有な才能なはずですが,いまの世の中では圧倒的に前者の方が「恵まれた」とみなされるのです。
 かくして本来,世の中の様々なところに「ある部分についてそれぞれ遺伝的に優れた人が,それについて劣っている人を助けあう」互恵的関係が目の前に実現しているにもかかわらず,理不尽な不平等がこの世の中に蔓延しているのではないかと思われます。こうなってしまったのには,さまざまな歴史的社会的,心理的,政治経済的理由が交錯しています。また世の中で本当に役に立つ仕事を創発して成功する企業,それまでだれもしなかった仕事を成し遂げて人々を感動させてくれる人は,それまで意識されていなかった互恵的関係に気づき,顕在化することによって,それを成し遂げているように思われます。古来,宗教が「縁」とか「愛」などという概念を通して共同体に共有させようとするのも,行動レベルでは事実上そのとおりにふるまわざるを得ないのに,意識レベルでは多くの人がそれに気づかなかった互恵的利他性を,コトバを通じて無理やり意識させようとした営みではないかと考えられます。

安藤寿康 (2012). 遺伝子の不都合な真実:すべての能力は遺伝である 筑摩書房 pp.207-208

決めない

 しつこいようですが,誤解されては困るので,もう一度繰り返します。このことはこれらの行動が遺伝によって「決まっている」といっているのではありません。「決まっている」という表現は明らかに状況を適切に記述していません。なぜならこれらの遺伝の影響はどれも50%以下,つまり逆にいえば相対的には非遺伝的な影響の方が多いこともまぎれもない事実だからです。ですから私は自分の学生に,テストで「遺伝によって決まっている」という言葉遣いをしたら落第させると「脅迫」し,「言論統制」しているくらいなのです。遺伝子の表れは同時に特定の環境に対する適応の表れなのですから,環境が異なればその表れ方も異なります。
 またなにかひとつの遺伝子の働きで説明されるものでもありません。「朝食遺伝子」「歯磨き遺伝子」「不倫遺伝子」などというものをイメージするのが荒唐無稽であることはいうまでもないことです。この遺伝子の影響を支えているのはポリジーンという無名の遺伝子たちの織り成す,抽象的で何ものとも名づけにくいカタチが,私たちの文化の中で表れ,「解釈」され意味づけられていることを忘れてはいけません。
 これらすべてをわかったうえで,やはり遺伝要因は無視できないと言っているのです。なぜ規則正しく朝食を食べ,きちんと歯を磨き,不特定多数の人とセックスをしたがるのかは,それぞれの人の社会的事情だけでなく遺伝的事情によっても異なるのです。

安藤寿康 (2012). 遺伝子の不都合な真実:すべての能力は遺伝である 筑摩書房 pp.160-161

遺伝と環境の交互作用

 こんにち行動遺伝学の研究では,このような遺伝と環境の交互作用の現象,つまり「遺伝と環境の影響は,遺伝と環境の条件の違いによって異なる」という現象が非常に数多くみいだされています。
 たとえば,おしなべてみると遺伝の影響が大きいとされる知能についても,80を超える高齢者全体からみれば遺伝の影響は中程度にあるのですが,特に認知症にはなっていないけれど知的能力が低い方(下位40%)の人に限ってみると,その中での知能の差には遺伝の影響がまったくみられないという報告があります。これは高齢者の認知症のはじまるきっかけやその重篤度に,遺伝よりも環境の違いが大きく影響していることを示唆する結果です。
 また青年期の知能の個人差は,社会階層が高いと遺伝の影響が大きいが,低い方では逆に共有環境の影響が大きいという報告もあります。つまり社会階層が低いほど親の育て方や家庭の状況の違いが直接,知的能力を大きく左右することを示唆します。このことは遺伝と環境についての議論をするときに,エビデンス(科学的根拠)に基づいて,さまざまな条件を考慮した厳密な議論が必要であり,またそれが可能であることを意味します。

安藤寿康 (2012). 遺伝子の不都合な真実:すべての能力は遺伝である 筑摩書房 pp.151-152

共有環境の本質

 このような共有環境の本質は「社会的ルール」あるいは「手続き的知識」の学習として一般化されるのではないかと私は考えています。社会的ルールとは,必ずしも法律や礼儀作法に限りません。いわゆる手続き的知識とは一般的に「こういう場合はこうする」という形で実際に行動として表現される知識のことです。何時になったら机に向かって参考書を開いて勉強するといった生活習慣,わからなくなったらきちんと論理を追って考え直すといった認知スキル,これらはある程度ルール化されて学習可能なものです。それが家族で明示的に学ばされる機会があれば(あるいはなければ),それを身に着け(あるいは身に着けられず),共有環境としての効果を発揮するでしょう。
 飲酒や喫煙,マリファナなど違法な薬物の習慣に共有環境があるのは,端的にその物質が環境の中にあるかないか,つまり家族やふたごのきょうだいのだれかひとりでもそれをもっているか,あるいは住んでいる地域や家族が関わりやすい人を通じて手に入れやすい物理的環境にいるかいないかが,かなり影響を持つからではないでしょうか。
 これがその人の個性や発達障害などの心理的形質と違う点です。家族をおしなべて「外向的」パーソナリティにさせる,あるいはADHD(注意欠陥多動性障害)にさせるために使われる物質的ツールや社会的ルールなど想像できませんが,物質依存は,文字通りその物質があるかないかが最初の決め手となります。もちろん物質に依存しやすい遺伝的素因,依存しにくい遺伝的素因はあります。依存しやすい人は自分から進んでその物質を手に入れようとする傾向が高くなるでしょう。しかしやはりそのものがズバリ目の前にあるかないかにも大きく依存することは想像に難くありません。

安藤寿康 (2012). 遺伝子の不都合な真実:すべての能力は遺伝である 筑摩書房 pp.144-145

バイオリンパートのような

 たしかにふたご研究では,ここに挙げられたさまざまな能力について,遺伝率にして30〜50%,多い場合は60%を超す大きな遺伝子全体の効果量を繰り返し報告しています。しかし遺伝子ひとつひとつについてみた場合は,その効果量は決して大きなものではないのです。仮に全部で10%を説明する数個の遺伝子の型がわかり,それだけである能力が高いと予想されたとしても,まだ説明されていない残り3〜40%の遺伝子が逆にその能力を低めるようであれば,予想は覆ります。しかもこれらは疾患ではなく健常な状態の個人差です。疾患に関わる遺伝子であれば,それが全体のバランスを乱すことからそれを発見することもできますが,健常な範囲内での個人差は全体とうまく調和しているので,その発見が困難です。
 これはオーケストラのバイオリンのパートのようなものです。オーケストラの中で一斉にバイオリンを弾いている奏者たちは,そのひとりひとりの演奏を聞けばそれぞれに個性的です。また100人のオーケストラの中で20人程度を占めるバイオリンパートの働きは,それ全体としてはとても大きいものです。しかしみんながそろって同じ旋律を奏でるとき,その中のひとりひとりの個性の違いは,よほど調子っぱずれの困った演奏でない限り,決して大きなものではありませんし,そもそもバイオリン協奏曲のソリストのように大きく目立ってもいけないものです。そのうち10%がとびきり上手なバイオリン奏者だったとしても,残りの90%のバイオリン奏者が凡庸だったりへたくそだったりしたら,そのオーケストラのバイオリンパートの音はあまり上手には響きません。だから特定の1人のバイオリニストの演奏(つまり1つの遺伝子の効果)だけではほとんど何も言えないのです。またたった1人,全体の調子を狂わすほど変な音を出す奏者が混ざっていたら,その音楽は聞くに耐えないものにすらなるでしょう。それは単一遺伝子による遺伝病にたとえられます。
 しかも特定の遺伝子と心理学的形質との関係を調べた研究結果の再現性は,必ずしも高くありません。多くの追試研究をみると,その効果を支持する論文もありますが,支持しない研究もあり,全体としてみたとき,その信頼性は,現時点でははなはだ怪しいと言わざるを得ないという点が指摘されます。

安藤寿康 (2012). 遺伝子の不都合な真実:すべての能力は遺伝である 筑摩書房 pp.116-118

フリン効果

 1980年代,ニュージーランドの社会学者ジェームス・フリンが思い立って実施したのは,過去のIQ(知能指数)得点を長期にわたって調査することだった。調査の結果,フリンはそれ以降十数年心理学界に騒動を引き起こすこととなる発見をした。人々のIQが上昇しているように見えたからだ。この現象はフリン効果と呼ばれている。
 さてIQは,全人口に対して,統計上その平均得点が100になるように標準化されている。一定の年齢層(たとえば18歳の人々)の大きなサンプルに新しいバージョンのIQテストを実施した場合も,平均値が100になるよう調整される。その場合,新しいバージョンのIQテストを受けた人は旧いテストも受けるように求められ,新旧双方のIQテストの成績が一致するかどうかを調べる。フリンが見出したのは,どのグループでもテストを受けるたびに旧テストより成績が良くなったということだ。18歳の人々のグループが20年前のテストを受けたとすると,20年前の彼らの同年代の人々の得点100にはならず,必ず少し高目の値が出るのだ。フリンは1932年から1978年の間の,全体で7500名以上の参加者にのぼる70以上の調査を検討して,平均IQが10年間で3ポイント,おおよそ3%上昇していることに気づいた。
 この報告がセンセーショナルだったのは増加の程度だった。2世代,60年間の間に得点がおよそ1標準偏差も上昇していたのである。すなわち,1990年の同年齢層の得点の平均値をとった18歳の人々を,仮に60年前の時点で評価したとすると,その特典は高いほうの6分の1に入るのだ。30人のクラスの平均的学生の場合なら,突然トップの5位以内に入ることになる。
 このIQの上昇は,教育の改善の結果だとも言い得るが,もしそうなら語彙や一般知識の検査で得点が上がり,問題解決の検査ではさほど上がらないはずだ。なぜなら,問題解決は文化や教育のレベルとは比較的かかわりがないと考えられるからだ。しかし,アメリカ人のIQテストの変化を詳細に調べらた結果,まさにその反対であることが見出された。得点の上昇は問題解決で著しく上昇し,一方,語彙検査の得点はほとんど変化がなかったのである。

ターケル・クリングバーグ 苧阪直行(訳) (2011). オーバーフローする脳:ワーキングメモリの限界への挑戦 新曜社 pp.13-15

クレッチマーとクレペリン

 クレッチマーの学説を知ったあとの父は,「25分法」の結果をクレッチマーの気質類型と結びつけて解釈しようとし続けていたと思う。言いかえれば,クレッチマーの気質類型それぞれに応じた「25分法」の型があると考え,その発見に情熱をかたむけていたように思う。
 しかし,クレッチマーの気質類型のある型と,「25分法」のある型とが関連があることはある程度言いえても,両者が1対1的に対応していると考えるのは行きすぎであったと思う。それにこだわり続けることで,「25分法」のさまざまな結果がもつ豊かな情報がずい分たくさんこぼれ落ちてしまったように,私には思える。つまり,その対応の仮設が強すぎたと思うし,その仮説にあてはまらないケースが出て来た場合,そのケースを含みこんだ新しい仮説を作りなおすという方向に向かわないで,またもとの仮設に舞い戻ってしまうのである。「25分法」のデータの研究から機能的に,「内田性格学」のようなものをつくりあげていってもよかったのに,あくまでもクレッチマーの性格学に固執し続けたわけである。それぐらい,父にとってはクレッチマーの性格学は圧倒的な意味をもっていたのだろうし,それは結局クレッチマーの分裂気質という概念によって父自身が救われたことと関係しているのだと思う。

内田純平 (1995). 迷留辺荘主人あれやこれや:心理学者内田勇三郎の生き方の流儀 文藝社 pp.99-100

”Who am I" test

 このテストは,「20の私」テストと呼ばれている課題である。では,まず紙と鉛筆を用意していただきたい。そして,準備ができたら,「私は」という言葉を,横書きで1回1回改行しながら,20回繰り返して書いてほしい。すると,縦に「私は」という言葉が20段書かれていることになっていると思う。ここまでで準備完了。それでは,「私は」という言葉に続けて,「私」とは何者であるかを自由に記述してほしい。別に正解はないので気軽に考えていただきたい。
 さて,どんな答が出来上がったであろうか?
 筆者がアメリカの大学で心理学のクラスを教えていたときには,「私は頭がいい」と臆面もなく書く学生がクラスの90パーセントもいたので,ちょっと面食らったのだが,こうした答えでも問題ない。実際,このように一般的に見て自分を形容する個人的な性格特性を用いて,「私は短気な性格だ」「私はなまけものだ」「私は外向的な性格だ」といった答えを書いた人も多いだろう(日本人の多くの読者の方は,アメリカの学生よりは,謙虚な答えを書いたのではないかと思う)。
 しかし,多くの人は「私は◯◯大学の学生だ」「私は××社の係長だ」「私はサッカー部のキャプテンだ」「私は3児の母だ」「私は長男だ」といった,自分が属するグループのカテゴリーや役割,役職を書いたのではないだろうか。
 アメリカ,日本をはじめ,世界各国で行われた「20の私」テストの結果を見ると,自分について考える際に,どのような形で表現することが多いかという度合が,文化によって異なっていることがわかる。
 総じていうと,欧米文化圏の人たちは,東アジア文化圏の人たちと比べると,「私は◯◯な性格だ」といった個人に属する性格,性質,能力といった特徴で自分を表現することが多い。それに対して,東アジア文化圏の人たちは,先ほど述べたように自分の社会的属性を使って,自分を表現することが多かったのだ。

増田貴彦 (2010). ボスだけを見る欧米人 みんなの顔まで見る日本人 講談社 pp.156-157

包括的思考・分析的思考

 中でも,ミシガン大学の研究グループでは,リチャード・ニズベット博士が中心となって,東アジア文化圏で特徴的な思考様式を「包括的思考様式」,欧米文化圏で特徴的な思考様式を「分析的思考様式」と定義することで,そうした思考様式が,私たちの物事の捉え方に影響を及ぼしているという理論を提唱している。
 ここで思考様式と呼ばれているものは,世の中のありようを理解する際の考え方の筋道である。そしてその筋道は,人がある文化に生まれ落ちて,両親,親戚,友人,恋人その他多くの人たちと人間関係を結ぶ中で,ごく「あたりまえ」になった常識というものに限りなく近い。
 分析的思考様式を一言でまとめれば,世の中のさまざまな物事はすべて最小の要素にまで分割することができ,その要素がどのように作用するかということや,これらの要素の間の因果関係を理解すれば,物事の本質を理解できるという信念といえる。こうしたものの考え方は,アリストテレス以来,欧米文化圏において主流の考え方であった。
 こうした信念の持ち主にとっては,自分を取り囲む世界を理解するために有効なのは,物事をきっちりと切り分け,切り分けられたそれぞれの部分がどのように作用するかを個別に理解するやり方(一般に分析的と呼ばれるやり方)である。
 こうした考え方を持っていれば,ある出来事に関わる瑣末なことまですべて含めて考えていては,話がややこしくなるばかりで明晰な思考とはならない。そうではなく,ある出来事の核心であるごく少数の事象だけを突き詰めて,一刀両断に判断することのほうが,むしろ望ましいと考えるに至るだろう。
 これに対して日本をはじめとした東アジア文化圏で特徴的に見られる包括的思考様式を一言でまとめれば,世の中は複雑であり,物事の本質を理解するためには,関連したさまざまな要因が複雑に絡まり合っているありよう,つまり物事の全体像を把握する必要があるという信念だといえる。こうした考え方には,東アジア文化圏で花開いた,儒教的なものの考え方や,老荘思想のものの考え方,そして東アジア仏教のものの考え方が反映されていることは想像に難くない。
 こうした信念の持ち主にとっては,自分を取り囲む世界を理解するためには,世界をまるごと眺める必要があるということになる。だから,物事の一部だけにとらわれて全体を見ることができないことを「木を見て森を見ず」などといって,劣った思考であると考える。そして,こうした局所的な思考をやめて,個々の部分にとらわれることなく全体像を眺め続けるというやり方こそが,物事の本質を知るのに一番有効であると考えられている。

増田貴彦 (2010). ボスだけを見る欧米人 みんなの顔まで見る日本人 講談社 pp.66-67

gの核心

 私の考察では,gの核心には,多重要求システムと心的プログラムの組み立てに果たすその役割がある。どんな課題においても,その内容が何であれ,課題遂行の異なる段階に対応する認知上の囲い地の連鎖がある。どんな課題に対しても,この連鎖は良くも悪くも作ることができる。良いプログラムでは,重要な段階が明瞭に限定され,分かれていて,誤った手段が避けられる。プログラムが悪いと,連続する段階がぼやけ,混同あるいは混合するようになる。前頭葉の患者の乱れた行動を見れば,あらゆる課題に,そして私たちがするあらゆることに,このリスクが存在することが分かる。思考と行動を順調に進行させるために,脳は常に警戒する必要があることが分かる。行動をこのように組織化するシステムは,きっとあらゆる種類の課題に寄与し,その効率が人によって変わるなら,普遍的な正の相関を生み出すだろう。
 レイヴンの行列のようなテストにおける多重要求活動——多くの種類の課題に対する多重要求システムの活動——の重要性,認知上の囲い地の創出におけるこのシステムの役割,あらゆる課題における正確な心的プログラミングの重要性。こういったことはすべてこれまでのgについての説明を強く支持している。しかし,これが唯一の説明なのだろうか?ほかの要因も普遍的な正の相関に寄与しているのではないか?
 答は分からないが,疑う理由があることは確かだ。gが遺伝子と環境のどちらに主に由来しているのかを問う論争が長い間続いていて,そういった論争のほとんどのものと同じように,答はきっと,どちらからもいくらかずつというものだ。環境に関しては,たとえば,電話番号を後ろから思い出すような短期記憶課題の集中的訓練のあとでレイヴンの行列の成績が向上するというような興味深い結果がある。一方で,gに影響する遺伝子の探索も進められていて,この研究は始まったばかりだが,答が出始めている。最も可能性が高いのは,gに大きな影響を与える1個あるいは数個の遺伝子はないというものだ。その代わりに,多くの遺伝子があって,そのそれぞれが小さな影響を与えているというものだ。さらに言えば,遺伝子が多重要求システムのような特定の脳システムだけに影響することはありそうにない。その代わりに,遺伝子は神経系全体に,そしてその外部にさえ,かなり一般的な影響を与えるようだ。
 上記のことは,普遍的な正の相関のもう1つの理由を示唆している。今度は,あらゆる課題で,同じ認知機能あるいは同じ脳機能に活動が要求されると考えられていない。その代わりに,脳全体で,すべての機能が,神経の発達に同じような幅広い影響を与える同じ遺伝子によって影響されることになりやすいと考えている。
 この2つの説明はいくつかの形で結びつくかもしれない。1つの可能性は,正の相関が本質的に異なる2つの理由から生じるというものだ。つまり,一部は,すべての異なる課題において共通の多重要求システムが関与するという理由から生じ,一部は,遺伝的(あるいはその他の)影響が脳の多くの異なる部位に共通に影響するという理由から生じるということだ。あるいは,2つの説明を関連づけることもできる。たとえば,多くの脳機能の中で,遺伝的変異に最も影響されるのが多重要求システムの機能であり,そのためレイヴンの行列のような,そういった機能のテストが,gの最も良い尺度になるということがありうる。いくつもの要因が正の相関をもたらすが,実際には,そのうちのいくつかがほかのものよりずっと重要であるということもありうる。

ジョン・ダンカン 田淵健太(訳) (2011). 知性誕生:石器から宇宙船までを生み出した驚異のシステムの起源 早川書房 pp.306-308

何かしてくれたのか?

 心的競合の世界で,最大のプレーヤーの1人は間違いなく感情だ。無愛想なティーンエイジャーに激怒し,配偶者に腹を立て,「私のためにいつか何かしてくれるというのか?」と何度思ったことだろう。そういった瞬間,ときどき,少し間をおくと気づくのだが,まさにその瞬間,その問いに実際には答えられない。まさにその瞬間,私の人生を価値あるものにするために,毎日,彼あるいは彼女がしてくれるすべてのことを実際には思い出すことはできない。これは,実に分かりやすい心的焦点,すなわち状況に一致した一連の現在の考えによる支配だ。まさにこの瞬間,怒りだけが支配し,怒りと一致した考えだけが姿を見せることになる。モンティ・パイソンがこのことを『ライフ・オブ・ブライアン』の中で完璧に表現している。「我々のためにローマ人はいつか何かしてくれたのか?」

ジョン・ダンカン 田淵健太(訳) (2011). 知性誕生:石器から宇宙船までを生み出した驚異のシステムの起源 早川書房 pp.273-274

分布の違い

 人種集団間のIQ分布の違いは,純然たる事実として,私にとってせいぜい科学的に物珍しいことでしかない。この事実は,個人ではなく集団全体として考えれば,驚くべきことではない。たとえば,米国の黒人と白人は,遺伝子や収入,学校教育,生活が異なっている。これらをすべて考慮すれば,IQの分布(あるいは他のどんな分布でもよい)がまったく同じだったときこそ驚くべきだろう。また,この事実は特に興味深くもない。差し迫った科学的問題や解決されれば有用な情報が得られそうな問題を提起していないからだ。様々な集団のIQ分布に潜在的に影響する,こうした多くの制御できない要因を考えれば,はっきりした説明がいつか簡単に手に入るとは想像しがたい。
 ところで,この事実に気を取られていると,真の政治的課題を忘れてしまう。たとえば,遺伝因子は人種差の1因かという問題をめぐり,長期にわたる論争が行われている。政治的にも科学的にも,この論争はまったく的はずれだと思われる。つまり,これは,私に言わせればせいぜい物珍しいことに過ぎない。個人ではなく全体の分布に関係する簡単には解けない問題なのだ。一方,論争の範囲を完全に超えているのが環境の影響だ。人生や業績が,教育や資源,両親や同輩の影響に関する機会によって形成されることを知るのにほとんど科学は必要ない。さらに,社会政治的に言えば,こういった機械の不平等こそが真に重要なことだ。それは,社会における不公平さと関わり,それによって無数の市民の人生を形成している。遺伝子とは違って,意志力を充分に発揮すれば,その問題には実際に取り組めるのだ。こうしたことに人種差別が実際に関係しており,それはまた抽象的な集団の差異ではなく,それぞれの人に機会や権利,価値を与え,敬意を払うかどうかに関係しているのだ。

ジョン・ダンカン 田淵健太(訳) (2011). 知性誕生:石器から宇宙船までを生み出した驚異のシステムの起源 早川書房 pp.77-78

たった1つの数値

 よくある反応は以下のようなものだ。人の性質が,たった1つの数,つまり1回のIQテストで得られた点数に還元されるはずがないではないか?人の価値が1つの数字でとらえられるはずがないではないか?それぞれの人は,多くのもの(無数の特殊な才能や,蓄積した個人的知識,個人の生涯をかけて築いた経験)の独自の集合体であり,無限の様相と色合いを持った個性的存在だ。そんな豊かさを立った1つの数字に還元することによって,gは,人間性の真の多様性と魅力をとらえそこなっているのではないか?
 人をたった1つの数字に還元する思想を攻撃する声を,これまでに私はたくさん聞いてきた。しかし,誰かがこの考えを擁護するのを聞いたことはないと思う。明らかに,スピアマンのg因子とs因子の理論は,このようなことをまったく意図していない。この理論は,gの概念において,人間性に関するあることを提示している。多くの一連の研究は,それが重要であることを示している。しかし,この理論は,同様に重要なその他無数のことも様々な形で認めている。確かに,どんな科学の理論であれ,同時にすべてのことを扱うのを期待するのは無理だ。
 価値に関しては,スピアマンの理論の範囲外だ。私たちは会う人を無数の尺度,つまり,誠実さ,笑い方,礼儀正しさ,威厳,魅力,冷静さ,忠誠心などで評価する。私たちは,スキーのジャンプ競技の選手,芸術家,圧制と戦う人,他人を守る人,屈服しない人,自分自身の関心より他人の関心を優先できる人を賞賛する。私たちは数えきれないさまざまな尺度で,人を評価し,愛する……しかし,これはスピアマンの理論が関与することではない。この理論が関与するのは,人間の行動に関する並外れて優れた観察と,どのようにその観察を説明するかに関してだ。
 同様の考え方が,よく行われる新しい種類の「知能」の定義,すなわち実際的知能,社会的知能,感情的知能に反映されている。スピアマンの時代以降理解されてきたように,人は無数に多様であり(実は,このことを示すのに科学はほとんど必要ない),多くの種類の「知能」を定義することによってこのことをとらえるのも,なんとなく正しいように思われる。それどころか,前に説明したように,「知能」という言葉自体,明確な意味をほとんど持っていない。お望みなら,数個のことだけを「知能」と呼ぼうが,多くの異なることを「知能」と呼ぼうが自由だ。人間の性質と能力には無数の変種があり,それらの重要性は,それらをどう呼ぶかによって影響されない。

ジョン・ダンカン 田淵健太(訳) (2011). 知性誕生:石器から宇宙船までを生み出した驚異のシステムの起源 早川書房 pp.74-76

流動性と結晶性

 1960年代に,心理学者のレイモンド・キャッテルは,「流動性」知能と「結晶性」知能の区別を導入した。流動性知能は,新規の問題を解く現在の能力に関係する。この能力は,レイヴンの行列のような課題を用いて測られることが多い。したがって,流動性知能はスピアマンのgとほぼ同じだ。どこまで成功しているかは議論の余地があるが,レイヴンの行列のようなテストは,種々の文化において使えるように特別に作られており,特定の教育への依存を最小にしようとしている。対照的に,多くの一般的なIQテストは,特定の文化における教育の産物であることが明白で,もっぱらそれだけからなる材料も用いている。語彙や算数のテストがその例だ。キャッテルはそういったものを「結晶性知能」,あるいは習得された知識のテストと呼んだ。
 よく似た文化的背景を持つ若者の標準的な例では,流動性知能のテストと結晶性知能のテストは強い相関を示すことがある。キャッテルの考えは,高い流動性知能を持った人は教育からより多くを学ぶ傾向があるだろうというものだ。もっとも,結晶性知能を測るとき,実際にはその人の今の状態を測っていない。ある人が知識を学んだとき,どのようであったかを測っている。いったん学んでしまえば,その知識は結晶化される。結晶化とは,いったん学んだ単語は残りの人生のあいだかなり安定で,いつでも使うことができるという意味だ。

ジョン・ダンカン 田淵健太(訳) (2011). 知性誕生:石器から宇宙船までを生み出した驚異のシステムの起源 早川書房 pp.72

g飽和度

 スピアマンの理論の数学を用いてできることがもう1つある。再び,たとえば10個の課題のバッテリーを多くの人々にやってもらったと想像してほしい。結果として得られるのは,個々の課題とそれ以外の課題の相関のリストだ。10個の課題を用いるなら,45個の相関が得られるだろう。これまで見てきたように,実際のデータにおいて,それらはすべて正になる。ただし,あるものは他のものよりずっと大きくなるだろう。大雑把な経験則として,実際に目にする最高値は0.6程度で,最低値は0.1程度だろう(ここでは,課題をできるだけ異なるものになるようにしたと仮定している。非常によく似た課題では高い相関を示すだろう。スピアマンの理論で説明されるように,gだけでなくsも共有しているからだ。たとえば,2つの課題が両方ともラテン語の語彙力を測定していれば,それらの相関は他のものよりずっと強いものとなるだろう)。これらの相関のパターンから,個々の課題のg飽和度(g saturation)と呼ばれるものを計算できる。これは,その課題の成績がどれくらい強くg自体と相関しているかを示すものである。言い換えると,その課題がどれくらいよく,sではなくgを測っているかを示す。
 ここでも,正確な方法を知ることは重要ではない。その直観的理解は大切だ。大部分sで,gがほとんどない課題がある。こういった課題にとって最も重要なものは特殊能力であり,加えてgからの寄与がほんの少しだけある。成績は主にsで決まるので(このsは,その他の活動のすべてのs因子と異なっている),こういった課題は一般的に他のものとは低い相関を示す。逆に,大部分がgで,sからの寄与がほとんどない課題もある。こういった課題の成績は大部分がgで決まるので,他との相関は高くなる傾向がある。おおまかに言えば,バッテリー内の個々の課題のg飽和度は,他との相関の平均から導き出される。

ジョン・ダンカン 田淵健太(訳) (2011). 知性誕生:石器から宇宙船までを生み出した驚異のシステムの起源 早川書房 pp.63-64

bitFlyer ビットコインを始めるなら安心・安全な取引所で

Copyright ©  -- I'm Standing on the Shoulders of Giants. --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]