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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「パーソナリティ・個人差」の記事一覧

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ポリジーンモデル

おそらく一般的な遺伝子に関する理解は,パーキンソン病の遺伝子,モノアミン酸オキシダーゼ分解酵素遺伝子などのように,個々の遺伝子がそれぞれ特定の機能を有する,いわば分解酵素遺伝子などのように,個々の遺伝子がそれぞれ特定の機能を有する,いわば固有名詞化された単位であろう。ポリジーンを構成する遺伝子も,その1つひとつはそれぞれに特定の機能を有するものである。しかしポリジーンモデルにおいては,個々の機能が何かということは考慮されず,すべてが等しくある量的形質に関与する匿名化された集合体として考える。たとえば身長という量的形質は,大腿骨の長さ,脊椎や頚椎の1つひとつの大きさや全体の並び具合など,たくさんの個別要素の総和であり,それぞれに複数の遺伝子が関与していると考えられる。もちろん実際には個々の遺伝子が身長に寄与する量的な程度も質的機能もそれぞれに異なるはずだが,モデルとしては量的な効果についてそれらを平均化して,同義性を持つと考える。ちょうどオーケストラにおけるバイオリンパートが,1人ひとりは個性を持ったバイオリニストの音でありながら,個人は匿名化され1人ひとりの音質や大きさは平均化されて,全体としての和が意味を持つのに似ている。

安藤寿康 (2011). 認知の個人差と遺伝 日本認知心理学会(監修) 箱田裕司(編) 現代の認知心理学7 認知の個人差 北大路書房 pp.103-129
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遺伝的分散の存在

ここで「ある形質が遺伝する」ということは,その形質に関する遺伝的分散が存在することを意味する。つまりTurkheimerの行動遺伝学の第1原則によれば,人間行動のあらゆる形質に遺伝的分散が存在する。この問題は,自然淘汰による進化の原則と並べて考えた時に複雑な疑問をもたらす。なぜなら,先に述べたように,自然淘汰は適応に関する形質について遺伝的に均質な集団(遺伝的分散のない集団)をつくり出すプロセスだからである。もしある形質に関する遺伝的分散が見られるならば,まだ自然淘汰による適応が生じていないのか,または自然淘汰の対象とならない適応度の差がない分散であることが示唆される(Fisher, 1930)。

平石 界 (2011). 認知の個人差の進化心理学的意味 日本認知心理学会(監修) 箱田裕司(編) 現代の認知心理学7 認知の個人差 北大路書房 pp.76-102

背景要因

進化の視点から人間行動を研究する進化心理学や人間行動生態学であるが,それらの分野において個人差の問題はあまり取り扱われてこなかった。その背景をBuss(2009)は2つ挙げている。
 第1に,個人差を説明予測する強力な進化理論が存在しなかったことがあげられる。実際,動物行動への進化的説明を与える最適採餌理論,性淘汰理論,血縁淘汰理論,互恵的利他主義の理論といった強力な処理論と比べた時に,後述の頻度依存淘汰の理論をのぞき,個人差(個体差)を扱う理論は,少なかったといえる。
 第2に,自然淘汰は適応形質について遺伝的に均質な集団を生み出すものであるという先述の原理から,逆説的に,集団内に維持されている遺伝的な変異は,適応上たいして重要な意味を持たないとするとらえ方があったためである(Tooby & Cosmides, 1990)。

平石 界 (2011). 認知の個人差の進化心理学的意味 日本認知心理学会(監修) 箱田裕司(編) 現代の認知心理学7 認知の個人差 北大路書房 pp.76-102

個人差を考慮する

個人差を問題にするもう1つの大きな理由は,個人差を検討することによって,イメージに関するより洗練された理論やモデルに到達できる可能性があるからである。個人差を研究のための主要な変数としない場合,個人差によるデータの変動は平均化によって相殺するか,あるいは誤差とみなして処理するような方法がとられる。この結果得られるのは,「平均」的なイメージ処理過程に関する知見ということになる。他の認知機能と同様,イメージの特性や機能も複数の下位過程によって実現されている(Kosslyn, 1980, 1994)。したがって,もし,ある下位過程のはたらき方の違いが個人差を生じさせるのだとすると,上述のような平均化によって得られた処理過程には,この下位過程の存在が十分には反映されていないことになる。前述したように,イメージにはきわめて大きな個人差がある。つまり,個人差を生じさせるような下位過程が,イメージ処理過程全体に占めるウェイトが大きいということである。したがって,個人差を積極的に研究することで,より精巧なイメージ理論の構築も可能になると期待される(菱谷, 1984)。

菱谷晋介 (2011). イメージ能力の個人差 日本認知心理学会(監修) 箱田裕司(編) 現代の認知心理学7 認知の個人差 北大路書房 pp.52-75

高低の要因

自尊感情はさまざまな要因で高くなったり低くなったりします。
 例えば学校の試験で平均以下の成績であった,成績が大きく下がったということがあれば,その事実に悩み自尊感情は下がるでしょう。しかし,運動能力や,友人の間での人気など,その他の点で自らの価値を感じていれば,その子どもは自分自身についての客観的な情報と,その情報に対する主観的な評価を結びつけること(今回成績は悪かったが,スポーツで挽回しよう。あるいはみんなに聞いてみよう,……など)によって,自分の自尊感情を高く保持することができます。
 逆に自尊感情が低ければ,1つの悪い情報をきっかけに,そこから脱却できなくなるのです。
 自分自身を評価するには多くの尺度があります。他の人よりも1つ,2つは苦手な尺度があっても,逆にすぐれている尺度もあり,そしてそれが自分である,だからそのよいところを生かしていこう……という前向きの考えができるかどうか。これができれば,自尊感情を保つことができます。この能力は社会生活,対人関係を保つうえで,最も重要な要素です。成績,運動能力,見かけなどは,1つの尺度にすぎないのですから。

古荘純一 (2009). 日本の子どもの自尊感情はなぜ低いのか:精神科医の現場報告 光文社 pp.49-50

自分で

では,仕事でなかったら,何で人間の価値が決まるのだろう?
 それは,人それぞれである。仕事以外にも,人はいろいろな行動をする。沢山のことを考える。そういったものすべてで,それぞれに,いろいろな方法で,社会に貢献できる。また,たとえ社会に大きな貢献をしなくても,幸せに生きている人だっているわけで,それも自由だと思う。つまりは,自分がどれだけ納得できるか,自分で自分をどこまで幸せにできるか,ということこそが,その人の価値だ。その価値というのは,自分で評価すれば良い。

森博嗣 (2013). 「やりがいのある仕事」という幻想 朝日新聞出版 pp.58-59

個人・環境適合性

大人たちは自分たちをそういう状況に押しこむことは絶対にしないだろうに,なぜ子供たちに杓子定規な環境を与えているのだろう?「変わっている」と思われていた子供が,大人になって「花開いた」のに驚かされるというのは,よくある話だ。それは「変身」したと表現される。だが,本当に変化するのは,子供ではなく環境なのかもしれない。大人になれば,職業や配偶者や,つきあう相手を自分で選ぶようになる。自分の意志と関係なく放り込まれた世界で暮らす必要はなくなるのだ。「個人・環境適合性」という観点からして,人間は「自分の性格と一致した職業や役割や状況にあるときに」活躍すると心理学者のブライアン・リトルは言っている。この逆もまた真実である。感情的に脅かされるとき,子供は学ぶのをやめてしまう。

スーザン・ケイン 古草秀子(訳) (2013). 内向型人間の時代:社会を変える静かな人の力 講談社 pp.323
(Cain, S. (2012). Quiet: The power of introversion in a world that can’t stop talking. Broadway Books: St. Portlamd, OR.)

外向型の子用

現実には,多くの学校は外向型の子供たち向けにつくられている。内向型には外向型とは異なる種類の指導が必要だと,ウィリアム・アンド・メアリー大学で教育学を教えているジル・ブルスとリサ・カンジグは言う。また,「内向型の生徒に対しては,もっと外向的になりなさい,社交的になりなさいと助言する以外に選択肢がほとんどないのが現状だ」とも語った。
 私たちは大人数のクラスで教えるのが当然だと思い込んでしまっているが,じつはそんなことはない。大人数のクラスに生徒をまとめるのは,それが効率的だからであり,大人たちにはそれぞれ仕事があるため,それ以外の方法が考えにくかったからだ。もし,あなたのお子さんがひとりで勉強したがったり,友達と1対1で話すのが好きだったりしても,なにも間違ってはいない。それはたんに,世の中の一般的なやり方にそぐわないだけの話だ。学校の目的は,子供たちに社会へ出て生活するための準備を整えさせることであるはずなのに,現実には,学校生活で生き残るためにはどうすればいいかが重大問題になってしまいがちだ。

スーザン・ケイン 古草秀子(訳) (2013). 内向型人間の時代:社会を変える静かな人の力 講談社 pp.322
(Cain, S. (2012). Quiet: The power of introversion in a world that can’t stop talking. Broadway Books: St. Portlamd, OR.)

外向性と友人

 言い換えれば,外向性の度合いはあなたの友人の数を左右するが,友情の質は左右しない。心理学者のイェンス・アスペンドルフとスーザンヌ・ヴィルパースは,ベルリンのフンボルト大学の学生132人を対象にした実験で,彼らの性格特性が仲間や家族との関係にどんな影響を与えているかを探ろうとした。アスペンドルフらは,「外向性・内向性」「調和性」「開放性」「勤勉性」「神経症傾向」の5つからなる主要5因子性格モデルと呼ばれるものに注目した(数多くの性格心理学車が,人間の性格はこの5つの因子の組み合わせで要約できると考えている)。
 アスペンドルフとヴィルパースは,外向型の学生は新しい友人関係になじみやすいと予想し,実際にその通りだった。だが,もし外向型が向社会的で内向型が反社会的なのだとしたら,もっとも調和的な友人関係を育むのはもっとも外向的な学生のはずだ。だが,これはまったくあてはまらなかった。実際には,友人関係でもっとも衝突が少ないのは,調和性が高得点の学生だった。調和的な人は温かく,協力的で愛情深い。性格心理学者たちは,彼らをパソコン画面の前に座らせると,「誘拐する」「攻撃する」「悩ます」といった言葉よりも「親切」「慰め」「助力」といった言葉により長時間集中することを発見した。内向型と外向型の調和性は同程度だった。このことは,外向型の一部が人づきあいの刺激を好むものの,とくに親しい関係を築かないことを説明している。

スーザン・ケイン 古草秀子(訳) (2013). 内向型人間の時代:社会を変える静かな人の力 講談社 pp.287
(Cain, S. (2012). Quiet: The power of introversion in a world that can’t stop talking. Broadway Books: St. Portlamd, OR.)

自由特性理論

 リトル教授(引用者注:Brian Little教授)のような極端に内向的な人物がなぜ人前ですばらしい講演ができるのか,読者の皆さんは不思議に思われるだろう。その理由は簡単だと,彼は言う。そして,それは「自由特性理論」と呼ばれる,彼がほぼ独力で築いた心理学の新理論と関連している。固定した特性と自由な特性は混在すると,リトルは信じている。自由特性理論によれば,私たちは特定の性格特性を持って生まれるが——たとえば内向性だ——自分にとって非常に重要な事柄,すなわち「コア・パーソナル・プロジェクト」に従事するとき,その特性の枠を超えてふるまえるのであり,実際にふるまっているのだ。
 つまり,内向型の人は自分自身が重要視する仕事や。愛情を感じている人々,高く評価している事物のためならば,外向型のようにふるまえる。内向型の夫が愛する外向型の妻のためにサプライズパーティを仕掛けたり,親の学校でPTAのような役員になったりするのは,自由特性理論で説明がつく。外向型の科学者が研究室でおとなしくしているのも,物わかりのいい人物がビジネス上の交渉では頑固になるのも,つむじ曲がりのおじさんが姪にはやさしくアイスクリームを買ってやるのも,すべて説明できる。自由特性理論はさまざまな状況で適用できるものの,とくに外向型を理想とする社会で生きている内向型にぴたりとあてはまる。
 リトルによれば,内容が重要であり,自分の能力に適し,過度のストレスがかからず,他人の助力を受けられるようなコア・パーソナル・プロジェクトに関わるとき,私たちの人生は大きく高められる。誰かに「うまくいっているかい?」と尋ねられて,何気ない返事をするとき,じつは私たちはコア・パーソナル・プロジェクトがどれほどうまく運んでいるかを答えているのだ。

スーザン・ケイン 古草秀子(訳) (2013). 内向型人間の時代:社会を変える静かな人の力 講談社 pp.263-264
(Cain, S. (2012). Quiet: The power of introversion in a world that can’t stop talking. Broadway Books: St. Portlamd, OR.)

状況論争から

 だが,「生まれつきか育ちか」論争が相互作用論——両方の要素が作用して性格を形成し,しかも両者はたがいに作用し合っているとする考え方——に取って代わられたのと同じように,「人間——状況」論争はもっと微妙な見解にその座を奪われた。私たちが午後6時には社交的な気分でも午後10時には孤独であり,そうした変化は現実に存在し,状況に左右されると,性格心理学者は認めている。また,そうした変化にもかかわらず,固定した性格というものは存在するのだという前提を支持する証拠が数多く登場してきたことを,彼らは強調している。
 最近では,ミッシェルまでもが性格特性の存在を認めているが,それらにはパターンが有ると彼は信じている。たとえば,対等者には攻撃的だが権威者には従属的で従順な人々がいる。その逆の人々もいる。「拒絶に敏感な」人々は,安心を感じているときには思いやり深く愛情に満ちているが,拒絶されたと感じると,とたんに敵対的で支配的になる。

スーザン・ケイン 古草秀子(訳) (2013). 内向型人間の時代:社会を変える静かな人の力 講談社 pp.260-261
(Cain, S. (2012). Quiet: The power of introversion in a world that can’t stop talking. Broadway Books: St. Portlamd, OR.)

最適レベルの刺激

 1960年代終わりから数十年にわたって,著名な心理学者のハンス・アイゼンクは,人間は強すぎもせず弱すぎもしない「最適な」レベルの刺激を求めているという仮説を主張した。刺激とは,私たちが外界から受ける力のことで,さまざまな形をとり,たとえば騒音も社交もまぶしい光も刺激となる。アイゼンクは,外向型の人は内向型の人よりも強い刺激を好み,このことが両者の違いの多くを説明すると信じた。内向型の人がオフィスのドアを閉めて仕事に没頭するのを好むのは,そうした静かで知的な活動こそが彼らにとって最適の刺激だからであり,それに対して,外向型の人はチームビルディングのためのワークショップのまとめ役とか会議の司会など,より積極的で明るい活動に従事しているときがもっとも快適に感じる。
 アイゼンクはまた,こうした違いは上行性網様体賦活系(ARAS)という脳の組織にもとづいているのだろうと考えていた。ARASは大脳皮質と他の部分とを結ぶ脳幹の一部分である。脳は私たちを目覚めさせたり活動的にさせたりするメカニズムを備えている。心理学者が言うところの「覚醒」だ。逆に,鎮静させるメカニズムも備えている。アイゼンクは,ARASが脳へ流れる感覚刺激の量をコントロールすることによって覚醒のバランスを取っているのだろうと推論した。通路が広く開いていれば多くの刺激が入り,狭くなっていれば脳への刺激は少なくなる。内向型の人と外向型の人とではARASの機能が異なるのだと,アイゼンクは考えた。内向型は情報が伝わる通路が広いので,大量の刺激が流れ込んで覚醒水準が高くなりすぎ,それに対して,外向型は通路が狭いので,覚醒水準が低くなりすぎることがある。覚醒水準が高すぎると,不安をもたらし,しっかりものが考えられなくなるような気がして,もう十分だから帰りたいという気持ちになる。逆に低すぎると,閉所性発熱(訳注 悪天候などで狭い室内に長時間閉じ込められることによって精神的に参ってしまった状態)のようになる。いらいらして落ち着きを失い,家から出たくてたまらないときのような気持ちになる。
 現在では,現実はもっと複雑だと私たちは知っている。そもそも,ARASは消防車のホースのようにスイッチひとつで刺激を流したり止めたりしないし,脳全体をたちまち溢れさせたりもしない。脳のあちこちの部分をバラバラに覚醒させる。さらに,脳の覚醒レベルが高くなっても,あなた自身は必ずしもそれを感じるとはかぎらない。また,覚醒にはいろいろな種類がある。大音量の音楽による覚醒は,迫撃砲砲火による覚醒とは違うし,会議のまとめ役をつとめることによる覚醒とも違う。刺激の種類によって必要とする感受性の強弱は違ってくるだろう。私たちがつねに適度なレベルの覚醒を求めているというのは単純すぎるのではないか。サッカーの試合の観客は激しい興奮を求めているし,リラクゼーションのためにスパを訪れる人々は穏やかな雰囲気を求めている。
 もっとも,世界中の科学者たちが1000件以上もの研究によって,皮質の覚醒レベルが外向性と内向性の重要な鍵となっているというアイゼンクの理論を検証し,心理学者のデヴィッド・フンダーはさまざまな重要な点で「なかば正しい」と言っている。根底にある原因はさておき,コーヒーや大きな音などさまざまな刺激に対して,内向型の人が外向型の人よりも敏感だと示す証拠は多数ある。そして,内向型と外向型とでは,活動するために最適な刺激のレベルは大きく異なる。

スーザン・ケイン 古草秀子(訳) (2013). 内向型人間の時代:社会を変える静かな人の力 講談社 pp.156
(Cain, S. (2012). Quiet: The power of introversion in a world that can’t stop talking. Broadway Books: St. Portlamd, OR.)

(引用者注: David Funderは「ファンダー」と書くほうが発音に近い)

雄弁であること

 もし,物静かなタイプと声高なタイプがほぼ同数ずつ,それぞれの考えを持っているとすると,雄弁で説得力のある後者がつねに勝利を得ることになるのではないだろうか。となれば,悪い考えが良い考えを押しつぶして勝利するという事態が,しばしば起こりかねないだろう。実際に,集団の力学に関する研究は,それが現実だと示唆している。私たちはしゃべる人のほうが物静かな人よりも頭がいいと認識する——たとえ学校の成績や大学進学適性試験(SAT)や知能指数が,その認識が正しくないことを示していても,面識のない2人を電話でしゃべらせる実験では,よくしゃべる人のほうが知的で外見がすぐれ,感じがいいと判断された。さらに,私たちはよくしゃべる人をリーダーとみなす。会議の場でしゃべればしゃべるほど,その場にいる人々は彼に注意を向け,会議が進むにつれて彼はパワーを増す。早口でしゃべることもそれを助長する。一般に,口ごもりながらしゃべる人よりも,立て板に水のようにしゃべる人のほうが有能であるとみなされる。

スーザン・ケイン 古草秀子(訳) (2013). 内向型人間の時代:社会を変える静かな人の力 講談社 pp.71-72
(Cain, S. (2012). Quiet: The power of introversion in a world that can’t stop talking. Broadway Books: St. Portlamd, OR.)

性格の北極と南極

 私達の人生は性別や人種だけでなく,性格によっても形づくられている。そして,性格のもっとも重要な要素は,ある科学者が「気質の北極と南極」という言葉で表現した,内向・外向のスペクトラムのどこに位置しているかである。この連続したスペクトルのどこに位置しているかが,友人や伴侶の選択や,会話の仕方や,意見の相違の解消方法や,愛情表現に,影響をもたらす。どんな職業を選んで,その道で成功するか否かを,左右する。運動を好むか,不倫をするか,少ない睡眠で働くか,失敗から学べるか,株相場に大きく賭けるか,短期的な満足を求めないか,優秀なリーダーになるか,起きるかもしれないことをあれこれ想像するか,といったさまざまな性質を決定づける。さらに脳の神経回路や神経伝達物質や神経系の隅々にまでしっかり反映されている。現在では,内向性と外向性は性格心理学の分野で徹底的に研究されているテーマのひとつであり,数多くの科学者の興味をそそっている。

スーザン・ケイン 古草秀子(訳) (2013). 内向型人間の時代:社会を変える静かな人の力 講談社 pp.5
(Cain, S. (2012). Quiet: The power of introversion in a world that can’t stop talking. Broadway Books: St. Portlamd, OR.)

サイコパスと自己愛

 サイコパシーとの比較において,ナルシシズムはとりわけ興味深く示唆にとんでいる。ナルシシズムは,言ってみれば,サイコパシーを半分にしたようなものだ。病的な自己愛者も,罪悪感から悲しみ,絶望的な愛情から情熱まで,ほかの人とおなじように強い感情をもつ。欠けているのは,ほかの人の気持ちを理解する能力である。ナルシシズムには良心ではなく,感情移入の能力,つまり他人の気持ちを感じとって適切に反応する能力が欠けているのだ。
 ナルシシストは感情的に自分以外のものは目に入らず,ピルズベリー社のキャラクター,ドゥーボーイのように,外からのものはすべて跳ね返して受けつけない。そしてサイコパスとちがってナルシシストは心理的に苦痛を負い,セラピーを求めることが多い。ナルシシストが抱える問題の1つは,感情移入の能力を欠いているため,本人の知らないあいだに人との関係がこじれ,見捨てられて困惑し,孤独を感じることだ。愛する相手がいなくなったのを嘆くが,どうすれば取り戻せるかわからない。
 対照的にサイコパスは,ほかの人びとに関心をもたないため,自分が疎外され見捨てられても嘆いたりしない。せいぜい便利な道具がなくなったのを残念に思うくらいのものだ。

マーサ・スタウト 木村博江(訳) (2012). 良心をもたない人たち 草思社 pp.170-171

サイコパスの武器

 少しばかり込み入っているが,人びとの良心の目がくもらされるのは,社会を成立させるために必要なプラスの要素を,サイコパスが武器として使うためだ。共感,性的きずな,社会的・職業的役割,やさしさや創造力にたいする敬意,よりよい世界を目指す意欲,権威をもった規律などである。

マーサ・スタウト 木村博江(訳) (2012). 良心をもたない人たち 草思社 pp.130

心をつかむ

 サイコパスはだれかを恰好の獲物と見てとると,その相手をじっくりを観察する。どのように相手を操作し利用すべきか,そのためには相手をどのようにうれしがらせ魅了すべきか,考える。そしてさらに,サイコパスは親近感を強めるこつを心得ていて,犠牲者に自分と似たところがあると言って近づく。犠牲者はサイコパスと縁が切れたあとまで,自分の心をつかんだ台詞をよく覚えている。「ぼくと君は似た者同士だ」「あなたとは心が通じあえるの」などだ。あとから振りかえれば,これらの台詞はまさに屈辱的だが,相手の心をつかむことに変わりはない。

マーサ・スタウト 木村博江(訳) (2012). 良心をもたない人たち 草思社 pp.126

優先順位の高い行動

 強欲なサイコパスは,ほかの人たちと同じ恵みをあたえられていない自分は,人生で不当にあつかわれていると思いこむ。そしてほかの人間の人生をひそかに破壊することによって,おたがいの立場を同等にすべきだと考える。自分は自然や環境や運命に軽んじられていると思い,ほかの人をおとしめることが,力をもつための唯一の手段と考えるのだ。そしてたいてい,標的にされたとは夢にも思っていない相手に報復をすることが,強欲なサイコパスの人生で最も重要で,もっとも優先順位の高い行動になる。

マーサ・スタウト 木村博江(訳) (2012). 良心をもたない人たち 草思社 pp.108

SPI

 ところでSPIのPはPersonality(パーソナリティ)のPである。SPIの性格適性検査では,まさしくこのパーソナリティがテストされる。しかし,そんなことは可能なのか。またなんのために必要なのか。SPIについてのあるネット情報は,適性検査で試される職種と性格の対応関係のわかりやすい例として,事務職と営業職の違いをあげている。それによれば,「事務職では落ち着いてミスなく作業を進められ,なおかつ持続性のある性格の人材」が適しており,「営業職では社交性があり,意欲的な性格の人材」が適しているという。これは説明になっていない。事務職の適性とされている性質は,営業職に就く人が備えていてもなんら差し支えない。口数が少なく,人付き合いが苦手な人が,温厚・誠実な人柄で顧客の信頼を得て,営業で好成績をあげることはありうることである。

盛岡孝二 (2011). 就職とは何か:<まともな働き方>の条件 岩波書店 pp.8-9

無害なマゾヒズム

 人々が引きもきらずに強い不快感を催す映画を観ようとするもうひとつの理由は,ポール・ロジンが「無害なマゾヒズム」と名づけた,人間ならではのひねくれた性質である。無害なマゾヒズムとは,たとえばホラー映画を観たり,燃えるように辛いチリペッパーを食べたり,ジェットコースターに乗ったりするという,本来は好ましくなく,生物学的な利点もないことを求めて喜びを得ることなのだが,これはまた人々がなぜ嫌悪を催すようなセックスを観たがり,幻想を抱きたがるかの説明にもなる。こうした性行為は,私たちの心中あるいは映画館のスクリーンでしか存在しないので害はない。私たち自身に危害が及ぶことはない。危険を伴わない穢らわしさは,時にセクシーなのである。穢らわしいものに対しては,嫌悪感を抱きながらも,魅惑される。そして実際に身体を傷つけられたり何かに汚染されたりするのでなければ,私たちはヒエロニムス・ボスが描いたような,罪深き悦楽に耽ることができるのだ。また,ホラーやグロスアウト(げんなりする)映画に出かける観客らを見ると,少なくとも一部の男性にとっては,セックスや気持ちの悪いものを観た興奮が相乗効果を生み,映画鑑賞後に性的に興奮していることもわかった。

レイチェル・ハーツ 綾部早穂(監修) 安納令奈(訳) (2012). あなたはなぜ「嫌悪感」を抱くのか 原書房 pp.230

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