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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「政治・法律」の記事一覧

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引用の条件

ブログやホームページに取り込んでよいということは,「コピー」だけでなく「送信」もOKだということですね。ただし,次のような条件を満たすことが必要です。
 ◆「自分自身の著作物」の中に「部品」として取り込むこと(他人のものだけを集めてきて「全部引用です」というのはダメ)。
 ◆「自分が書いた部分」と「他人が作った部分」(引用した部分)が,カギカッコなどによって明確に区別されていること。
 ◆「批評の対象」「研究の対象」「自分の考えの根拠」などとして使うこと(他人の絵や写真などを「単なるかざり」として引用するのはダメ)。
 ◆「必要性」がある部分を引用していること(俳句を批評する場合など,必要性があれば「全体」を引用できるが,必要性がない部分を引用するのはダメ)。
 ◆どこから持ってきたかを明示すること(元々のっていた本やサイトの名前などを明示すること)。
 ではここで,1つ質問です。
 「ポケモン」の絵をみなさんのブログやホームページに無断でのせることは可能でしょうか。
 答えは,「条件を満たす引用なら可能」です。例えば,「ポケモンの絵を批評する」という場合には,「引用」してのせることができるわけです。
 逆に言うと,「単なる装飾」としてのせると,著作権侵害になってしまいます。

岡本 薫 (2011). 小中学生のための 初めて学ぶ著作権 朝日学生新聞社 pp.161-162
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権利と権利

著作権を保護すべきことは,「国際人権規約」という条約にも規定されていますので,著作権は人権の1つだとも言えます。人権なのになぜ例外があってよいのかというと,それは,「他人も別の人権を持っている」からです。
 例えば,すべての人は憲法で保障された「言論の自由」という人権を持っています。ですから,本来は「何を言っても自由」であるはずですね。
 しかし,人々は同時に,「名誉を傷つけられない」という人権も持っています。
 ですから,だれかが「言論の自由」という人権を使って,「何かを言う」(例えば悪口を言う)ことによって,他人が持っている「名誉を傷つけられない」という別の人権を,侵害してしまう場合があるわけです。
 このように,「人権と人権がぶつかり合う」ような場合には,「どちらを優先するのか?」ということを,「法律ルールで決めておく」という必要があるわけです。
 日本では,「言論の自由」と「名誉を傷つけられない権利」がぶつかり合う場合には,「名誉を傷つけられない権利」の方を優先する——という法律ルールになっています。
 このため,「言論の自由」という人権があっても,「他人の名誉を傷つけるようなこと」は,言ってはいけないのです。

岡本 薫 (2011). 小中学生のための 初めて学ぶ著作権 朝日学生新聞社 pp.155-156

多数の権利者

このように,いろいろな権利が重なっていますので,「1つの行為」について,多数の権利者の権利がおよぶことがあります。もっとも複雑な場合を示しておきましょう。
 ◆Aさんが音楽を作詞・作曲しました(Aさんが「作った人の著作権」を持つ)。
 ◆その曲をBさんが(Aさんの了解を得て)ライブコンサートで歌いました(Bさんが「伝えた人の著作権」を持つ)。
 ◆そのコンサートをCレコード会社が(Aさん・Bさんの了解を得て)録音し,CDを発売しました(C社が「伝えた人の著作権」を持つ)。
 ◆そのCDを(Aさん・Bさん・C社の了解を得て)D放送局が放送しました(D局が「伝えた人の著作権」を持つ)。
 この場合,もしだれかが,そのD放送局の「番組」を無断で録音し,多数のCDにコピーして販売したとすると,A・B・C・Dの4者から,同時に訴えられる可能性があるわけです。

岡本 薫 (2011). 小中学生のための 初めて学ぶ著作権 朝日学生新聞社 pp.126

多くなる権利

まず,「映画」が発明されました。映画を「演じる」とは言いませんね。映画は「上映する」ものです。このため「無断で上映されない権利」が作られました。
 次に,「放送」が発明されました。放送を「上映する」とは言いませんね。そこで「無断で放送されない権利」が作られました。
 さらに,「オンデマンド送信」(受信者がアクセスしたものだけを送信する方式)の時代になりましたが,それは「放送」とはちがいます。そこで,実は日本が世界で初めて,インターネットに対応した「無断で送信されない権利」を作りました。
 実は,「無断でレンタルされない権利」も,日本が世界で初めて作ったものです。
 こうした流れの中で,だれかがおそらく「しまた。最初から『公衆に伝わったという結果を無断で作られない権利』にしておけばよかった」と気づいたでしょう。
 「コピー」の場合と同じように,「結果として人々に伝わった」という状態を(方法を問わず)無断で作られない権利としておけば,権利は1つでよかったのです。
 でも,もうおそいですね。全体を変えるのは大変です。そこでどの国も,この系統の権利は,非常に多くなっています。

岡本 薫 (2011). 小中学生のための 初めて学ぶ著作権 朝日学生新聞社 pp.87-88

著作権と特許権

「料理を作った」という場合は,「こうすればこの料理ができる」という「アイデア」を利用しました。しかし,「本に書かれた文章としての表現」はコピーしていません。だから著作権侵害にはならないのです。
 しかし,「本をコピーした」という場合は,「料理のアイデア」は使っていませんが,「文章としての表現」を,「コピーする」という形で利用しました。だから著作権侵害になるのです。
 これが,「表現は保護される」が「アイデアは保護されない」ということです。実は,「アイデア」を保護するのが,「特許権」というものの役割です。別の例で考えてみましょう。
 例えばここに,「新しい薬の製法」が書かれた「論文」があるとしましょう。その製法(発明としてのアイデア)には,特許権があたえられているとします。この場合,「論文」(文章としての表現)は著作権で保護されており,「製法」(アイデア)は特許権で保護されることになります。
 ここで,ある人が,その論文を読んだとしましょう。読んだ後に,その人が無断で「論文をコピーした」のなら著作権侵害になり,無断で「その薬を作って売った」のなら特許権侵害になるのです。ちがいが分かりましたか?

岡本 薫 (2011). 小中学生のための 初めて学ぶ著作権 朝日学生新聞社 pp.58-59

保護

そうした権利があたえられている状態のことを「保護されている」と言います。例えば,「個人情報は,法律で保護されている」とか「コンテンツは,法律で保護されている」という言い方です。
 なぜ「保護」と呼ぶかというと,例えば,自分の名誉を傷つける情報がネットに流されてしまった場合,流した人を警察や裁判所に「訴えることができる」からです。
 そこから先は,警察や裁判所など,「国家の機関」が,権利者を守るために,侵害に対応してくれますので,国が「保護している」ということになるわけです。

岡本 薫 (2011). 小中学生のための 初めて学ぶ著作権 朝日学生新聞社 pp.28

言論の自由

例えば,「言論の自由」という「権利」が,すべての人々に与えられています。
 「言論の自由」という権利を持っているということは,「法律によって(1)とされていること」=「言ってはいけないこと」(例えば他人の名誉を傷つけるようなこと)以外は,「何でも言ってよい」ということを意味しています。
 例えば,新聞社が,新聞記事で総理大臣を批判することは,総理大臣から見れば「迷惑なこと」でしょう。「それでも言っていいのだ」というのが,「言論の自由」という権利がある——ということなのです。
 このように,「権利がある」とか,「憲法や法律で権利が与えられている」ということは,簡単に言うと,「他人に迷惑をかけてもよい場合だ」ということを意味しているわけです。
 本来は,他人にはできるだけ迷惑をかけないほうがよいのでしょうが,例外的に「迷惑をかけてよい」と法律で定められている場合が「権利がある」という場合なのです。

岡本 薫 (2011). 小中学生のための 初めて学ぶ著作権 朝日学生新聞社 pp.21

故意と非故意

故殺[第三級殺人と呼ばれる場合もある]は故意でもありうるし(故意そのものは意図されていたとしても,相手を死に至らしめることがその意図だったわけではないケース),非故意の場合もある(自分の行動が誰かの死につながるかどうかの配慮を「まったくの不注意によって欠いたまま」行動したケース)。
 ただしこれらの原則は司法管轄区域によっていくぶんかは変わるが,ポイントは理解できるはずだ。いずれにしても基準はどうあれ,判決は被告が「本当にそれを意図していたかどうか」によって決まる場合が多い。
 私たちの感覚では,より意図的であればあるほど,その行為を実行した人に,より重い責任を負わせるべきだととらえている。そしてこの感覚は法に反映されている。したがって慣習法の道徳的な直観は,脳についての最新の理解と矛盾しない。つまり犯罪実行の選択に,より高度な脳の部位が関与していれば,被告はより罪が重いとみなされるのだ。脳の機能にたとえると,「殺意」とは,犯人の前頭前皮質が関与していることを意味し,大脳基底核は,せいぜい故殺が可能にすぎない。

ケント・グリーンフィールド 高橋洋(訳) (2012). <選択>の神話:自由の国アメリカの不自由 紀伊國屋書店 pp.88

同意年齢

過去数年,何人かの女性教師が,未成年の男子生徒とのセックスによって,最長で30年の禁錮刑に処せられている。制定法上のレイプの定義は州によって異なるが,ほとんどの州では特定の年齢(通常は14歳か16歳)以下の子どもと性交渉をもつことは,たとえ当人自信もティーンエージャーだったとしても,常に非合法とされている。そしてその年齢は同意年齢と呼ばれている。
 またほとんどの州では,レイプ犯罪は両者の年齢の差に従って定義されており,この定義に合致した場合には,たとえ両者の同意があったとしても,制定法上のレイプとみなされる。その根拠として,一方の当事者が若いか,あるいは両者の年齢に十分な開きがあるとき,若い方の当事者の同意は同意とみなされないという考えが存在する。そのために前述の女性教師たちは,性犯罪者として刑務所行きになったのだ。

ケント・グリーンフィールド 高橋洋(訳) (2012). <選択>の神話:自由の国アメリカの不自由 紀伊國屋書店 pp.70-71

どこに選択があるのか

言論の自由の基本的な原則の1つに,政府は国民をして無理に語らしめることはできないというものがある。
 第二次世界大戦中,いくつかの州当局は,国旗に向かって敬礼し,忠誠の誓いを唱えることで1日を開始するよう,生徒に要求するようになった。そんな時代のウェストバージニア州で,エホバの証人に属していたある生徒が,自分の宗教的な信念に反するという理由によって忠誠の誓いを唱えることを拒否したため,学校は彼を停学にした。
 先生の強要を無効とする最高裁判判決についてのロバート・ジャクソン判事の次の言葉は,言論の自由についての法的見解のなかでももっとも有名なものの1つに数えられている。「合衆国憲法という星座のなかに,核になる恒星が存在するのなら,それは<政治,ナショナリズム,宗教,あるいはその他の何らかの意見に関することについて,何が正統たるべきかを規定したり,それに関わる信念を言葉や行動によって告白するよう市民に強要したりすることは,高官であろうが下級職であろうが,いかなる政府役人にも認められない>という表明である」
 選択の意味するところについて最高裁がそれとは異なる見解をもっていたなら,判決はまったく逆になっていたかもしれない。
 当時活躍していた,学者肌の判事フェリックス・フランクファーターは,「誰も子どもを公立学校に通わせるよう強要していない」として最高裁判決に異議を唱えている。彼はまた,「学校が忠誠の誓いを唱えることを通学という特権の条件にしたいのなら,それは認められてしかるべきである」,あるいは「子どもはいつでも公立学校の代わりに私立の学校に通える」とも述べている。
 要するに,フランクファーターは次のように主張しているのだ。最高裁はラムソンのケースにおけるホームズ判事の論法を採用すべきだと。つまりラムソンが職場にきた時に選択をしたのと同様,子どもは登校したときに選択したのだと。

ケント・グリーンフィールド 高橋洋(訳) (2012). <選択>の神話:自由の国アメリカの不自由 紀伊國屋書店 pp.67-69

話し合うこと

大勢の「感情」を煽って,声を大きくすれば社会は動く,という考え方は,民主的ではなく,ファシズムに近い危険なものだと感じるのである。戦争だって,国民の多くの声で突入するのだ。「国民の声を聞け」というが,その国民の声がいつも正しいとは限らないことを,歴史で学んだはずである。
 そこにあるのは,多くの人たちが,物事を客観的に見ず,また抽象的に捉えることをしないで,ただ目の前にある「言葉」に煽動され,頭に血を上らせて,感情的な叫びを集めて山びこのように響かせているシーンである。1つ確実に言えるのは,「大きい声が,必ずしも正しい意見ではない」ということである。
 できるだけ多くの人が,もう少し本当の意味で考えて,自分の見方を持ち,それぞれが違った意見を述べ合うこと,そしてその中和をはかるために話し合うことが,今最も大事だと思うし,誤った方向へ社会が地滑りしないよう,つまり結果的に豊かで平和な社会へ導く唯一の道ではないか,と僕は考えている。

森博嗣 (2013). 人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか 新潮社 pp.57-58

理想や理念

少し話は逸れるけれど,民主主義というのは会議をして多数決で物事を決める制度のことだが,そもそもその会議に誰が出られるのかという時点で既に平等ではなかった。そこで,労働者や貧しい人たちは,金持ちの多数決ではなく,もっと別のカリスマを求め,独裁者を歓迎した歴史がある。現在の民主主義でも,マスコミが扇動して,国民を煽っている。そんな頭に血が上った人たちの多数決で政治を動かすようなことがあっては困る。たしかに民主主義は理想的なシステムだが,このような危険な部分が欠点としてある。だから,理想や理念を忘れないように憲法というものが存在している,と考えて良い。

森博嗣 (2013). 「やりがいのある仕事」という幻想 朝日新聞出版 pp.46

所定労働時間

 「あるないクイズ」ではないが,日本の企業にあるのにないのは「所定労働時間」である。表向きは始業と終業の時刻が定められている。しかし,実際には定時はないに等しい。ある大手生命保険会社の2010年版会社紹介パンフレットの「勤務時間」は9時〜5時,つまり所定労働時間は昼休みの1時間を除いて7時間である。しかし,同じパンフレットで紹介されている同社のやり手模範社員の働き方は,所定労働時間などどこ吹く風である。入社15年目,30代後半の業務推進部長のH氏を例にとれば,出社は7時30分。退社は20時。彼は出社から5時間後の12時30分に昼食をとるが,30分後の13時に早くも仕事を再開し,そのまま夕食抜きで仕事を続け,20時まで勤務する。
 彼は所定では7時間のところを,実働12時間なので,1日5時間の残業を行っていることになる。「毎勤」によれば,金融・保険業(規模500人以上)の1ヵ月の出勤日数は20日である。これを基準にすれば,H氏の月当たりの残業は100時間(法定労働時間の8時間を基準にすれば80時間)と推計される。学生に訊いてみると,「金融関係を志望する学生はふつう午後8時ごろまでなら当然と思っているのではないでしょうか」という答えが返ってきた。ここには「定時」という観念はない。1日7時間という所定労働時間のしばりも,1日8時間という法定労働時間の遵守もおかまいなしである。

盛岡孝二 (2011). 就職とは何か:<まともな働き方>の条件 岩波書店 pp.125-126

男性モデル

 この「働き方の男性正社員モデル」は,労働時間から見ると,家事労働をほとんどせず,サービス残業を含む長時間の残業も拒まず,過労死の不安と背中合わせに,会社人間として猛烈に働く/働かされる男性にとりわけ妥当するモデルである。このモデルは,社会保障制度や税制でいわれる,「稼ぎ主である男性が妻子を養う男性片稼ぎモデル」と不可分の関係にある。今日では,共働きが普通になっているが,それでも既婚女性は,家事労働をほとんど一手に引き受けているために,フルタイムで正社員として働き続けることが難しく,結婚・出産を機にいったん退職した後は,パートタイム労働者として仕事につくことを余儀なくされることが多い。

盛岡孝二 (2011). 就職とは何か:<まともな働き方>の条件 岩波書店 pp.96

権力の退廃

 あらゆる権力の退廃は,思想・信仰の自由を踏みにじるところからはじまる。そして,権力による思想・信仰の自由の圧殺は,必ず革命思想・革命信仰の自由の圧殺からはじまる。それと同様に,あらゆる革命の退廃は,反革命思想・反革命信仰の自由の圧殺からはじまる。
 “反革命”のレッテルさえはれば,思想・信仰の自由を奪ってよいという発想は,“非国民”のレッテルさえはれば,思想・信仰の自由を奪ってもよいというファシズムの論理となんら変るところはない。
 退廃なしの革命をめざそうと思うなら,反革命にも思想・信仰の自由をみとめるところからはじめねばならない。
 むろん,私が語っているのは,思想・信仰の自由に関してであって,テロや暴力の自由に関してではない。権力に革命的暴力の自由を暴力的に拒否する権利があるように,革命には反革命的暴力の自由を暴力的に拒否する権利があるだろう。

立花 隆 (1983). 中核VS革マル(下) 講談社 pp.231-232

暴力と狂信

 普通の人の目から見れば,あれだけお互いに残虐なテロやリンチをやりあえば,みんないやになって組織を抜けたがっているだろうと思われるかもしれない。どちらの組織にも千人単位の人間が残って頑張っているのが不思議に思われるだろう。ちょうど帝政期のローマ人たちが,次々に虐殺されながらも,なおも自分たちの信仰を守って頑張りぬくキリスト教信者たちに奇異の目を見張ったように。
 しかし,これは不思議でも何でもない。政治的信仰でも,宗教的信仰でも,弱い信仰の持ち主には暴力による脅迫が有効だが,確信者・狂信者に対しては,無効なのである。無効どころか逆効果なのである。拷問も処刑もききめがない。
 信仰心の弱い者には一定のききめがあることから,しばしば思想・宗教の弾圧に暴力が用いられてきた。しかし,いつでもそうした暴力は確信者・狂信者の壁にあたってはねかえされてきた。

立花 隆 (1983). 中核VS革マル(下) 講談社 pp.229

破防法

 暴力革命とは,暴力による国家権力の転覆であり,内乱にほかならない。その過程では当然にも騒擾,放火,殺人,爆発物使用,公務執行妨害が起きるであろうから,いかなる党派,団体であれ,日本で暴力革命を起こそうとするなら,破防法の圧力をはねのけて,あるいは,その網の目をくぐってそれをしなければならない。
 他の刑法などの法律は,あくまでも一定の違法行為があってから後に,そのなされた行為が取締まられる。しかし,破防法は「破壊活動防止」の名の下に,教唆,扇動という形で,破壊活動を事前に取締まることができる。とくに,団体適用し,活動制限をしてしまえば,活動をしただけでその組織員を検挙できる。破防法の下で,暴力革命をめざすというのは,そう簡単にできることではない。

立花 隆 (1983). 中核VS革マル(上) 講談社 pp.143-144

自分が正統

 やっかいなことは,政治組織が分裂する場合,どちらも自分が正統だと思いこむことである。一見正統でない側にしてもそうなのだ。ブントと共産党の場合,形式的な正統性は共産党にあると客観的に見えるかもしれないが,ブントの論理からすれば,共産党は革命の任務を放擲した革命党であり,大衆を裏切り,プロレタリアートを裏切り,革命家を裏切った“代々木官僚”が,党を私物化してしまったのだから,組織の正統な所有権は真の前衛をめざすブントの側にあるということになる。現在の中核派と革マル派にしても,その分裂に際して,互いに自分たちが正統であり,相手方は裏切者で組織を私物化しようとしていると考えたのである。

立花 隆 (1983). 中核VS革マル(上) 講談社 pp.64-65

政治の先延ばし

 目先の問題を手っ取り早く解決するための行動ばかり取りたがるのは,政府の性質だ。本当に重要な問題より,目の前の問題が優先される。アメリカ建国の父たちも,この点を理解していた。章の冒頭で,アメリカ合衆国憲法の父,アレクサンダー・ハミルトンの言葉を紹介したが,権利章典(合衆国憲法の人権規定)の生みの親であるジェームズ・マディソンも次のように述べている。「最初のうちは課題を先延ばしし,最後になってあわてて行動するのは,この種の(立法)機関の性質である」

ピアーズ・スティール 池村千秋(訳) (2012). 人はなぜ先延ばしをしてしまうのか 阪急コミュニケーションズ pp.156

権利

 ブラック企業が辞めるなと言ったとしても,法律では労働者は辞めることができる権利を保証されている。辞められなければ奴隷と同じだからだ。ところが,いざブラック企業の制止を振り切って職場を辞めると,追い打ちをかけるような嫌がらせを受けることがある。社内の他の労働者に対する「見せしめ」や,勝手に辞めたことへの不当な「仕返し」としてこれらの嫌がらせは行われる。幾つか例を挙げてみよう。
 1つ目は,離職手続きを進めない嫌がらせだ。厚生年金・健康保険・雇用保険など,各種社会保険の手続きを行わない。そのせいで失業中の給付金を受けることができなくなるし,再就職にも支障をきたす場合がある。これらは,いずれも国の保険制度を私物化して行われるパワハラだ。
 2つ目は,最終月の給料を支払わないことだ。これは,単にコスト削減のためにも起きることがある。パワハラが原因で会社に行けなくなってしまったような場合には,最終月だけ手渡しにすることで免れようとする会社もある。会社に行けるような状況ではないのに,「来なければ払わない」とする。
 3つ目は,損害賠償の請求である。「会社が辞めるなと言っているのに勝手に会社に来なくなった」という愚にもつかない理由で無断欠勤の損害賠償を請求されるケースもある。請求の書類を送るのは多少の法律知識があれば簡単にできるため,これで儲けようとする悪徳弁護士・社会保険労務士が請求書に捺印する場合もある。全く応じる必要のないものだが,経験のない人は多大なストレスを感じる。「損害賠償させるぞ」と脅したところで,実際に裁判をしても請求が認められるはずもないが,当事者を脅しつけたり他の従業員に対する威嚇になったりという実利はあるわけだ。
 「辞めさせない」と「辞めさせる」というブラック企業のパターンは,一見矛盾しているかのように見える。しかし,これらは第1章で見たようなブラック企業への徹底した若者の従属と,極端な支配関係に同じ根源がある。選別のために辞めさせるのも,辞めさせずに使いつぶすも彼ら次第。いわば,ブラック企業は「生殺与奪」の力を持っている。また,ブラック企業はこうした支配の力を,利益を最大化させるために用いるという意味で,行動に一貫性を持っている。「辞めさせる」ことも,「辞めさせない」ことも,同様に,あくなき利益追求に端を発している。

今野晴貴 (2012). ブラック企業:日本を食いつぶす妖怪 文藝春秋 pp.98-99

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