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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「政治・法律」の記事一覧

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食糧安保は自給の問題ではない

 つまり,自給率という指標は外部に大きく依存しており,それ自体で自己完結できないのだ。そのため,それを何パーセント上げようという向上目標は成立し得ないのである。たとえば英国は産業革命以来,食料自給率を目標に掲げたことも,達成したこともなく,これからもすることがないだろう。英国は食料を多くの安定した国から調達している。多様性が安全保障を強化するのである。
 国内生産は当然必要だが,自給のために全国民が農業をしたからといって,100パーセントの自給率が達成できるわけではない。様々な手段で自分の能力を発揮し,必要な収入を得て,食料を始めとした多くの資源を手にできるのが先進国の証でもある。
 食糧安保とはリスク・マネジメントの課題であって,自給の問題ではない。国内農業の次元を完全に超えている。それは食料の問題ですらなく,一国の問題という次元でもとらえられないのだ。

浅川芳裕 (2010). 日本は世界5位の農業大国:大嘘だらけの食料自給率 講談社 pp.168-169
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輸出競争力を伸ばすべき

 他国の政策にケチをつけるくらいなら,農水省は予算の使い道を見直すべきだ。EU全体で約4000億円の輸出助成金が割り当てられているのに対し,日本の輸出促進予算は22億円。意味のない自給率向上キャンペーンなどの情報発信費48億円の半分以下というのが,この国の農業政策の現実である。
 別の視点から見れば,英国やドイツの農家も日本の農家も,与えられた条件のなかで最大の所得機会を求めているにすぎない。英国,ドイツでは北海道より北にある生産条件と,昔と大きく変わらない食文化があるため,小麦やジャガイモ,畜産・酪農といった伝統的な農産物の生産量を上げ,輸出競争力を伸ばして所得を上げてきた。それがたまたまカロリーが高い基本食料だった。
 対する日本の農家は高度経済成長という条件の下,多様な気候条件と変化する消費ニーズに対応し,従来の穀物生産から所得がもっと上がる野菜や果物にシフトしてきたのだ。それが海外の大豆や小麦より競争力のある,カロリーの低い農産物だったのである。輸出が少ないのは,国内で売ったほうが儲かったからにすぎない。

浅川芳裕 (2010). 日本は世界5位の農業大国:大嘘だらけの食料自給率 講談社 pp.40-41

ポジティブシンキングと政治的抑圧

 ポジティブ・シンキングについては,アメリカ独特の無邪気な考え方だと思われがちだが,アメリカ独特だとはいえないし,無邪気などという可愛らしいものでもない。アメリカとは大きく異なる環境でも,ポジティブ・シンキングはさまざまな国で政治的抑圧の道具になっている。われわれは,独裁者は恐怖を用いて支配すると考えがちである—秘密警察の恐怖,拷問の恐怖,強制収容所の恐怖。だが,無慈悲きわまりない独裁政権のなかには,楽観的に考え,快活にふるまうことを国民に要求するところもある。1979年の革命によって失脚することになるイラン国王の政権下での日々を記したリュザルド・カプチンスキーの『シャーのなかのシャー[原題 Shah of Shahs]』に紹介された話で,ある翻訳家が「いまや悲哀の時代,闇夜の時代である」という扇動的な一節の含まれた詩をどうにか出版にこぎつける。その詩が検閲を通過したことで,翻訳家は「意気盛んだった」。「どんな作品も,楽観的な考えや,活気や,微笑みを誘うものでなければならないこの国で,とつぜんに『悲哀の時代』だ!驚きではないか?」

バーバラ・エーレンライク 中島由華(訳) (2010). ポジティブ病の国,アメリカ 河出書房新社 pp.244-245

母子家庭の相対的貧困率

 日本における母子家庭の相対的貧困率は,OECD諸国の中でもかなり高く,トルコに次いで2位というありさまです。日本では,結婚して出産してシングルになる,というのは,貧困への最短コースのようです。
 少子化対策の中であまり議論になりませんが,母子家庭(もちろん父子家庭もですが,貧困率は母子家庭の方がずっと高い)でも,子育て上大きな問題がないように支援するべきではないでしょうか。そうすれば,出産してから貧困に陥るリスクが下がるので,結果的に少子化にも効果があると思われます。
 ただ,母子家庭に対する支援の方法は,なかなか難しい問題を含んでいます。現在でも児童扶養手当が支給されていますが,児童が18歳に達した日を含む年度で打ち切りになってしまいます(障がいを有する場合は,20歳の誕生月まで支給)。大学進学のための費用は,自力でなんとかしないといけないわけです。
 現在は,大学進学が当然になってきているので,この点は緩和の必要があると思われます。

神永正博 (2010). 未来思考:10年先を読む「統計力」 朝日新聞出版 pp.75-76

複雑な仕掛けを好む

 しかし残念ながら世界の国々では,発展途上国においてさえも,役人が好むのはシンプルな方法よりも複雑な仕かけである沿岸の国,バングラデシュでは,1970年のサイクロンで30万人が死亡したあと,政府は複雑な警報システムを考案した。異なった10の警報レベルのうちのどれかを示す旗を掲げるボランティアが訓練された。だが地方の村民を対象にした2003年の調査で,多くの人が手旗信号を無視していることがわかった。「第一信号から第十信号までの災害信号があることは知ってるよ」と,ムハンマド・ヌラル・イスラムは,ロンドン大学に本拠を置くベンフィールド・ハザード研究センターのチームに語った。「だけど信号の意味は知らない」。しかし彼は,個人的に独自の生存システムをちゃんと持っている。「空が薄暗くなって,ハチが群れをなして動きまわり,牛に落ち着きがなくなって,風が南から吹くようになれば,どんな災害がやってくることも予測できるんだ」

アマンダ・リプリー 岡真知子(訳) (2009). 生き残る判断 生き残れない行動:大災害・テロの生存者たちの証言で判明 光文社 p.104

DNA鑑定の落とし穴

 不幸にして,裁判所に提示されるDNAがらみの統計データがもつ力は強い。オクラホマで,裁判所はティモシー・ダーハムという男性に禁固3100年以上を言い渡した。犯行時刻に彼が別の州にいたことを11人が証言していたにもかかわらず,である。ところが,最初の分析で研究所が検体中のレイプ犯のDNAと被害者のそれを完全に分離しなかったため,レイプ犯と被害者のDNAの組み合わせが,比較されたダーハムのDNAに対し「陽性」という結果を出したことが明らかになった。その後の再検査により間違いであることがわかり,ダーハムは4年近くの刑務所暮らしの後,釈放された。
 人間的要因による間違いの推定値はいろいろだが,多くの専門家はそれを約1パーセントとしている。しかし多くの研究所の間違いの率(エラー・レート)がこれまでまたく推定されてこなかったから,裁判所はしばしば,こうした総合的な統計値に関する証言を容認しない。また,たとえ裁判所が偽陽性に関する証言を容認したとしても,はたして陪審員たちはそれをどのように評価するだろうか。10億分の1の偶然の一致と,100分の1の研究所の間違いによる一致という2種類の間違いを教えられると,ほとんどの陪審員が,総合的な間違いの率は両者の中間,たとえば5億分の1あたりにあるに違いないと考えるだろうし,そうであれば,ほとんどの陪審員にとって,その値は依然として合理的な疑いを催すようなものではない。しかし確率の法則を使えばまったく違う答えが出てくる。
 その考え方はこうだ。偶然の一致と研究所の間違いはどちらもあまり起きそうにないから,両方が同時に起きる可能性は無視することができる。したがって,求める確率はどちらか一方が起きる確率であり,それはすでに述べた足し算の規則によって得られ,つぎのようになる。

 研究所が間違う確率(100分の1) + 偶然の一致(10億分の1)

 ここで後者は前者の1000万分の1だから,2つの確率の和は「研究所が間違う確率」にかなりよい近似で一致し,その確率は100分の1だ。したがって,2つの可能な原因が提示された場合,偶然の一致の確率に関する専門家のとりとめのない証言をわれわれは無視すべきで,そのかわり,それよりずっと確率の高い研究所の間違いに注意を向けるべきだ。しかしまさにそのデータを法律家が提示することを,裁判所はしばしば容認しないのだ!したがって,頻繁に繰り返されるDNA不過誤[間違いのないこと]の主張は,誇張されている。

レナード・ムロディナウ 田中三彦(訳) (2009). たまたま:日常に潜む「偶然」を科学する ダイヤモンド社 pp.58-59
(Mlodinow, L. (2008). The Drunkard’s Walk: How Randomness Rules Our Lives. New York: Pantheon.)

DNA鑑定の偽陽性

 DNAの証拠がはじめて導入されたとき,多くの専門家が,偽陽性は起こり得ないと証言した。今日DNAの専門家は,ランダムな個人のDNAが犯罪試料のそれと一致する確率は100万分の1か10億分の1と証言するのが普通だ。そういう確率だから,陪審員が<監獄に入れて鍵を捨ててしまえ>と考えるのも致し方ないことかもしれない。
 しかし,陪審員にはしばしば提示されることのない別の統計データもある。それは,たとえば研究所が,試料を採取したり操作したりする際に偶然混ぜ合せたり取り違えたりして間違いを犯すという事実に関するものだ。間違いが,解釈の誤りや不正確な報告書作成による場合だってある。こうした間違いの1つひとつはまれではあるが,DNAのランダムな一致ほどまれということではない。たとえば,フィラデルフィア・シティ・クライム・ラボラトリーは,あるレイプ事件の被告の基準試料と被害者のそれとを取り違えたことを認めたし,セルマーク・ダイアグノーシスという試験会社も同様の間違いを認めた。

レナード・ムロディナウ 田中三彦(訳) (2009). たまたま:日常に潜む「偶然」を科学する ダイヤモンド社 pp.57-58
(Mlodinow, L. (2008). The Drunkard’s Walk: How Randomness Rules Our Lives. New York: Pantheon.)

選択に向き合え

 改めて言っておきたいのだが,問題は単に偽情報や湾岸危機にあるのではない。
 問題はそれよりもずっと奥が深い。私たちは自由な社会に住みたいのだろうか。それとも自ら好んで背負ったも同然の全体主義社会に住みたいのだろうか。
 とまどえる群れが社会の動きから取り残され,望まぬ方向へ導かれ,恐怖をかきたてられ,愛国的なスローガンを叫び,生命を脅かされ,自分たちを破滅から救ってくれる指導者を畏怖する一方で,知識階級がおとなしく命令にしたがい,求められるままスローガンを繰り返すだけの,内側から腐っていくような社会に住みたいのだろうか。
 そして,他人が支払ってくれる報酬を目当てに,世界を叩きつぶしてまわる傭兵国家になりさがりたいのだろうか。どちらを選ぶかは,私たちしだいだ。この選択に1人1人が向きあわなければならない。答えは,私やあなたのような一般の人びとの手中にあるのだ。

ノーム・チョムスキー 鈴木主税(訳) (2003).メディア・コントロール:正義なき民主主義と国際社会 集英社 pp.70-72

なぜ興味を抱かない

 1969年に南アフリカのナミビア占領が違法だと裁定されたとき,アメリカは食料や医薬品について制裁措置をとっただろうか?戦争におもむいただろうか?ケープタウンを爆撃しただろうか?
 いや,アメリカは20年間「静かな外交」をつづけていた。
 その20年間も,決して波乱がなくはなかった。レーガンとブッシュの時代だけでも,南アフリカによって約150万人が周辺諸国で殺された。
 南アフリカとナミビアで起こったことは忘れよう。どうしてか,それは私達の感じやすい心をゆさぶらなかったのだ。アメリカは「静かな外交」をつづけ,結局は侵略者が報酬を手にするのを許した。侵略者にはナミビアの主要港と,安全上の懸念を払拭する数々の便宜が与えられた。私たちが掲げていた原則はどこへ行ったのだろうか?
 繰り返すが,それが戦争におもむく理由にならないのは,子供でも論証できる。私たちはそんな原則を掲げてはいないからだ。ところが,誰もそうしなかった——重要なのはそこなのだ。そして,当然の結論を,誰も指摘しようとはしなかった。戦争をする理由は1つもない。皆無である。

ノーム・チョムスキー 鈴木主税(訳) (2003).メディア・コントロール:正義なき民主主義と国際社会 集英社 pp.61-62

選択している

 前回の作戦についても少し述べておこう。手始めに,前述したマサチューセッツ大学での調査の話をしたい。この調査からは,いくつかの興味深い結論がでている。質問の1つに,違法な占領や深刻な人権侵害を正すためにアメリカは武力介入すべきだと思うか,というものがあった。約2対1の割合で,アメリカ国民はそうすべきだと考えていた。違法な土地占拠や「深刻な」人権侵害があった場合には,われわれは武力を用いるべきである,と。
 アメリカがこの助言に従うなら,私たちはエルサルバドル,グアテマラ,インドネシア,ダマスカス,テルアビブ,ケープタウン,トルコ,ワシントンなど,あらゆる国の都市を爆撃しなければならなくなる。それらはみな違法な占拠や侵犯や,深刻な人権侵害という条件を満たしているのである。こうした事例の多さを知っていれば,サダム・フセインの侵略や残虐行為も,多くの事例のうちの1つでしかないことがよくわかるだろう。フセインがやっていることは,とびきり極端な行為ではないのだ。
 どうして誰もこのような結論に到達しないのだろう?

ノーム・チョムスキー 鈴木主税(訳) (2003).メディア・コントロール:正義なき民主主義と国際社会 集英社 pp.53-54

犠牲者は何人か

 質問の一つに,ヴェトナム戦争におけるヴェトナム人犠牲者は何人くらいと思うか,というのがあった。
 今日のアメリカの学生の平均的な答えは,約10万人。公式の数字は約200万人である。実際の数字は,300万から400万といったところだろう。この調査を実施した人びとは,もっともな疑問を呈している。ホロコーストで何人のユダヤ人が死んだかと今日のドイツ人に聞いたとき,彼らが30万人と答えたならば,われわれはドイツの政治風土をどう思うだろう?その答えから,ドイツの政治風土を推して知るべきではなかろうか?質問者はあえて答えを求めなかったが,この疑問は追求する価値がある。その答えから,わが国の政治風土も推して知るべきではなかろうか?その答えとは,とても多くのことを語っている。

ノーム・チョムスキー 鈴木主税(訳) (2003).メディア・コントロール:正義なき民主主義と国際社会 集英社 p.40

律儀に法律を守った結果

 アメリカでは断種法を制定して30年の間に,実際に避妊手術を施されたのは2万件程度だった。しかし,ドイツでは,断種法が制定されて,わずか3年で10万件を超えたのである。
 またナチスは,断種法だけでなく,安楽死という方法で,精神病者などを抹殺していった。
 「回復不能な患者に特別な慈悲で死を与える」
 このようなスローガンのもと,T4作戦と呼ばれた安楽死政策は極秘に進められていった。これは主に精神障害者を対象としたものだったが,次第に適用範囲が広げられ,病弱者,老衰者,身体障害者などにも適用された。
 「回復不能かどうか」という判断は,担当医が作成したカルテをもとにして,親衛隊の医師数名が決断を下した。少なくとも6,7万人がこの政策で犠牲になったといわれている。
 親衛隊は,安楽死の事実を隠し遺族には死亡通知だけをしていた。しかし患者を強制収容所に引き取る際の手荒な行動が人目をひき,また強制収容所に連れて行かれたものの死亡があまりに多いことから,遺族の間から不審の声があがった。司法当局も事実解明に乗り出す動きを見せたために,ナチスはT4作戦を中断した。
 しかし戦争が激しくなるとともに,秘密裏に再開され,適用範囲は精神障害本人のみならずその子供にも及び,ナチス崩壊までに27万人の障害者たちが犠牲になったという。

武田知弘 (2006).ナチスの発明 彩図社 pp.205-206

断種法・移民制限法・優生保護法

 当初の優生学は人間という種の歴史的な研究が主なテーマだったが,次第に社会的弱者を迫害する思想にエスカレートしていく。「弱いものは滅びるのが自然の掟」と解釈されるようになっていったのである。そして,世界中で精神障害者,てんかん患者,知的障害者などへの産児制限,断種などが検討され始めたのだ。
 たとえば世界で初めて断種法を制定したのは,アメリカである。1907年インディアナ州で制定されたのをかわきりに,1923年までに全米32州で制定されている。このときの断種法は,ほとんどが精神病患者を対象にしたものだったが,カリフォルニア州などの一部の州では梅毒患者や性犯罪者も対象にしていたという。
 「明らかな社会不適合者に子供を作らせないことは,社会にとって善である」
 1927年,アメリカの連邦最高裁はそういう判断を下した。また1921年に制定された移民制限の法律も,優生学に基づいたものだった。「白人の純血を守るため」というのがその理由である。
 日本でも1931年に「らい予防法」が制定され,ハンセン病患者を収容所に隔離して断種手術や胎児の殺害などを行なってきた(1943年にハンセン病の薬が開発されたにも関わらず,この法律は1996年になるまで廃止されなかった。半世紀以上ハンセン病患者は隔離され続けてきたのである)。また戦後の昭和23年には,優生保護法が作られ,精神薄弱,精神病者などを対象とした妊娠中絶や断種手術が行なわれてきた。
 以上のように断種法は,決してナチスの専売特許ではなかった。ただ1つ言えることは,ナチスの場合,その実行が徹底していたのである。

武田知弘 (2006).ナチスの発明 彩図社 pp.203-204

「正義だから」は最後の手段

 法というのは,正義によって支えられるものです。裁判所は,それを国家権力によって実現するものです。しかし,正義を国家権力によってエンフォースするのは,本当は最後の手段であるべきです。しかも,これにはコストもかかるし,実効性(ほんとうに守ってもらえるかどうか)の点でも問題が残ります。一番コストが安く実効性があるのは,相手が真に納得して自発的に正義の実現に協力してくれる場合でしょう。裁判所や労働委員会で和解が重視されるのは,こうした理由からです。
 正義を「正義だから」という理由で押し通すのは,かえって正義の真の実現には遠回りとなるのです。相手の言い分も良く聞いて,両者の間に共感を得られるようになったら,意外に話はスムーズに行くかもしれません。

大内伸哉 (2008).どこまでやったらクビになるか:サラリーマンのための労働法入門 新潮社 p.172

必要とされるのは高度な人材

 こうなると,いよいよお役所的な「スキル教育」が無意味になってくる。かつてなら,スキル教育で階段の入口にエントリーしやすくすれば,あとは,エスカレーターに乗っていくことが可能だった。今はこの段階がない。求められるのは,高度な理工学系教育を受けた人材か,幹部候補生として習熟を積んだ人材に限られる。いや,これは言いすぎだった。中小・零細企業などでは今でも段階を用意して待っている企業は少なくない。ところが,こちらに関しては,働く側の「嗜好の壁」にぶつかり,応募する人が少ない。つまり,大企業における高度理系人材と幹部候補生となる難関大学卒業者,および中小零細企業での一般人材が不足し,他方では,人が余る,という構造になる。もう,ミスマッチというような,ちょっとした掛け違いを直せば元に戻る状況ではなく,ディスマッチと呼ぶのがふさわしい。
 こんなディスマッチが生まれるくらいなら,過去に戻ればいい,と喝破するのは間違いだろう。経済成長の果実を社会全体が享受し,その結果,海外旅行にいつでも行けるし,ファーストフードも100円均一ショップも,かつてでは考えられないようなお買い得品を並べている。25年前は,給料が今より3割も安いのにマクドナルドのハンバーガーは250円もした。こんなに生活が楽だから,働く人は嗜好の壁を年々高くする。そして国際競争を考える企業は単純労働をパッケージ化し,残った正社員の仕事は高度化する。これは,社会の構造変化なのであって,一方的に過去が良かったわけではなく,いいことと悪いことが錯綜しているはずだ。
 30年以上前,私の父親世代のころ,休みは週に1日しかなく,年間労働時間は,今より300時間も多かった。首都圏の小さなマンションは年収の8倍がアベレージで,手の届かない多くのサラリーマンたちは,片道2時間かかる遠方に家を建てた。本当に,過去はそんなに良かったのだろうか?

海老原嗣生 (2009). 雇用の常識「本当に見えるウソ」 数字で突く労働問題の核心 プレジデント社 pp.137-138

言葉こそが捨てた武器に替わる新しい兵器だ

 日本語を国際普及しようという私の提案の骨子は,これからは諸外国がすぐれた日本の文化や進んだ技術,そして日本人の考えや意見を,日本語の書籍文献を読むことで吸収できるように,日本側として援助できることは何でもやろうということに過ぎません。ですから巨額の金銭的援助を国外における日本語教育進展のために行うのは当然のこととして,日本政府が各国に置いている外交機関の主たる重要業務の中に,当該国での日本文化の普及啓蒙,日本語教育振興のための徹底した援助活動などをはっきりと加えるべきです。これはすでに英米やフランス,そして同じ敗戦国であるドイツなどでもとっくにやっていることです。何しろ日本は戦争を国際紛争解決の手段とすることは絶対にしないことを誓ったのですから,外国との対立や摩擦を解消する日本の外交とは,言葉による他に道がないからです。戦後の日本外務省にこのような「言葉こそが捨てた武器に替わる新しい兵器だ」とする言力外交が,大国日本の生きる唯一の道だという明確な認識が欠けているのは残念でたまりません。

鈴木孝夫 (2009). 日本語教のすすめ 新潮社 pp.235-235

間違った思い込みはやめるべき

 機械化や遺伝子改変技術の革新が進むことによって,世界中の農業国で規模の拡大,人手減らしが進行しています。農民1人当たり日本の20倍以上の農地を持っているアメリカやオーストラリアでも,さらに規模が拡大し続けているのです。
 今後はアメリカのライバルとしてブラジルが登場する可能性が大ですが,ブラジルの農作物の生産コストはアメリカよりさらに低いのです。日本の農家も規模拡大路線をとれとよく言われていますが,日本の農家が少々規模を大きくしたところで,彼らに追いつくことは不可能なのです。
 穀物のような基礎食糧の分野では,日本は世界の農業大国には到底かないません。
 日本政府はもう,「何かのときに,食糧を輸入できなくなるかも知れない」という間違った思い込みにもとづいた政策をやめるべきです。

川島博之 (2009). 「食料危機」をあおってはいけない 文藝春秋 p.230

食糧問題の本質は「足りすぎていること」にある

 大規模な機械化農業を展開して,世界一の輸出国となっているアメリカでさえ,農業をやっているより,ニューヨークで仕事をしている方が,ずっと収入が良いのです。ですから農業の保護政策は,アメリカでさえ巨額の金をかけて歴代の政権が行なっていることなのです。
 しかし食糧問題を論ずる前提として,まず国民や政治家が正しい情報を知らなくてはなりません。
 食糧問題の真実は,「足らない」ではなく,むしろ「足りすぎている」にあることをです。
 「食糧が輸入できなくなったときに困るから」と,「食糧自給率」を高めるため,国民に「もっと米を食べましょう」と訴えたり,農家に米増産の待機体制を維持させたり,「不測の事態」に備える備蓄倉庫の拡充をしたりすることなどは,誤った農業政策であると私は考えています。
 このような農業政策には,将来性がまったくありません。
 いまでさえ,備蓄倉庫に貯蔵された米は毎年膨大な量になり,それを古米として処理するのに困っているのが現状なのです。来るかどうか根拠もあやふやな「食糧危機」に備えて農家に米をつくらせて,行き場のない米を備蓄倉庫に隠し,その先その米をどうするというのでしょう。
 食糧危機説で国民の不安をあおりながら,農家に対しても「あなたがたが日本を救うのだ」みたいな話をしているのは,問題です。

川島博之 (2009). 「食料危機」をあおってはいけない 文藝春秋 pp.227-228

助けたければ米や小麦を輸入しろ

 私の研究室にいるエチオピアからの留学生は,日本に来てから4,5年も経つので,日本人と一緒に食事をするときには,「おいしい」と言ってご飯を食べています。
 しかし彼に聞いても,「エチオピアに帰ったらもちろんお米は食べません。エチオピア人が日本から援助米をもらっても困ってしまうでしょうね」と言います。彼らはそれより,「日本のような先進国と比べたら私たちは決定的に貧しいのです。他には何の技術もありません,でも穀物を作ることはできるから,穀物を増産して,余った分を日本や欧米に輸出して,そのお金で自分たちで新しい産業に投資したり,学校を建てたりしたいのです」と言います。
 ところが先進国は彼らのつくる穀物を決して買おうとしません。「穀物は自分たちのところでも余っているから」と言って買おうとしないわけです。
 先進国から農業技術を導入して穀物を増産しても,売り先がない限り過剰生産になって,農作物の値段が下がり,農民がよけい苦しむことになってしまいます。
 本当にアフリカの人たちを助けたいと思ったら,援助する代わりに米や小麦を輸入してあげることです。その方がはるかに役に立ちます。これは別に私だけの意見ではありません。アフリカの国々の連合体であるアフリカユニオンや,開発経済学者の中でも多くの人たちが同様の指摘をしています。
 ですがメディアではそうした声はほとんど紹介されません。

川島博之 (2009). 「食料危機」をあおってはいけない 文藝春秋 pp.118-119

なぜアフリカでは肥料を投入しないか

 ところがアフリカは貧しい状態のまま,飢えに苦しんでいる人たちも大勢いるのに,肥料を使おうとしない。なぜなのでしょうか。
 私の研究室にはエチオピアからの留学生がいるので,彼から聞いた話を紹介しましょう。
 エチオピアではアメリカの財団から援助を受けて,1980年代前半,化学肥料を使って穀物をつくったことがあったそうです。これはデータ的にも生産性の如実な増加として記録されています。
 ところが「たくさんできた,嬉しい」と思ったのも束の間,豊作のため現地の穀物価格が暴落してしまったのです。
 アフリカの農村では輸送のための道路や港湾設備などのインフラが整備されていないので,余分にできた穀物を地域の外に運び出すことができないのです。生産した農産物はすべて地元で消費するしかありません。
 その状態で化学肥料を投入して生産性が上がってしまうと,大量に余ってしまって,価格が暴落してしまうわけです。エチオピア国民がいくら貧しいと言っても,「今年はたくさん小麦が穫れたから去年よりたくさんパンを食べるか」ということにはなりません。需要が増えたとしてもせいぜい1,2割でしょう。ところが食糧品の価格は,ちょっとでも余ると一気に下がってしまいます。
 肥料のおかげでたくさん収穫できたけれども,価格の暴落で逆に貧しくなってしまったエチオピアの農民は,翌年から肥料を入れるのをやめてしまったそうです。

川島博之 (2009). 「食料危機」をあおってはいけない 文藝春秋 pp.115-116

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