I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「政治・法律」の記事一覧

理解していない

 最大の問題は,やはり就職市場の構造というものをマスコミや識者,果ては行政までよく理解せずに対策を講じることにあるのだろう。
 人気企業はとてつもなく狭き門だ。それは確かに好景気になれば2倍程度には広がるが,それでもやっぱり狭き門だ。この雇用吸収力の乏しい分野をどうこういじったって,まったく就職氷河は溶けやしない。
 にもかかわらず,多くの人が,人気企業さえどうにかすれば,就職全体が大きく変わると考える。そして,経団連に代表される大企業も批判の矢面に立つのがいやだから,お付き合いでおためごかしを取り繕う。
 それじゃどうにもならないことに,なぜ気づかないのか。
 就職市場の構造は圧倒的多数が,中堅中小企業に就職する,ということにある。
 しかし,このおそろしいほどの数と数のぶつかりあいが,ミスマッチを生む。一昔前のように,大卒はエリートでそこそこの企業に入れた,という少数精鋭時代とは話が異なるのだ。
 労働力調査や企業センサスで調べれば,雇用者の7割強は中堅中小企業で働いていることが確認できる。大学生の就職も,この本の冒頭で書いた通り,6割強が中堅中小に決まる。構造自体は相似形になっている。
 そして,7割と6割の差,この1割分が就職無業となっている。そう考えた上で対策を練れば,もっともっと就職問題は良い方向に進んでいくだろう。
 この市場構造に気づかないでいると,永遠に就職氷河は消えない。

海老原嗣生 (2012). 偏差値・知名度ではわからない 就職に強い大学・学部 朝日新聞出版 pp.193-194

不要な物体

 “バラバラ殺人”と聞くと,一般の人はその犯人に対して,“残虐”“凶暴”“猟奇的”などのイメージを抱く。だが,それは正しくない。ご遺族の感情をあえて度外視していえば,ごく一部の快楽殺人犯を除いて,ほとんどが分別をわきまえた殺人犯だといえる。
 人を殺してしまった場合,犯人にとって最大の課題となるのが,死体をどう処理するか,だ。死体が発見されれば,死体に残った傷や残留物から自分が犯人だと特定されるおそれがあるし,死体の身元が判明すれば,人間関係から自分にまで捜査の手が及ぶ可能性もある。殺人犯は,できれば死体そのものをこの世から永久に消してしまいたいのだ。そこで殺害後,第三者に見つからないだけの時間的余裕があれば,海中に沈めたり,山に埋めたりして証拠隠滅をはかる。
 だが,自宅など屋内で殺人を犯した場合,死体を屋外に運び出す際に誰かに見られる可能性が高い。また,犯人が女性の場合,女性の力では死体を持ち運ぶことさえ難しい。死体は想像以上に重いものだ。では,どうやって証拠隠滅をはかるか。多少の手間はかかるが,死体をバラバラに切断するのは,きわめて合理的な方法である。細かく切断すれば持ち運びやすくなるし,バッグや袋に入れれば他人に怪しまれずに持ち出すこともできる。いってみれば,いらなくなった重い家具を分解して粗大ゴミに出すようなものだ。あるいは「自己保身」という意味では,不要な重要書類をシュレッダーにかける行為に近いだろう。いずれにしろ,たとえ処分することになっても,家具や書類に対して特に悪意を抱いているわけではないのだ。それと同様に,バラバラ殺人犯も,死体に対して悪意があるわけではない。殺してしまった時点で,死体は犯人にとって「不要な物体」でしかないのだから。

上野正彦 (2010). 死体の犯罪心理学 アスキー・メディアワークス No.1721-1723/2162(Kindle)

悪魔の代弁者を生み出せ

 直接的な方法のひとつは,ケネディ大統領が公に悪魔の代弁者の役割を務める責任と権威を弟に与えたように,誰かをこの任に指名することだ。これには2つのやり方がある。ひとつは,一人の人間にこの役割をまかせるもので,本人は時間がたつほど効率的なやり方を学んでいく。もうひとつは,たとえば懸案の問題の性質によって,グループ内で役割を交代していくというものだ。そうすればひとりの人物が「いつも反対してばかりのやつ」という烙印を押されずにすむ。私たちとしては,恐ろしい「抗体」ができるのを防ぐために,後者を推したい。
 もっと望ましいのは,IBMのワトソンがやったように,会社に悪魔の代弁者が自然と生まれるような組織なり文化なりを築くことだ。そうした特徴の核心となるのが,権力に向かって事実をつきつけることの認可である。組織内の誰でも,上位の人間に対して深い懸念を口にできるということだ。そうなるためには,一般の社員たちに,これは口先だけでなく本気の認可だとわからせる意欲と手際が必要になる。

ポール・キャロル,チュンカ・ムイ 谷川 漣(訳) (2011). 7つの危険な徴候:企業はこうして壊れていく 海と月社 pp.258

法廷での自信の影響

 アイオワ州立大学のゲイリー・ウェルズは,目撃者の自信が陪審員の評決にあたえる影響について調べるために,仲間と説得力のある実験をおこなった。彼らは犯罪行為の目撃から,陪審員による評決まで,犯罪にからむ全過程を再現した。まず,研究者は犯罪行為を設定し,1回につき108人の被験者がそれを目撃した。被験者たちがなにか書類に書き込んでいる部屋に,犯人に扮した役者が入り込んで計算機を盗み出すのだ。ウェルズは実験のたびごとに犯人が部屋にいる時間,犯人が被験者に言う言葉の内容,帽子(顔がわかりにくくなる)のあるなしを変えた。犯人がでていってから間もなく,実験者が部屋に入り,何人かが並ぶラインナップ写真を被験者に見せ,犯人を選びだすよう頼み,その選択に対する自信の度合も答えさせた。結果では,犯人を見る時間が短かった被験者のほうが,写真からの犯人選びで不正解が多かった。だが,自分の選択に対する自信度は長時間犯人を見た被験者と同じほど強かった。
 この実験でもっとも興味深いのは,自信過剰が証明された点ではない。ラインナップ写真から犯人を選び,選択に対する自信度を答えたあと,被験者は彼らの回答についてなにも知らされていないべつの実験者から,“反対尋問”を受けた。この反対尋問を撮影したビデオが,新たな被験者グループに見せられた。彼らの役目は,目撃証言による犯人の識別が正しいかどうかを判断する陪審員である。結果を見ると,陪審員はきわめて自信度の高い証人の識別を77パーセント信用した。自信度の低い証人に対する信用度は,59パーセントだった。さらに重要なのは,目撃条件がよくなかった(目撃した時間が短く,犯人が帽子をかぶっていた)場合でも,証人の自信がきわめて強いと,陪審員がその言葉を信じたことである。つまり,たとえ頼りない情報でも,証人の自信が陪審員の判断に大きな影響をあたえるのだ。

クリストファー・チャブリス&ダニエル・シモンズ 木村博江(訳) (2011). 錯覚の科学 文藝春秋 pp.145-146

間抜け

 なんでこんなに間抜けな失言をするのかというと,自分がどういう立場にいる人間かがわかっていないからだ。自分を客観視する能力がないからこういうことになる。グーッとカメラを引いて,自分のことを俯瞰で見下ろして,周りの状況を把握していれば,絶対こんなことにはならない。
 普通政治家ともなれば,そのぐらいのことは当たり前にできていると思っていたんだけど,発言の影響力とか,マスコミが失言を虎視眈々と狙っていることを,わかっていない。それがわからないから間抜けなんだよ。
 まあ,そういう失言をテレビや新聞の記者連中が,マイクを突きつけながら鬼の首をとったように,「国民に説明してください!」「真意はなんですか!」と,目くじら立てて非難するのも,それはそれで間抜けに映るけど。

ビートたけし (2012). 間抜けの構造 新潮社 pp.18

「お金になりません」?

 その証拠をいくつか示そう。70年代半ば,ソフトウェアやアプリケーション研究に,より多くの財政的支援を求めるヒラノ助教授に対して,通産省の担当課長は言った。「ソフトウェアはお金になりません。通産省としては,ソフトウェアより,“ハードウェア(ものづくり)”に集中投資したほうがいいと考えています」と。
 また,通産省の知恵袋と言われた東大工学部教授は,「日本は足腰が強ければ,アタマが少々野暮ったくても構わない(ソフトウェアやアプリケーションは,アメリカに花を持たせてやりましょう)」と言っていた。
 
今野 浩 (2012). 工学部ヒラノ教授の事件ファイル 新潮社 pp.161

不正へ

 自国パスポートの無審査販売,銀行ライセンスの大盤振る舞い……。存亡の危機にあったナウルは,不正行為に手を染めた。雪だるま式に国の借金が膨れ上がったことで,絶望感にさいなまれたナウルは,無駄な抵抗を繰り返したが,その後,数年かけて信頼の回復に努めた。2005年可からは,ナウルのマネー・ロンダリング撲滅に対する取り組みが評価され,ナウルは「マネー・ロンダリングに関する金融活動作業部会(FATF)」のブラックリストからは外されたが,充分な監視が必要という評価は相変わらずであった。

リュック・フォリエ 林昌宏(訳) (2011). ユートピアの崩壊 ナウル共和国:世界一裕福な島国が最貧国に転落するまで 新泉社 pp.97

民主主義と自己コントロール

 民主主義は自己コントロールにつきものの基本的な矛盾に苦しめられている。民主主義は自己コントロールに依存し,自己コントロールを強化しつつ,同時に自己コントロールを蝕んでいる。その意味では資本主義によく似ている。どちらもそれぞれが寄って立つ抑制と計算を推進しつつ,蝕んでもいるのだ。だが民主主義の考え方そのものが,市民の側にあるかたちの自律が存在することを前提としている。そして理論的には,民主的に選出された政府は,あくまで人々が自己の最善の利益のために努力することを助ける手段であるべきなのだ。まちがってはいけない。個人の意志力が届かない真空領域ができれば,国家とその代理がその領域を支配するだろう。自由に自制がともなわない場合には,確立された民主主義国家の市民といえども市民的自由の侵害を受け入れることになる。
 だから,かつては自由と同じく自制心で知られた英国で,まるでオーウェルの世界のように400万台以上の(犯罪増加に寄って育てられた悪の花である)監視カメラが設置されて,毎日何度も市民の姿を撮影する事態になる。英国ではジェレミー・ベンサムの言うパノプティコンの巨大版と化したのかもしれない。パノプティコンとは,囚人からは見えない看守がいつでもどの囚人でも監視することができる円形の監獄のことで,見られているかどうかとは関係なく,いつでも監視下に置かれていると思うしかない。一方,アメリカでは使用者が求職者に履歴書だけでなく尿のドラッグ検査まで要求する。どちらにしても間違った政策が実施されているとしか思えないが,しかしこれらの政策は真空状態で生まれたのではないし,犯罪とドラッグ使用の結果として(言い換えれば,自己規制の欠如のせいで)市民的な自由の少なくとも一部が制約されたと言うべきだろう。エドマンド・バークは1791年に「人々が享受する市民的自由は,人々が自らの欲望にかける倫理的な鎖と正比例する」と言った。

ダニエル・アクスト 吉田利子(訳) (2011). なぜ意志の力はあてにならないのか:自己コントロールの文化史 NTT出版 pp.318-319

自己コントロールと政治

 自己コントロールの道徳的側面を考えると,どうしても政治色を帯びてくる。自分の人生の決め手は自分の努力と意志だと信じている人と,人生は遺伝と環境のせいだと(自分ではどうしようもない要因のせいだと)信じている人とでは,税制や規制,所得再配分についての感じ方が大きく違う。一般的に保守派はリベラル派よりも,人には自分をコントロールする能力があると強く信じているようだ。ただし女性やマイノリティ,そして地球に有害な行動は例外で,これらの問題については両者の立場は入れ替わる。どちらにしても,意志の強さについて問題を抱えている者が多いという事実から,国民を当人自身から救うために政府がどこまで介入すべきかという大きな課題が生まれる。そして保守派もリベラル派も自由を主張しつつ,同時に離婚や中絶を規制するとか(保守派),税や規制を増やす(リベラル派)などによって,人々の自由行使に政府が介入することを支持している。

ダニエル・アクスト 吉田利子(訳) (2011). なぜ意志の力はあてにならないのか:自己コントロールの文化史 NTT出版 pp.26

年金積立金の浪費

 第3章で少し触れましたが,実は,厚生年金にせよ,国民年金にせよ,設立当初は積立方式で運営されていました。今でも,厚生年金で140兆円,国民年金で10兆円ほどの積立金があるのは,かつて年金制度が積立方式で運営されていたことの名残なのです。何十年もの間,運営されているうちに,いつの間にやら積立方式から賦課方式に切り替えられてしまったのです。ではなぜ,現在の年金制度は,賦課方式になってしまったのでしょうか。
 その理由を端的に言うと,政治家や官僚が年金積立金を無計画に使ってしまったからに他なりません。その使い道の1つは,歴代の自民党政権が人気取りのために,当時の高齢者たちに行った年金の大盤振る舞いです。特に,田中角栄が首相であった1970年台前半に始まった大盤振る舞いは大規模で,当時の高齢者たちの年金額を,彼らが支払ってきた保険料をはるかにしのぐ水準に設定しました。また,当時の勤労者の保険料も,彼らが老後に受け取る年金額から考えると,はるかに低い水準に据え置かれ続けました。このため,既に蓄えられた積立金は取り崩され,本来はその後もっと蓄えられるべきであった積立金が,プールされないまま放置されたのです。
 また,その他の積立金の無駄遣いとしては,厚生労働省や旧社会保険庁の官僚達が,天下り先の特殊法人や公益法人を通じて浪費した人件費やプロジェクト,旧社会保険庁自体が行った福利厚生費への流用,グリーンピアやサンピアといった巨大保養施設の建設費等が挙げられます。
 こうした大盤振る舞いと無駄遣いの結果,巨額の積立金が失われました。厚生労働省自身の最新の計算によれば,本来,厚生年金で830兆円,国民年金で120兆円存在しなければならない積立金は,2009年時点で厚生年金が140兆円,国民年金が10兆円程度存在するにすぎません。つまり,差し引きで,800兆円(厚生年金690兆円,国民年金110兆円)もの積立金がこれまで浪費されてきたことになります。

鈴木 亘 (2010). 財政危機と社会保障 講談社 pp. 138-139

再配分で所得格差拡大へ

 第2に,安易な公費投入の恩恵にあずかっている人々は,実は,低所得者だけではなく,中所得以上の普通の一般国民にまで及んでしまっています。本来,最底辺まで落ちてしまった人々を救う仕組みがセーフティ・ネットであるはずですが,日本では高度成長を続ける中で貧困層や弱者が減少したため,生活保護制度や税制の再分配機能が弱体化し,社会保険で中間層に富の再配分が行なわれるようになってしまっています。このため,日本の社会保障制度は,中間所得層に対する所得再分配の方が,低所得者に対する再分配よりも大きく,驚くべきことに,所得格差をむしろ拡大させる制度となってしまっているのです。

鈴木 亘 (2010). 財政危機と社会保障 講談社 pp. 126

当時の責任

 人口構成が若く,経済成長が著しい高度成長時代には,将来の世代ほど経済状況が良くなりますから,負担を将来の世代に安易に先送りして,その時代の高齢者に大盤振る舞いをしようという政治判断がされやすいのです。
 また,賦課方式は,年金だけではなく,医療保険や介護保険にも及んでいます。このうち,医療保険については,設立当時はまだ高度成長時代ですから,賦課方式を採用したのはある程度,やむを得ない面があるかもしれません。しかしながら,介護保険については,少子高齢化が急速に進んでいる2000年に設立されたのですから,賦課方式の採用はまったく理解不能であり,ほとんど正気の沙汰ではありません。安易な財政方式を選んだ当時の政府,厚生労働省の責任は非常に重いと言えるでしょう。

鈴木 亘 (2010). 財政危機と社会保障 講談社 pp. 120

ヤードスティック方式

 ヤードスティック方式とは,簡単に言えば,ある一定の基準を満たさないと運賃値上げができないというものである。それまで鉄道会社は時代や経営状況などに即して運賃改訂し,それによって安全維持のための設備投資や経営状態を安定させてきた。
 しかし,ヤードスティック方式の導入によって賃上げによる改善はできなくなった。鉄道にも合理化の波が押し寄せるようになったのである。
 利用者から見れば,もっともな制度だと思うだろう。だが,机上から生まれた制度が鉄道の安全を揺るがしていくことになった。
 そもそも鉄道は,机上論では測れない側面を持っている。また,その側面は各社によって様々な性格を持ち合わせている。
 例えば,地域による客室であるとか,電車の性質による整備具合であるとか,駅の造りによる安全対策など諸々ある。乗降数が少ない駅でも客室によっては余分な駅員の確保が必要だったり,安全対策に要因が必要になったりと,人を相手にする鉄道は様々な諸事情を持ち合わせているのだ。
 しかし,それらも,鉄道の現場をあまり知らない役人達の数式によって計られることになった。鉄道各社ごとに適正コストが割り出され,各社はそのコストを達成するため合理化策を生み出した。そして行き着いたところが,鉄道員を減らして機会化を図り,乗務員に過重労働を押し付ける制度改革だったのだ。

大井 良 (2008). 鉄道噂の真相:現役鉄道員が明かす鉄道のタブー 彩図社 pp.244-245

投票すること

 民主主義の世の中で生きる場合のもっとも重要な責任は,よく考えて投票することだ。ロジカル・シンキングは,その大切な目標を達成するための大きな力となる。多数決の最大の弱点は,多数が間違う可能性があるということだ。アメリカの18世紀から19世紀にかけての奴隷制度がそれを教えてくれる。学校の教室で,正しいと思われるものを投票で選ばせたら,どれだけ混乱するかを想像してほしい。論理的な概念は成功には欠かせないし,成功のために努力することも重要だ。
 ホロコーストを忘れてはならないのと同じくらい,ソ連の経験を覚えておくことは重要である。ソ連が証明したのは,目標——経済的および社会的な平等——を達成することは,その目標が達成されても,人々の満足にはあまり結びつかないということだ。私たちは「何を望むか」について慎重にならなければならない。なぜなら,私たちはそれを本当に手に入れられるかもしれないからだ。ロジカル・シンキングは,良心的な人々が,本当に望むものを見極めるための力になる。

マリリン・ヴォス・サヴァント 東方雅美(訳) (2002). 気がつかなかった数字の罠:論理思考力トレーニング法 中央経済社 pp.180-181

政治難民に対して

 日本は政治難民に対してもひじょうに冷淡だ。2005年1月,日本は,UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の難民認定を完全に無視して,トルコのクルド系難民とその成人した息子をトルコに強制送還した。それ以前にも日本は,本国に帰れば危険であることがわかっていたアフガニスタン難民を強制退去させている。こうした日本の姿勢についてUNHCRは「かつてないこと」で「日本が行っている海外の難民や災害被災者への人道的な支援とは」「著しい対照をなしている」と指摘している。
 日本の移民政策の決定基準は公正さでなくDNAである。ペルーのアルベルト・フジモリ元大統領の事件がそのことを証明している。ペルーで汚職容疑がかけられていたフジモリは2000年,東京に逃亡したが,日本の入管当局に逮捕されるどころか,大歓迎された。すぐさま日本国籍を認められ,さらに法務省がペルーへの引渡しを拒否した。フジモリは1938年にペルーのリマで生まれたが,そのとき日本国民であった両親が日本大使館に誕生を届け出ていたからである。

マイケル・ジーレンジガー 河野純治(訳) (2007). ひきこもりの国:なぜ日本は「失われた世代」を生んだのか 光文社 pp.389

巧みな利用法

 日本の進歩勢力は,国が国家権力や助成金を駆使して民衆を動員し,利用することには反対しない。「民間」団体が国と協力して貯蓄,長時間労働,社会教育を促進するよう勧めてきたのである。このように,国と協力したり,国から財政援助を受けている民間団体は,本来保つべきその独立性がひじょうに疑われる。時の流れとともに,日本国家は,国民生活に対して,さまざまな形で干渉するようになった。市民運動を利用して,エネルギー消費の抑制や,リサイクルの推進といった国家目標を達成するという,巧みな方法を編みだしたのである。

マイケル・ジーレンジガー 河野純治(訳) (2007). ひきこもりの国:なぜ日本は「失われた世代」を生んだのか 光文社 pp.364

韓国の欠点

 このように韓国では市民運動が活発で,国内政治でも勢力を拡大している。とはいえ,欠点もある。韓国は日本のように平穏ではない。礼儀正しさや協調性もない。政策を話しあうような場合でも,あまり建設的な対話は期待できない。政党は,一貫した理念のもとに政策実現を目指す政治集団というよりも,たいていの場合,政治家個人を支持するために作られたカルト集団のようなもので,しかも腐敗にまみれている。有力かつ強力な市民団体はたえず国と対立しているので,韓国の民主主義はひじょうに不安定で,御しがたく,脆弱である。かつてのアメリカがそうであったように,若い民主主義にはバランスのとれたシステムが存在しなければならない。つまり,活力ある市民社会が,既存の政治機関を監視し不正を阻止しなければならない。
 しかし韓国には,そのようなバランスはかならずしも見られない。何十年ものあいだ独裁政権の弾圧に抵抗してきた韓国人は,ときどき行きすぎたことをしたり,過剰反応を示したりするようだ。たとえば,国会ではよく議員同士が殴り合いの喧嘩をする。また,韓国はかつての外国人嫌いを完全に払拭してはいない。外国人を疑い,グルーバル化がもたらす国際的な統合に抵抗を示す者も少なくないのだ。

マイケル・ジーレンジガー 河野純治(訳) (2007). ひきこもりの国:なぜ日本は「失われた世代」を生んだのか 光文社 pp.362-363

先例に従う

 どの国の官僚もそうであるように,日本の官僚も秩序を重視し,先例に従うことを好む。彼らにとって,新たな事実に対処するために従来のやり方を変える,というようなことは許されない。日本のように規制の多い国では,ほかの国と比べると,官僚が圧倒的に大きな力を握っており,通常,政治家よりもはるかに優秀な人材がそろっている。政治家の多くは政策立案能力がないうえに,次の選挙戦に備えていつも資金集めに奔走しているのである。

マイケル・ジーレンジガー 河野純治(訳) (2007). ひきこもりの国:なぜ日本は「失われた世代」を生んだのか 光文社 pp.79

公式発表

 約400名の科学者とさまざまな政府や非政府団体の代表者による分析,交渉,ロビー活動がふたたびへとへとになるほど繰り返されたのち,1995年にIPCCはその結論を世界に伝えた。報告書から広く引用された一文は次のとおりだった。「証拠の比較検討から,全地球の気候に対して識別しうる人間の影響が存在することが示唆される」。この巧みな言い回しには最初の草稿の表現を和らげた政治的妥協の努力があらわれているが,そのメッセージは間違いようがなかった。『サイエンス』誌が述べたように「これは公式発表だ」——「温室効果による温暖化の在所の兆し」が見えたのだ。

スペンサー・R・ワート 増田耕一・熊井ひろ美(訳) (2005). 温暖化の<発見>とは何か みすず書房 pp.215

政治問題化すること

 長期的視点から見ると,そもそもこのようなことが政治的な問題になるのは並外れて珍しいことだった。地球温暖化は目に見えず,ただの可能性にすぎず,現在の可能性ですらなく,何十年語,あるいはそれ以上あとになってようやく現れると予想されていることでしかなかった。その予想の根拠となっている複雑な推論やデータは,科学者でしか理解できない。このようなことが一般的な激しい議論のテーマになりうるというのは,人類にとって驚くべき進歩だった。会話はいろいろな点でより複雑になっていった。これはもしかしたら,知識の着実な蓄積と,豊かな国々の一般大衆がある程度の教育を受けるようになったことのせいかもしれない(このときの若者の大学進学率は,20世紀の初めごろの高校進学率よりも高くなっていた)。安定した時代と,平均寿命の何十歳もの意外な延びによって,以前よりも人々は遠い将来について計画を立てる気になったのだ。

スペンサー・R・ワート 増田耕一・熊井ひろ美(訳) (2005). 温暖化の<発見>とは何か みすず書房 pp.197

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