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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「医療・医学・薬学」の記事一覧

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マウスと人間

同じたんぱく質を作る遺伝子でもヒトとマウスでは働き方や働く場面が違う場合はいくらでもある。先に統合失調症の症状を示す遺伝子改変マウスの例を紹介したが,逆にヒトで特定の病気の原因となっている遺伝子の働きをマウスで止めても,人間と同じような症状を起こすとは限らない。結局のところ,病気になったとき,ヒトとマウスで働き方の違う遺伝子を薬の標的にしてしまうと,マウスで効果があるのに人では効かない,ということが起こり得る。でも,両者で働き方が共通している遺伝子を見出すことさえできれば,マウスはヒトのモデルとして十分ふさわしい,というのが2人の見立てである。

行方史郎 (2015). IQは金で買えるのか:世界遺伝子研究最前線 朝日新聞出版 pp.108
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遺伝子と薬

ただ,遺伝子や遺伝情報をめぐる取材をしていると,互いにやや方向の異なったベクトルがあると感じる。
 1つは,遺伝情報や技術をうまく使えば,病気の予防や治療を根本的に変えられるのではないかという期待だ。遺伝学の進歩と分子生物学的なアプローチとで,病気が起きるメカニズムの解明は確実に進みつつある。病気の発症にかかわる遺伝子は,今や特定の変異で起きる先天性の疾患に限らず,がんや糖尿病,心臓病,アルツハイマー病といった,人生の終盤で起きるような病気でも次々見つかっている。薬の効きにも個人の遺伝的な要因が深くかかわっていることがわかってきた。こうした遺伝情報を利用すれば,一人ひとりの体質にあわせた病気の治療が可能になると言われている。

行方史郎 (2015). IQは金で買えるのか:世界遺伝子研究最前線 朝日新聞出版 pp.8-9

ヘロインシロップ

少年が登場するのは,1912年のスペインの新聞広告。これは,ドイツの製薬会社バイエルが打った広告で,咳,風邪,そして”炎症”に効くという触れこみで,ヘロインシロップを宣伝している。別の広告では,品のいい服を着た主婦が,愛情を込めて,幼い娘の口にヘロインをスプーンで流し込んでいる。「ラ・トス・デサパレセ」と広告は謳う。「咳が消える」という意味だ。この広告キャンペーンは,大手製薬会社を批判する者が掘り出して2011年にネット上で公表するまで,完全に忘れ去られていた。これらの広告は,子どもを製品の使用者に想定していたが,他に1つ,同じ主婦が,気管支炎を起こしている夫にヘロインシロップを飲ませる広告がある。夫は,首に厚手のスカーフを巻いて,家に帰ってきたところだ。だれかがふざけて,こんなジョークを書きくわえている。「お帰りなさい,ハニー。ほら,スマックよ!」(スマックには「キス」と「ヘロイン」の意味がある)

デイミアン・トンプソン 中里京子(訳) (2014). 依存症ビジネス:「廃人」製造社会の真実 ダイヤモンド社 pp. 130-131

地域環境と健康

人的な環境だけではない。地域環境も肥満・健康な食生活,身体活動などと関連している。人口250万人の住民がいるリスボンの7669人を対象に,この人たちの特徴(ライフスタイルや教育年数,年収,就労状況など)とともに,どの地域に暮らしているかを調べ,その地域の特徴も調べて,それらの関連を分析した研究がある。まず個人レベルに着目すると,肥満は身体活動が少なく,教育年数が短い者などに多い。健康的な食生活は,教育年数が短く,離婚していて,失業中,低所得の者などでは難しい。身体活動は教育年数が短く,低所得の人で少なかった。
 次に,地区の特徴としては,犯罪の多さ,人口密度や運動施設(体育館やプール)の有無,ソーシャル・キャピタル(社会的統合の強さ)などを調べ,個人の特徴も考慮(統計的に調整)して分析した。その結果,犯罪が多い地域では健康な食生活,身体活動が少なく,肥満が多い。運動施設がある地域,ソーシャル・キャピタルが豊かな地域では身体活動が多かった。つまり,同じ個人の特徴をもつ人でも,どのような地域環境に暮らしているのかによって,食生活や身体運動料が違ってきてしまうのだ。

近藤克則 (2010). 「健康格差社会」を生き抜く 朝日新聞社 pp. 184

生死という評価軸

もう1つ,健康格差を問題にする意義には,生死が,評価尺度および価値としてもっている特徴によるものだ。才能や努力や成果を評価するのは意外に難しい。報酬面でも,お金以外に名誉や権力をはじめ非金銭的な報酬もいろいろある。評価すべき尺度がいろいろあって,どれが「絶対」とも言い切れない。つまり,何をもっとも重視するかは,「価値観しだい」で「相対的」になってしまう。
 しかし,生死となると,これまた話は違う。死は,測定上の価値の面でも,「絶対的」である。死んでしまえば「おしまい」だから。お金が増えてうれしいのも,勝ち負けも,その前提は「生きていること」だ。世論調査をみても,「最後はお金よりも健康」という声は多い。

近藤克則 (2010). 「健康格差社会」を生き抜く 朝日新聞社 pp. 33-34

毛生え薬の変遷

髪の悩みあるところ,毛はえ薬あり。ヒポクラテスもハゲの治療薬を開発した。アヘンとバニラエッセンスを,ワイン,オリーブ,アカシアの汁などで作った軟膏に混ぜ合わせて塗りつけたのである。もっと深刻な患者には,クミン,ハトの糞,ビートの根,そしてわさびで作った湿布を処方した。月桂樹をかつら代わりにしてハゲを隠していたローマのカエサルは,そのハゲ頭を心配する愛人のクレオパトラからエジプトに伝わる軟膏をもらっている。その軟膏は焼いたネズミ,馬の歯,熊の脂,シカの骨髄で作られたものだった。同じくローマ時代の博物学者プリニウスはハゲを恥辱と感じ,ネズミの糞や,小ロバの小便とオミナエシ科のスパイクナードを混ぜ合わせたものに毛髪回復の力があると考えていた。
 特に臭いのきついものに回復能力があると考えられていたようだ。

森正人 (2013). ハゲに悩む:劣等感の社会史 筑摩書房 pp. 90-91

短期記憶と長期記憶

私や同僚たちがヘンリーを研究した数十年にわたって,ヘンリーは数唱課題では正常範囲の成績を維持した。結果として明らかになったのは,ヘンリーは重い記憶喪失に見舞われながらも,短いあいだなら数個の数字を記憶として復唱できるという,くっきりとした対比だ。このことからは,ヘンリーの短期記憶は損なわれておらず,彼の障害は短期記憶を長期記憶に変換する過程にあるらしく思われた。15分間の会話でモレゾン家の出自について同じ話を三度しても,彼は自分が何度も同じ話を繰り返していることには気づかない。ヘンリーの脳内では,情報をホテルのロビーに導くことはできるが,部屋にチェックインすることができないのである。
 この二種の記憶をはじめて区別したのは,有能な心理学者にして哲学者のウィリアム・ジェイムズだった。1890年,彼は頻繁に引用される二巻の傑作『心理学の諸原理』を著わし,その中で一次記憶と二次記憶について述べた。ジェイムズによれば,一次記憶は私たちに「いま起きたばかりのこと」を思い起こさせる。一次記憶の内容はまだ意識の中にあり,「いま現在」と考えられる時間範囲に入る。この文章を読んでいるとき,私たちは頭の中ですべての言葉をその瞬間瞬間に取り入れているだけで,積極的に過去から掘り起こしているわけではない。
 これに対して,ジェイムズが唱える二次記憶は,「そのとき考えてはいなかった出来事や事実の知識であり,過去にそれについて考えるか体験したという意識が付随している」という。こちらの記憶は「貯蔵庫に保存された無数の他の項目に埋もれて視界に入らない状態から,蘇生され,想起され,掘り出される」。二次記憶では,情報はすでにホテルのロビーをうろつかずに客室で休んでいるため,発見して取り出さねばならない。
 驚くことに,ジェイムズの記憶分類は彼自身の内観によって生まれたらしい。彼は実験を行なった心理学者と話をしたかもしれないが,彼自身は自分や他人に実験を行なってはいない。ところが彼がこの記憶分類を提唱すると,科学者たちはこれらの記憶過程を区別しようと研究室で行動実験を実施した。その結果,現在は短期記憶——ジェイムズの一次記憶——と,長期記憶——ジェイムズの二次記憶——と呼ばれる概念が生まれた。

スザンヌ・コーキン 鍛原多惠子(訳) (2014). ぼくは物覚えが悪い:健忘症患者H・Mの生涯 早川書房 pp.85-86

10分の手術

モニスが成果を上げると,精神外科は人気を博すようになった。彼の施術は前頭葉切截術(ロボトミー)という新しい名称を与えられ,1930年代末から40年代にかけて広く行なわれた。この手技がこれほど歓迎されたのは,おもにモニスの弟子で,若くて野心に満ちたアメリカの神経学者ウォルター・フリーマンのおかげだった。有能な神経外科のジェイムズ・W・ワッツと共同で,フリーマンはモニスが開発した手法を1936年9月にはじめて実施した。不安とうつに苦しんでいたある中年の女性患者は,手術後には症状が和らぎ,世話が楽になった。それからの3年というもの,フリーマンとワッツはますますその数を増していく症例を各種の科学会議で発表し,この術法はメイヨー・クリニック,マサチューセッツ総合病院,ラヘイ・クリニックなど権威ある医療機関でもしだいに定着していった。
 フリーマンとワッツは施術の微調整を重ね,脳を持ち上げて目的の箇所にうまく到達するための新しい器具を作り,これをモニスのロイトコームに代えて使用した。このロイトコームの柄には彼らの名前が刻まれていたという。患者の症状次第では,前頭葉の対象領域に処置を行なうため,彼らはこめかみから器具を入れたりした。手術にはより過激なものもあった。経眼窩式ロボトミーと呼ばれる術式は,脳に入ってくる情報を伝える主要な部位である視床を破壊することによって,前頭葉の損傷を最小限にとどめようとするものだった。こちらの術式では,フリーマンは台所で見つけたアイスピックを目とその上の骨のあいだから脳まで差し入れた。この手法は10分もあればすみ,患者は歯医者の椅子に座ったままでいい。この手術の結果として,眼の周囲の黒あざ,頭痛,てんかん,出血,死亡といった合併症が生じた。ワッツはこの「アイスピック」を使う手技に術法としては賛同しなかったため,長きにわたったフリーマンとワッツの協力関係は終わりを告げ,この手技を採用するのはフリーマンのみになった。
 フリーマンが医師であった期間に行った手術数はすさまじい。彼は23州で3000人以上にロボトミーを施し,そのなかには成人の精神病患者のみならず,重罪人や統合失調症の児童もおり,うち1人はまだ4歳だった。フリーマンの患者の大半は女性で,なかでももっとも有名なのがローズマリー・ケネディである。ウェストヴァージニア州スペンサーで,彼が1日に25人の女性にこの手術を施したという記録があるが,真否は疑わしい。ヒポクラテスの誓いを立てたはずのフリーマンだったが,彼の関心は自身の手技にあり患者にはなかった。

スザンヌ・コーキン 鍛原多惠子(訳) (2014). ぼくは物覚えが悪い:健忘症患者H・Mの生涯 早川書房 pp.50-51

チンパンジーから

1930年代になると,精神外科手術が広く行なわれるようになった。この分野の先駆者であるポルトガルの神経学者アントニオ・エガス・モニスは,精神疾患の生物学的治療法を確立しようと試み,のちにノーベル賞を受賞した。モニスが着想を得たのは,意外なことにイェール大学医学部の比較心理学研究室で行なわれた実験だった。ここの研究員たちは脳の前頭葉——額のすぐ後ろにある大脳皮質部位——の機能を調べるためチンパンジー対象に各種の実験を行なった。
 ある実験では,研究員たちは正常な前頭葉をもつ,ベッキーとルーシーという名のチンパンジーを対象に記憶実験をした。実験者は二個のカップのどちらかに食べ物を隠す。次に,チンパンジーとカップのあいだにスクリーンを下ろし,秒または分単位で時間を変えてその状態を維持する。スクリーンを上げたあと,チンパンジーはどちらかのカップを選び,選択が正しければ食べ物をもらえる。正しい選択をするなら,チンパンジーは食べ物がどこに隠されているかを覚えておく能力があることになる。ただ,ヒトと同じく,チンパンジーは個性や情動に個体差がある。ルーシーとは違って,ベッキーは実験そのものを毛嫌いし,協力しようとしなかった。彼女はかんしゃくを起こしたり,床に寝転がって糞尿をまき散らしたり,記憶課題がうまくいかないと不機嫌になったりした。研究員たちは,ベッキーは実験神経症—実験室で動物にきわめて難しい認知課題をさせると起きる異常行動—であると結論づけた。つまるところ,ベッキーは神経衰弱だったのだ。ところが,ルーシーはそのような極端な反応は見せなかった。
 複雑な行動に前頭葉が果たす役割を調べる実験では,研究員たちはベッキーとルーシーの前頭葉を除去した。術後は,どちらのチンパンジーも待ち時間が数秒を過ぎると記憶実験で失敗し,食べ物のありかを記憶するには前頭葉が必要であることを示した。他の認知行動には変化がなかったため,研究員たちはチンパンジーたちの失敗がいわゆる認知能力の破綻のせいではないことを承知していた。ルーシーは手術前と同じく実験に協力的だったが,ベッキーの行動はすっかり変わった。まったく予想に反して,ベッキーは課題に手早く熱心に取り組み,以前のような不機嫌な態度は鳴りをひそめた。そこで研究員たちは,彼女のノイローゼは前頭葉除去によって「平癒した」と結論づけた。
 この偶然の発見がモニスの目にとまった。ベッキーの例,および他の動物実験や数例の臨床報告は,ヒトの前頭葉組織破壊によって情動および行動異常を治療できるという十分な証拠になると彼は確信した。精神疾患患者が見せる異常な思考や行動は,前頭葉と他の脳領域を結ぶ配線の異常に端を発すると彼は考えた。そこで,これらの誤配線を切断すれば,ニューロンどうしが健全な連絡回路を形成し,患者は正常な状態に戻ると主張した。

スザンヌ・コーキン 鍛原多惠子(訳) (2014). ぼくは物覚えが悪い:健忘症患者H・Mの生涯 早川書房 pp.47-48

ロボトミー

現在,前頭葉ロボトミーは一部の国で禁止されており,有効ではなく時代遅れと見なされている。この手術の無残な結果を知れば,そもそもどのような経緯でそれが行なわれるようになったのか理解に苦しむほどだ。しかし1938年から54年にかけて,ロボトミーを支持する人びとは,難治性患者の多くが施設に閉じ込められ悲惨な人生を送っており,この手技にともなうリスクはそうした患者が救済される可能性によって正当化されると主張した。この手術によって家族の元へ戻り,手術前より人間らしい生活を送れるようになる患者もなかにはいたのである。

スザンヌ・コーキン 鍛原多惠子(訳) (2014). ぼくは物覚えが悪い:健忘症患者H・Mの生涯 早川書房 pp.44-46

てんかんの歴史

十六世紀から十七世紀になると,学者たちはてんかん発作に先立つ突然の恐怖,興奮,ストレス,頭部損傷などの要因に目を向けるようになり,てんかんの医学的な理解が進んだ。てんかんを科学的に解釈する傾向は啓蒙時代に受け継がれ,学者はてんかん患者を観察する重要性を強調し,動物やヒトを対象にした実験によって,てんかん発作の生物学的要因を解明しようとした。
 十九世期には,医師がてんかん患者と「狂人」を区別しはじめ,てんかんの研究に大きな進展が見られた。フランスでは,臨床医が grand mal (大発作),petit mal (小発作),absence de saisie (アブサンス発作)といった用語を導入し,それぞれに詳細な臨床的記述を与える一方で,精神科医は患者の記憶障害をはじめとする行動異常に興味を示した。
 十九世期末,イギリス神経学の父祖ジョン・ヒューリングス・ジャクソンの尽力で,てんかん研究は大きな転換期を迎えた。ジャクソンは多数の患者の治療歴を記録し,それらの患者には自身の患者,他の医師の患者,医学文献で触れられた患者の例も含まれた。彼はこうした医学的記録の詳細を調べ上げ,てんかん発作が脳内の一領域に始まり,他の領域に秩序正しく広がっていくという新説を豊富な情報にもとづいて提唱した。こうした驚嘆すべき発作パターンはジャクソン型てんかんとして知られるようになり,初期の外科治療は以上が一つの孤立した脳領域である患者に限られた。

スザンヌ・コーキン 鍛原多惠子(訳) (2014). ぼくは物覚えが悪い:健忘症患者H・Mの生涯 早川書房 pp.27-28

脳の電気活動

現在の私たちは,てんかん発作が脳内の電気活動が過剰なために起きる行動変化であることを知っている。研究者がてんかんにかかわるこの事実をはじめて知ったのは,1920年代末にハンス・ベルガーが発明したきわめて重大な技術のおかげだった。ドイツで精神科医の職にあったベルガーは,脳機能(心と脳の相互作用)モデルの開発にキャリアを捧げた。脳の血流と脳の温度を行動に結びつける試みが無残にも失敗すると,彼は脳の電気活動に興味を移した。初期の実験では,患者の頭皮の下にワイヤを挿入し,ヒトの脳の電気活動をはじめて記録した。ベルガーは自らの手法を electroencephalogram (脳波=EEG)と命名し,速い波や遅い波など異なるリズムを記録した。非侵襲的な頭皮電極の導入などの一連の技術改良を経て,ベルガーはてんかん,認知症,脳腫瘍など数種の脳疾患で見られる異常な電気活動の記録に成功した。ヒトの脳にかんするこの新しい知見は神経学のありようを変え,脳の生物学にかかわる手がかりを研究者に与えた。

スザンヌ・コーキン 鍛原多惠子(訳) (2014). ぼくは物覚えが悪い:健忘症患者H・Mの生涯 早川書房 pp.29-30

背理法

背理法はきわめて重要なテクニックなので,もっと数学的な例も考えてみよう。私が「平均して,人間の心臓の鼓動は10分に6000回くらいだ」と主張したとする。この主張は真だろうか偽だろうか。すぐにおかしいと思ったかもしれないが,本当に偽だと自分で確信を持つまでの過程はどのようなものだっただろうか。先に進む前に,ここで数秒を使って自らの思考プロセスを分析してみよう。
 この場合も,背理法が使える。まず,議論の都合上,「人間の心臓は,10分に平均で6000拍する」という主張が正しいものとする。それが真実なら,1分では何拍起きていることになるだろうか。6000を10で割るわけだから,1分600拍である。すると,医療の専門家でなくても,これが1分に50〜150という正常な脈拍数よりもかなり高いことがわかる。そのため,「人間の心臓が10分に平均で6000拍する」という最初の主張は既知の事実と矛盾を起こすので,真ではない,ということになる。
 もっと抽象的な言葉で言うと,背理法は,次のように要約できる。Sという言明は偽なのではないかと疑っているが,ただの疑いを越えて偽であると証明したい。まずSが真だと仮定する。何らかの推論によって,たとえばTという別の言明も真でなければならないことを突き止める。しかし,Tは偽であることがすでにわかっているため,矛盾が生じる。そこで,最初のSという仮定は偽でなければならないということが証明される。
 数学者たちは,「SはTを内包し,Tは偽なので,Sは偽である」のようにこれよりもずっと簡潔な言い方をする。背理法を一言で言えばこうである。

ジョン・マコーミック 長尾高弘(訳) (2012). 世界でもっとも強力な9のアルゴリズム 日経BP社 pp.263-264

ウジの特徴

では,ウジはどうやって細菌におかされた傷を癒すのだろうか。外科医が傷口を消毒しようとするときにやることを,もっと手際よく,手数をかけずにやるだけのことだ。Debridementをウェブスターの辞書(Webster’s New College Dictionary)で引いてみると「傷つき,挫折し,あるいは感染した組織を外科的に取り除くこと」とある。外科医が死んだ組織をメスで切り離そうとすると,一緒に生きている組織まで損なってしまうのは避けられない。ところがウジは死んだ組織を文字通り細胞単位で取り除き,そのうえ好みがまことにうるさいので,死んだ細胞しか食べようとしない——生きている細胞には見向きもしないのだ。ウジは,最大限まで成長すると傷口を離れるので,傷を覆っている包材から取り除かれる。自然界では,動物の死骸や生きた動物の化膿創にとりついてせっせと腹を満たしていたウジはその段階になると——ほとんどすべての蝿の幼虫の例に漏れず——その場を離れて地面に落ち,浅い穴を掘って蛹になる。

ギルバート・ワルドバウアー 屋代通子(訳) (2012). 虫と文明:蛍のドレス・王様のハチミツ酒・カイガラムシのレコード 築地書館 pp.215

ウジ療法

ベアの発見は特に目新しいものではなかった。ロナルド・シャーマンとエドワード・ペクターは,メキシコとグァテマラの古代マヤ人やオーストラリア,ニューサウスウェールズ州のゲンバ族,そしてビルマ(現ミャンマー)の丘陵民族がウジ療法を行っていたとしている。1829年,ナポレオン軍の軍医が,戦闘で被った傷のウジは感染を防ぎ,治りを早くすることを発見している。しかし,この軍医が新たな知見を実用に供してウジ療法を行ったかどうかはわからない。ベアによれば,西洋の医師としてはじめてウジ療法を実行したのは,南北戦争時の南軍の軍医であろうという。ベアはウジはたったの1日で,ほかに手に入るいかなるいかなる薬剤,いかなる手段を用いるよりもきれいに傷口を掃除すると述べた。そして,ウジを使ったことで,そうしなければ失われていたに違いない多くの手足,のみならず傷ついた多くの兵士の命を救えたのだと確信していた。
 ベアの時代には,ウジ療法は医療技術として容認されるようになっていたと,シャーマンとその共同執筆者は記している。アメリカでおよそ1000人の外科医がこの療法を用い,レダーレ社では無菌化したウジを1000匹あたり5ドルで売っていた(現代の価格にすると100ドルに相当)。ウィリアム・ロビンソンによれば,1933年以前,アメリカ合衆国とカナダでは300におよぶ病院がこの療法を行っていたし,無菌ウジを培養する独自設備を備えた病院もあった。

ギルバート・ワルドバウアー 屋代通子(訳) (2012). 虫と文明:蛍のドレス・王様のハチミツ酒・カイガラムシのレコード 築地書館 pp.212-213

傷を塞ぐ蟻

1921年,イギリス領ガイアナ(現ガイアナ)でウィリアム・ビーブが地中のハキリアリの巣を掘り出していると,彼は怒り狂った防衛蟻の一群に攻撃された。攻撃してきたのは小さな働き蟻と中くらいの蟻,そして強力な顎のある体長2,3センチはあろうかという兵隊蟻で,兵隊蟻はその顎でビーブのブーツの革にがっちり食らいついた。翌年ビーブがブーツを取り出してみると,そこには「2匹の(兵隊蟻の)頭と顎が,過ぎた年の忘れられた襲撃の形見のように,まだしっかりと食いついていた」という。ビーブはさらに,「この万力のごとき顎の力は,蟻が生きていようが死んでいようが構わずに働くため,ガイアナの先住民は傷口を縫い合わせるのに利用している。針と糸を使うのではなく,大型の(ハキリアリの兵隊)蟻を集めてきて顎を皮膚に近づけるとがっちりと噛み合わさる。蟻が離れなくなったところで体を切り離し,傷が癒えるまで顎をいくつも噛ませておくのだ」
 海を渡って東半球では,蟻を傷口の縫合に使う画期的な方法は,紀元前2000年以前のインドではじまっていたとE.W.ガジャーは言う。この用法が最初に文献に現れるのは,ヴェーダの第四部だ。ヴェーダは古代サンスクリットの知恵を集めた書物であり,インド医学の最古の文献といってもいい。「腸閉塞の手術中,腸壁の」切開部を閉じるのに,生きたクロアリが使われた。なんと3000年以上前のことである!この知識は後にアラブ人に伝わった。イスラムの名のもとに,8世紀,アラビア半島を飛び出してアフリカ北部とスペイン,そしてフランス南部へと席捲した人々に,である。
 12世紀のスペインで医療に携わっていたアラビア人医師アルブカシスは,切り口を縫合するのに蟻を使った。中世紀末からルネサンス期には,ヨーロッパで傷口の縫合に広く蟻が用いられていた。当時,外科医の中には,そうした蟻の使い方を冷笑する者もあったという。とっくに廃れた手法だというわけだ。そして17世紀以後,ヨーロッパの外科医は縫合に蟻を使わなくなった。だが,地中海東部と南部では,少なくとも19世紀の終わりまで,この手法が生き続けていたようだ。

ギルバート・ワルドバウアー 屋代通子(訳) (2012). 虫と文明:蛍のドレス・王様のハチミツ酒・カイガラムシのレコード 築地書館 pp.204-205

七五三

江戸時代,多くの親はこどもを流行病で亡くした。家斉の子女も57人中,32人が5歳を待たずに早世した。現代の七五三はこどもと両親が着飾る派手なファッション・ショーと化したが,往時の七つの祝いは,「よくぞ,七歳までぶじに育ってくれた」と心底より氏神に感謝する意義深い祝い日だったのである。

篠田達明 (2005). 徳川将軍家十五代のカルテ 新潮社 pp.137

江戸の脚気

八代吉宗の治世は米の値段が激しく変動して庶民は物価の上昇に苦しめられた。吉宗は“米将軍”と呼ばれたほど米価の調整に力を入れたが,この間,着々と経済力をのばしたのは商人たちである。富裕になったかれらは1日3食の習慣を定着させ,やがて全国にこれがひろまった。江戸の町民はヌカを落とした精白米を腹一杯喰わねば満足しなかった。同時に江戸では脚気の病いが流行した。脚気はヌカに含まれるビタミンB1の欠乏によっておこる。春から秋口にかけて発症し,とりわけビタミンB1の消耗がはげしい夏場に悪化する。田舎から丁稚奉公にやってきた少年たちは白米飯を食べると足腰の力が抜け,いわゆる「江戸煩い」にかかった。盆に故郷へ帰って玄米飯を食べると奇病はなおる。家康の時代は食生活が質素で,武士たちも玄米を常食にしていたが,家治の時代には江戸城台所も味のよい精白米しか買い上げなかった。

篠田達明 (2005). 徳川将軍家十五代のカルテ 新潮社 pp.130-131

綱吉の身長

プロローグで述べたように将軍が亡くなるとその場で遺体の身長を測り,これと同じ長さの位牌をつくって三河の大樹寺まで運んだ。大樹寺に展示された歴代将軍の位牌の中できわだつのは綱吉のそれが低いことである。わずか124センチしかない。綱吉は犬公方と呼ばれて人々を苦しめたから,亡くなったとたん,計測係がこのときとばかり身長を好い加減に計ったのかとわたしは勘ぐった。だが位牌は幕府が公式に製作して三河まで運ぶものであって,そんな非礼はできるはずもない。父家光の身長は位牌によると157センチ,母桂昌院のそれは遺体の実測値で146.8センチである。江戸時代の男女としては標準的寸法である。その両親から生まれた綱吉の背丈が小学2年生ぐらいしかないのは低身長症と断じてもよいだろう。
 低身長症の原因には内分泌異常,骨系統疾患,栄養不足,愛情遮断性小人症などさまざまなものがある。綱吉の肖像画を見ると均整のとれたからだつきをしており,特別な症状はみとめられない。したがって突発性(原因のはっきりしないとき医者はこういう便利な用語を使う)あるいは成長ホルモン分泌異常による低身長症と思われる。将軍が極端に小柄であれば,いかにも威厳が足りず,綱吉にとって大きなコンプレックスになっただろう。

篠田達明 (2005). 徳川将軍家十五代のカルテ 新潮社 pp.89-90

家康の死因

一般に家康は鯛の天ぷらによる食中毒で亡くなったとされる。だが『江戸時代医学史の研究』を著した医史学者服部敏良博士は,家康の死因は胃がんではなかったかと指摘する。その根拠として,家康はしばらく前から食欲がなく,からだが徐々にやせてきたこと,侍医の触診にて腹中にしこりをふれたこと,もし鯛の天ぷらによる食中毒で死亡したならば数週間以内で決着がついたはずだが家康が亡くなったのは発病から3か月もかかったことなどをあげている。服部博士は家康の胃がんは以前から発症していて鯛の天ぷらが症状を顕在化させる引き金になったのではないかとも推測する。たしかに胃がんが腹上よりしこりとなってふれるようであればすでに末期であろう。食欲がないならと茶屋四郎次郎に鯛の天ぷらをすすめられた気配もある。がんはしばしば家系的にみられるが,のちに述べるように息子の忠英や孫の水戸光圀も消化器がんでたおれたことや,臨終間ぎわまで意識があったこともがんの発症をうたがわせる。

篠田達明 (2005). 徳川将軍家十五代のカルテ 新潮社 pp.34-35

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