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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「医療・医学・薬学」の記事一覧

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壊死

 壊死(ネクローシス)は,生きた組織の死とされるが,この冷静な定義は,組織の死がどれほど気持ち悪く,恐ろしいものであるかをうまく表現できていない。壊死をもたらす毒液は,多くの皮膚や脚一本を丸ごと腐らせ,壊疽を引き起こし,血液・膿・腐敗臭を滲出させる。健康なピンク色の組織は死んで真っ黒になり,液状化した肉から溢れる体液で膨れあがり,ついには腐敗し,ゾンビのような塊になって骨から剥がれ落ちる。そのような傷を表現するのに,医師や科学者が壊死という言葉を使いたがるのは,不思議ではない。
クリスティー・ウィルコックス 垂水雄二(訳) (2017). 毒々生物の奇妙な進化 文藝春秋 pp. 162

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ヒル治療

 今日でも,生きたヒルが治療に使われている。ヒルは血液循環を改善することができ,また移植したり再接着したりした組織への拒絶を抑えることができるのだ。静脈瘤の治療のために,臨床医がヒルを用いることもある。実際に,血管形成のような最新の外科手術の際に用いられる抗血液凝固剤——アンジオマックス(ビバリルジン)——は,医療用ヒル(Hirudo medicinalis)からとった毒液化合物をもとに作られた小さなペプチドである。これは,アメリカで今のところ市販されている毒液由来の三つの抗血液凝固剤のうちの一つである。FDA(アメリカ食品医薬品局)が承認している,毒液からつくった6つの薬品のうちの半分が,抗血液凝固剤なのだ——臨床試験では,さらに数個の毒素が治療薬として使われている。
クリスティー・ウィルコックス 垂水雄二(訳) (2017). 毒々生物の奇妙な進化 文藝春秋 pp. 141

IgE抗体

 最後に,アレルギー症候群は毒液を注入されたり,毒を摂取したりした場合に役立つものと解釈できる。体がIgE抗体に対する反応を改善させていけば,アレルギー症候群は有益なものとなるに違いない。実際,吐いたり,くしゃみしたり,咳き込んだりすることで毒素を排出できるし,血圧が低下することで毒素が全身にまわるスピードを遅くすることもできる。抗凝血成分であるヘパリンが放出されるのも,多くの毒液がもつ血液凝固作用と戦うためと解釈できる。
クリスティー・ウィルコックス 垂水雄二(訳) (2017). 毒々生物の奇妙な進化 文藝春秋 pp. 92

化学薬品中毒

 工場から流出した化学薬品が下水道の汚水と反応して,中毒事故が起きたケースもあった。1875年,ワンズワース地区の委員会に雇われた洗い流し作業員の一団が,「ウォレス薬品製造会社」の工場の敷地に近い支線下水道に入った。そこでは,「道路の通気口が……(中略)……夜になると濃い高熱の蒸気を放出する」ため,通行人が気分を悪くするので,地域住民で組織した「抗議委員会」が,以前から抗議を行っていた。下水道の中の工場の排水口からは「作業員の手にひどい火傷を負わせて,あらゆる色に変えてしまう青い物質」が噴き出ていた。ごみを取り除こうとしていた作業員は,突然,「ジンジャービアを開けたときのような,シューッという音」の蒸気と硫黄のにおいに襲われた。四人の男はみな意識を失って倒れ,うちひとりは死亡した。
リー・ジャクソン 寺西のぶ子(訳) (2016). 不潔都市ロンドン:ヴィクトリア朝の都市洗浄化大作戦 河出書房新社 pp.146

コレラの原因

 現存するコレラの調査記録でもっとも詳細だったのは,シティ・オブ・ロンドンによるものだ。当時のシティの一番の問題は,ごみ収集人がスラム街のごみ収集を拒むことだった。当局はさっそく,ごみ収集人の契約条項や,作業にあたっては「住民や賃借人に料金や費用を請求しない」という条件を列挙したポスターを作成した。さらに,貧困者の便所の惨状はごみと一,二を争うほど不快な問題としていた。
 原因は放置だった。スラム街の家には,便所の設備が存在しないか,存在したとしても,ひとつの便所や汚物だめを数十人の賃借人が使い,大家は一度も汲み取りをせずに放置した。水洗便所はほとんど知られておらず,不潔を極める最悪のところでは,「床や便座に汚物が30センチメートルも積もり,道路の排水溝を流れていた」。首都が拡大するにつれて,家主は老朽化した建物にさらに多くの賃借人を詰め込み,賃借人は自分の部屋をまた貸しした。おびただしい数の陰気な路地や裏通りで,不潔な状態が当たり前となっていた。汚物だめの汲み取りには金がかかり,スラム街の家主は汲み取り代を払いたがらず,住人には払えないし,払う気もなかった。その結果,便所のなか,周囲,地下鉄に,さらには放ったらかしの路地に——やむを得ずどこでも——汚物がおぞましく堆積していった。テムズ川を行く船の乗客は,あろうことか,潮汐がある川の上にせり出すように家が立ち並ぶスラム街から,目を逸らさねばならなかった。「積荷も何もあったものではなく,川面に張り出した便所に女性が入っていくと汚物が川に落ちるのが,通りがかりの誰の目にも見えるのだ」
リー・ジャクソン 寺西のぶ子(訳) (2016). 不潔都市ロンドン:ヴィクトリア朝の都市洗浄化大作戦 河出書房新社 pp.83

上下水道

 下水道に関連する公衆衛生の不祥事が初めて起きたのは,1827年のことだ。きっかけは,ジャーナリストで議会議事録の編集者でもあったジョン・ライトが執筆した,100ページを超える扇動的なパンフレットで『ドルフィン,あるいはグランド・ジャンクション社の迷惑行為——ウェストミンスター及びその周辺の7000世帯に供給されている水は,見るも不快で,想像するだけでもおぞましく,健康を破壊する状態にあることの証明』と題されていた。ライトはグランド・ジャンクション水道会社が,テムズ川から蒸気機関で水を汲み出していること——そして,同社が吸水する配管は下水の排水口から数メートルの位置にあること——を明らかにした。給水管の位置はきわめて明確で,木製の係船杭,「ドルフィン」がすぐそばにあった。給水した水は貯水場(不純物が沈殿して取り除かれる)を経由せず,濾過もされずに7000戸の家庭に届けられ,その多くがウェストエンドの貴族の家庭だった。首都のエリートは薄められた排泄物を供給されて,飲み物や料理や洗濯に使っている——しかもその特権に大金を払っているというわけだった。
リー・ジャクソン 寺西のぶ子(訳) (2016). 不潔都市ロンドン:ヴィクトリア朝の都市洗浄化大作戦 河出書房新社 pp.74-75

病院内の階層

 病院内でのヒエラルキーにも納得がいかない。医療従事者である療法士は医師よりもはるかに低い給与水準で働いている。確かに僕の脳梗塞についても脳外科医たちは再発を防ぐためにベストを尽くしてくれてはいるが,悪く言えば「再発・悪化さえしなければOK」と感じているようにも思える。僕がなにを不自由に感じていて苦しんでいるのかを知るのは,そのために指導し僕のQOL向上を常に考えてくれているのは,ほかでもないリハビリの先生たちなのだ。



鈴木大介 (2016). 脳が壊れた 新潮社 pp.83


リハビリ=駄菓子屋のくじ引き

 「鈴木くんさあ,リハビリっつうのはさ。あの,なんつうかな?そうそう,あ~れ,駄菓子屋のくじ引きなんだよね。駄菓子屋にあんだろ?壁に引っかかってるくじの束から引っこ抜いてくやつ。あ~れなんだよね。あれ,これかな?これじゃねーならこっちかな?って感じで,あちこち手当り次第に力入れてみて,指動かそうとしてるのに足動いたり顔が引きつったりすんでしょ?そんで駄目でも片っ端から試して,そんでも全部外れくじで,その挙げ句に『ようやく動いたあああ!!』っていうのが,アタリくじ。で,いっぺん当たったら,そのアタリくじを何度も引いて,場所を覚えちゃって,一発でアタリ引けるようになるっつうのが,リハビリなワケ。分がる?」


 それそれ!めっちゃ分かります。だって俺,昨日そのアタリくじ引きましたよ!織田信長って書いてありました。今日はどこにあったか忘れちゃったけど,また探せば見つかりますよね。



鈴木大介 (2016). 脳が壊れた 新潮社 pp.54


飲酒と病気

 飲酒と病気の疫学調査では,適量飲酒者のほうが非飲酒者より健康面で有利だという結果が見られる。これに対して,適量飲酒者は一般に裕福で恵まれているからだという批判がある。疫学調査が実施された西欧社会では,適量の飲酒はごく当たり前のことであり,生活習慣にとけ込んでいる。酒を飲まない人は,飲まないことをあえて選んだ少数派と言ってもいいだろう。その理由はわからないが,健康問題が背景にあることも考えられる。だとすれば,非飲酒者の発病リスクが高くなる真の原因は,そこにあるのではないだろうか。



リチャード・スティーヴンズ 藤井留美(訳) (2016). 悪癖の科学:その隠れた効用をめぐる実験 紀伊國屋書店 pp.61


瀉血の容認

数千年にわたる医学の歴史の中で,瀉血はほとんどすべての時代を通して治療として行なわれてきたのであるが,まことに不思議なことである。確かに瀉血によって病態が改善することもあったであろうが,私たちの現代医学を学んだものにとっては,考えられないことである。
 しかし,古代はもちろん,ガレノスの時代は瀉血が唯一の治療法であったのである。中世,アラビア,近代の医学においても,瀉血が占める医療の役割は大きく,さらに僧侶や一般大衆の健康法としてまで普及していたのであるが,これは医学の錯誤としかいいようがない。医学が大きな過ちを堂々と繰り返していたのである。当時も瀉血が人間に決して良好な結果を与えていないと信じていた医師もいたのだが,社会全体が瀉血を容認しているものだから,それに立ち向かうことはできなかったのである。

藤倉一郎 (2011). 瀉血の話 近代文藝社 pp.111

日本の瀉血

江戸末期,わが国においては刺絡といわれて,西洋の瀉血と比べると,その採血量は少なく,採血のために患者に与える影響は限られていたと思われる。西洋において,瀉血は数100mlから1000ml以上に及ぶこともあり,これが有効であると報告されていたが,わが国の場合はせいぜい数10mlであったと思われる。

藤倉一郎 (2011). 瀉血の話 近代文藝社 pp.104

血液循環説の障壁

ハーベイ自身,瀉血に関して,それを支持し,瀉血は「当時の医療の中で最も卓越したものと考えていた」と表明している。ハーベイの仕事は医学の近代化がもたらした巨大な烽火であったが,それが人の病気を治すうえで直接響くことはなかった。多くの保守的な医師はハーベイを冷たくあしらい,血液循環は不逞の思想であり,医学の諸問題を解決するには無意味である。現実に伝統的な瀉血や投薬の方針を決める上で何の役にも立たなかった。
 血液循環説がたやすく一般に受け入れられなかったのは,古来ガレノスの学説があまりに深く根を張っていたからである。9年後にようやく世に認められたが,率先者はデカルトである。

藤倉一郎 (2011). 瀉血の話 近代文藝社 pp.55

専門職業としての医者

大学が正規の教育を受けた医師を社会に送り出し,そこに医業という専門職業が独立したことは医学が進み社会的な進歩と見ることができる。ドクトルの社会的地位は貴族に準じ市医は免税特権をもっていた。しかしボローニャのように外科を内科に加え,外科医の資格を正式に認定した大学は例外で多くは外科を締め出してしまった。そして外科医は大学の理論に通暁した医者の命令と監督のもとにあるのが普通だった。

 こんな中で15世紀のドイツ・チュービンゲン大学のカリキュラムを見ると1学年はガレノスとアヴィセンナ,2学年はアヴィセンナとラーゼス,3学年はヒポクラテスとガレノス更にアヴィセンナ,マサーウェー,コンスタンチヌス,アフリカヌスであってアラビア医学全盛であった。ギリシャ医書,アラビア化したギリシャ医書を侵すべからざるものとして尊び,科目には占星術も加わっていた。

藤倉一郎 (2011). 瀉血の話 近代文藝社 pp.39-41

瀉血の手順

瀉血が必要なときは詳細な処方箋が渡され,空腹時に瀉血が行なわれなければならない。食事をすると血液は体内を強く流れ,血液と体液が混合して分離できなくなり,瀉血の効果がなくなる。瀉血の様式と技術のすべては図示されており,ふつう患者は椅子に座り,血液の流れを良くするために,手で棒を握り,腕に瀉血帯を巻き,肘静脈を切開して血液を器の中へ噴出させる。器の中の血液は色や凝固やその他の基準によって判断され,治療への手がかりとなる。

藤倉一郎 (2011). 瀉血の話 近代文藝社 pp.36

瀉血のポイント

中世全体を通じて瀉血は特に高く評価された治療法であった。体液学説により,過剰な血液は排出するべきであり,損なわれた体液はきれいにしなければならない。熱すぎる血液をさまし,血流をゆるやかにして有害な体液を排出することができる。この際常に考えなければならないことは,年齢,性別,気候,季節,風向き,患者の生活様式,病気の段階であった。血液排出できる静脈は三十を超え,占星術が流行し,大宇宙の天体の運行が小宇宙の人体を支配するという大宇宙,小宇宙説が信じられていた。そのため占星術と瀉血が結合し,血をとる月や日が問題となり,瀉血カレンダーが作られた。9,10,12月は瀉血によく,1,2,4,7,8月は不良だなどといわれた。星座の位置がよくない時は瀉血を避けなければならなかった。

藤倉一郎 (2011). 瀉血の話 近代文藝社 pp.36

これでいいんだ

どうしてぼくは,そこまで悪くなってしまったのだろう。
 振り返ると,一つの理由に突きあたる。調子を崩した原因は,勝手に薬の量を調節してしまったことだ。ぼくは,本当にいけないことをしていた。
 「調子いいからこれ二錠でいいや」
 「眠れないからこれ三錠に,これ一錠プラスして……」
 主治医が処方してくれた薬の分量を守らず,自己判断で,気分に応じて飲む。少なすぎることもあれば,死にたいのかというくらい多すぎることもある。
 ぼくのしていたことは,きつい言葉を使うと,「薬物濫用」だ。
 薬をシートから出して,テーブルの上に大量に集める。それを手にとって,「これでいいんだ」と口の中に投げ込む。過剰に摂取して,安心を得ようとする。嘘の安心を手に入れてしまうと,摂取する分量を増やすことで,さらに大きな安心を求めてしまう。バランスが崩れ,反動は仕返しのように必ず襲いかかってくる。感情のコントロールは,完全に利かなくなってしまう。
 個人で分量を変えることは,絶対にしてはいけない。

ハウス加賀谷・松本キック (2013). 統合失調症がやってきた イースト・プレス pp.119

治るんじゃないか

「そんなにたくさん薬を飲まなくても大丈夫だよ」
 「薬なんか,早く止められるように頑張れよ」
 うれしくなったぼくは,先生にも告げず,自分一人の判断で飲むべき薬の量を減らしていった。
 昼の分量をまるまる減らして大丈夫。朝の分量を半分にしてもやっていける。このままいけば治るんじゃないか。ぼくは完全に勘違いし,調子に乗っていた。
 最終的にぼくは,一日一回,それも極少量の薬しか飲まなくなっていた。
 外からどんなふうに見られていたか知らないけれど,自信はあった。薬に頼らなくても,ぼくは普通にやれるんだ,と。ただの過信だったのに,ぼくは間違った方向に舵を切っていた。

ハウス加賀谷・松本キック (2013). 統合失調症がやってきた イースト・プレス pp.96

生まれつきと考えるかどうか

けれども,こうして「同性愛者は生まれつき体の一部が違う」っていうことにしてしまうと,「じゃあそこを手術して治せばいいじゃん?」という話になってしまうんですよね。「それならば犯罪者扱いをやめましょう」じゃなくて。シュタイナッハのきんたま移植手術に始まり,後世には,同性愛者とされた人を無理矢理去勢したり,脳を手術して廃人状態に追いやったりと,「同性愛治療」と称した恐ろしい手術が続いていってしまうことになりました。
 このような事態は,同性愛者を「生まれつき他とは違う種類の人々」と考えることの危険性として,すでにケルトベニが指摘していたことです。けれども,「人間はみんな異性愛者として生まれつく」という前提にある限り,同性愛が「やめさせるべき犯罪行為」とか「正常な状態にあれば異性を愛せるはずの人間の逸脱行為」だと言われてしまうことは避けがたいことでした。

牧村朝子 (2016). 同性愛は「病気」なの? 僕たちを振り分けた世界の「同性愛診断法」クロニクル 星海社 pp.65-66

優生学の説得力

優生学が医学的にも説得力をもつようになった1つの歴史的道筋は,おおよそ次のようなものだ。まず,細菌学の発達によって多くの伝染病が克服可能なものとなる。外科手術の進歩,新薬の開発なども,さまざまな病気の克服に大きく貢献した。さらに社会環境の整備を通じて,罹病率や死亡率を引き下げる努力がなされた。しかし,それでもいくつかの病や障害は克服できないものとして残った。少なくとも今世紀初頭において,「遺伝」という概念は,厳密な科学的概念としてよりも,克服できないこれらの病や障害を説明する1つのマジック・ワードとして多分に機能した。肺結核の発症を遺伝に結びつける,グロートヤーンの先のような主張が,特効薬のペニシリンによって肺結核が十分治療可能なものとなる30年代以降,影をひそめるようになるという事実は,かつて遺伝概念が担っていたそうした機能をよく物語っている。
 そして,優生学の課題は,遺伝として説明された不治の病や障害をもつ人々がその生命を再生産する回路を,何らかの方法で遮断することによって,彼らの病や障害そのものを将来,社会から根絶することに,求められたのである。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 61-62

攻撃性の薬

攻撃性の緩和には,さまざまな薬物の有効性が認められている。もっとも効果的なのは新世代の抗精神病薬で,効果量は0.90と大きい。メチルフェニデートなどの刺激薬もきわめて有効で,効果量は0.87である。気分安定薬は中位の0.40,抗うつ薬は低〜中位の0.30の効果量を持つ。青少年にも子どもと同じことが言える。青少年の攻撃性を対象とする薬物治療に関する2つのメタ分析に加え,子どもや青少年に対する薬物の効果を調査したその他の検証やメタ分析でも,類似の効果が報告されている。これらを総括すると,明らかに薬物治療は,ADHD,自閉症,双極性障害,精神遅滞,統合失調症などのさまざまな精神障害にともなう,子どもや青少年の攻撃性を緩和する。
 では,攻撃性や暴力的な行動に対する薬物治療は,それ以外の介入方法と比べてどれほど効果的なのか?ペンシルベニア大学の同僚ティム・ベックは,多岐にわたる臨床障害に有効な,独自の認知行動療法を開発した。この療法は,攻撃性に対する介入手段としてはもっとも効果的なもので,広く採用されている。効果量は控えめに見積もって0.30である。つまり全体の効果量という点で言えば,薬物治療は,もっとも有効な心理・社会的介入方法に匹敵する。というより,新世代の抗精神病薬や刺激薬は,効果量において,最良の非薬物的介入方法を凌駕する。

エイドリアン・レイン 高橋 洋(訳) (2015). 暴力の解剖学:神経犯罪学への招待 紀伊國屋書店 pp.433-434

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