I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「医療・医学・薬学」の記事一覧

病的なキノコ嫌い

18世紀の菌類学者ウィリアム・ディライル・ヘイは,同僚のイギリス人が病的なまでの“キノコ嫌い fungiphobia”であり,実際に食用できるかどうかにかかわらず,ほとんどのキノコを“毒キノコ toadstool”と考えているようだと述べている。有名な民間キノコ研究家のR・ゴードン・ワッソン(1898〜1986)は,菌類が好きな文化と菌類が嫌いな文化を記述するために,ヘイの用語をもじって“菌類好き mycophilic”と“菌類嫌い mychophobic”という用語を考えだした。このふたつの用語は,現代の菌類学(菌類を研究対象とする生物学の一分科)の文献でよく使われている。西洋では,長年にわたって二元論的な考え方が幅を利かせてきた。菌類好き(キノコ好き)と菌類嫌い(キノコ嫌い)という二分法である。一方,東洋では,昔から菌類好きというレンズをとおしてキノコを認識する傾向があった。

シンシア・D・バーテルセン 関根光宏(訳) キノコの歴史 原書房 pp.10

認めない人

医学研究で人間を観察対象にした研究方法論や因果関係論の発達により,今日では人間を観察し,人間レベルの仮設を立て,人間を単位として分析する方法論が十分に可能になり,簡単に利用できるようになってきている。従って,医学領域では研究に実験が必要という状況ではなくなっている。その一方で,治験や臨床研究ですら科学や医学研究と見なさない医学研究者もいまだにいる。人間も臨床も肉眼レベルの判断は実に多いので,このままでは「科学的根拠に基づいた医療」などできなくなることになる。

津田敏秀 (2011). 医学と仮説:原因と結果の科学を考える 岩波書店 pp.45-46

何が「直接的証拠」か

一方,IARCは,
 「ある特定の物質が人体に対して発がん性を示すかどうか?」という問いに対する,間接的というよりもむしろ直接的な答えは,疫学的方法を使った人体に関する研究からのみ得られ,疫学は,症例報告,もしくは統計を使った探索的な研究結果や動物実験結果に動機づけて行われる」
 と,すでに1990年にはっきりと述べている。つまりIARCは,疫学を直接的,動物実験を間接的であると言っているのだ。この考え方は,人における発がん物質の分類をIARCが1960年代末に始めて以来の一貫した考え方である。IARCで評価される疫学研究は,観察研究が大部分を占める。
 多くの日本の医師や研究者が考える「直接的」と「間接的」が,IARCでは入れ替わっており,何を直接証拠と考えるかについて真逆であると言ってよい。日本の研究者は操作性を「直接」とし,IARCは対象を「直接」と言っているとも解釈できる。もちろん科学的証拠であることに直接関連するのは,後者の「直接」である。

津田敏秀 (2011). 医学と仮説:原因と結果の科学を考える 岩波書店 pp.15-16

赤ん坊は人間か

患者を一人の人間として扱うことが仕事であるはずの医者でさえ,相手の気持ちを考えないことがある。とくに,患者が自分たち医者とまったく違う立場であるときに,そうなりがちだ。たとえば,1990年代初めまで,赤ん坊の手術では麻酔を使わないのが一般的だった。なぜだろう?当時の医者は,赤ん坊には,人間のもっとも原始的な能力である痛みを感じる能力がないと考えていたからだ。メアリー・エレン・エイブリーは,著書『新生児の痛み(Pain in Neonates)』の冒頭で,こう述べている。「先輩の医者から,生後間もない赤ん坊は痛みを感じないといわれたことが,どれだけあったでしょう。もちろん赤ん坊は,拘束されて手術を受けるときは泣いています。それなのに『それとこれとは別』だというのです」。ずっと前から,医者は赤ん坊を生物学的には人間だと考えていたが,心理学的にも人間だと考えるようになったのは,ほんの20年前なのだ。

ニコラス・エプリー 波多野理彩子(訳) (2015). 人の心は読めるか? 早川書房 pp.76-77

たこつぼ心筋症

いくつもの心臓を持った生物だからか,タコは人間の心臓病の名前にまで借り出されている。“タコつぼ心筋症”という一過性の病気で,心臓の左心室が肥大し,タコつぼに似た形になるところからそう呼ばれている。欧米では“傷心症候群”という名称のほうが一般的だろう。タコが失恋するかどうかは知る由もないけれど。

キャサリン・ハーモン・カレッジ 高瀬素子(訳) (2014). タコの才能:いちばん賢い無脊椎動物 太田出版 pp.78

距離の基準

「危険そうなものからは離れる」は誰にでも直観でわかる,原始的なリスク管理法である。しかし,では「どのくらい距離をとればよいか」と具体的な数字を追求すると,とたんに決めることが難しく感じられる。距離に関する基準値を調べてみると,多くの人が「なんとなく」合意で決めたのであろう,と推察されるものが少なくなかった。そのなかで比較的,根拠が追えるものについて取りあげたつもりである。
 「携帯電話と植込み型医療機器の距離」の例では,リスク(避けたい影響)は定義されていたものの,国の指針も鉄道会社の運用も,安全への余裕を根拠なしに大きくとったために,どんなリスクを避けるための対応などかがわからなくなってしまった。「危険物施設との保安距離」の例では,そもそも受け入れられるリスクのレベルが曖昧であり,「ゼロリスク」の想定のもとでしか議論されていなかった。このような考えでは「想定外」に対応することはできない。
 将来にわたって,明確な根拠を持って距離の基準値を決めるにはどうすればよいのか,ぜひみなさんも考えてみていただきたい。これからは,“○○cm”などと距離が示された基準値を見つけたら,その根拠について探ってみてはいかがだろう。専門家や行政に直接,尋ねてみるのも面白いかもしれない。

村上道夫・永井孝志・小野恭子・岸本充生 (2014). 基準値のからくり:安全はこうして数字になった 講談社 pp.246

メタボの基準

1999年にWHOが初めて作成したメタボの診断基準では,必須条件は腹囲ではなくインスリン抵抗性(インスリンによって血糖値を下げる効果が弱い状態)だった。内臓脂肪については必須条件ではなく,(1)ウエスト/ヒップ比(男性<0.9,女性<0.85),(2)BMI(≧30),(3)腹囲(≧94cm)のいずれかを満たす場合としている。ところが米国のコレステロール教育プログラム基準では,腹囲(男性≧102cm,女性≧88cm,ただしアジア系では男性≧90cm,女性≧80cm)を含む5項目のうち3項目以上を満たす場合と定義された。さらに2005年に発表された国際糖尿病連合(IDF)基準では,腹囲(地域別の基準値が適用)を必須項目とするほかに,4項目のうち2項目以上を満たす場合として定義されている。
 日本でのメタボの基準も,独特のものとなった。とくに腹囲の基準値では男性の「85cm」が厳しすぎること(成人男性のほぼ半数が該当!),世界で唯一,女性のほうが大きな値となっていることが批判の的となった。やや肥満気味の人のほうが痩せた人よりもむしろ長寿であるという統計データが多数存在することから,医薬品業界のマーケット戦略であるとも非難された。
 そもそも腹囲と内臓脂肪面積には,相関はあるが,ばらつきも大きい。内臓脂肪面積100cm2以上に相当する腹囲は,男女とも75cm〜95cmと非常に範囲が広いのだ。そのため2009年には腹囲を必須としない新国際統一基準ができ,腹囲(地域別の基準値を適用)を含む5項目のうち,3項目以上を満たす場合と定義された。ところが——この新国際統一基準において,日本人に対して適用されるべき腹囲の基準値はいま,なんと「男性≧90cm,女性≧80cm」と「男性≧85cm,女性≧90cm」が併記された状態になっていて,いまだに決着がついていないのだ。はたしてお腹ぽっこり=メタボなのか,論争はまだまだ収まりそうにない。

村上道夫・永井孝志・小野恭子・岸本充生 (2014). 基準値のからくり:安全はこうして数字になった 講談社 pp.152

化学物質の基準値

化学物質の基準値には,もともとは大きく分けて「環境基準型」の基準値と「残留農薬型」の基準値の2種類があった,ということを覚えておくとよいだろう。言い換えれば,「無毒性換算型」の基準値と「ALARA型」の基準値の2種類である(「ALARA」とは「できうる限り低く」=As Low As Reasonably Achievableという意味)。両者はともに化学物質の基準値としては歴史が古く,いわば「基準値の基礎」とも呼べるものである。
 また,これらは両者とも「受け入れられるリスクの大きさにもとづく」という考え方が生まれる以前の考え方で決められた基準値であり,その意味では古典的な決め方の基準値ともいえる。無毒性換算型は「無毒性=ゼロ」であるから文字どおり,ゼロリスクを目指す考え方であるし,「ALARA」にしても,健康影響とは無関係にわずかでも毒物が入っていたら感覚的に「イヤ」なので,できるかぎり減らす努力をしましょうという考え方だ。

村上道夫・永井孝志・小野恭子・岸本充生 (2014). 基準値のからくり:安全はこうして数字になった 講談社 pp.130-131

ホルムアルデヒドの基準のつくり方

ホルムアルデヒドの基準値は,動物実験の結果から算出されている。この実験は,280匹のオスのラットを4つのグループに分け,ラットの体重1kg当たり,それぞれ0mg,1.2mg,15mg,82mgのホルムアルデヒドを飲み水に混ぜて与えて,2年間継続して観察したものである。
 この結果,82mg投与したグループにのみ,体重の減少や胃粘膜壁の異常などが観察されたことから,閾値は1日当たり15mg/kgと82mg/kgの間にあるものとみなし,低いほうの1日当たり15mg/kgまでなら毒性影響はないものと判定された。なお,このような毒性影響が見られないと判定されたレベル(この場合は1日当たり15mg/kg)のことを,専門用語では「No Observed Adverse Effect Level」(NOAEL)という。日本語では「無毒性量」と訳すことが多いが,正確には,毒性が「観察されなかった量」を意味する。いわば日本語は「誤訳」であり,この訳のためにNOAELを「ゼロリスクとなる量」と誤解している人も多い。

村上道夫・永井孝志・小野恭子・岸本充生 (2014). 基準値のからくり:安全はこうして数字になった 講談社 pp.83-84

急性毒性と慢性毒性

化学物質の毒性は,急性毒性と慢性毒性に分けることができる。
 急性毒性とは,その物質を短い期間だけ摂取しても影響が生じる毒性で,著しく重篤な場合,たった1度の摂取で死を招くこともある。
 慢性毒性とは,長期間にわたってその物質を摂取することで影響が生じる毒性で,たとえば歯や骨,内臓に異常をきたす。慢性毒性を示す物質には,発がん性があるものとないものがある。さらに発がん性がある化学物質にも,その発がんメカニズムによって,遺伝子を直接傷つける形で発がんを引き起こすものと,そうでないものとがある。

村上道夫・永井孝志・小野恭子・岸本充生 (2014). 基準値のからくり:安全はこうして数字になった 講談社 pp.78-79

高血圧の基準

「なにが安全か?」という線引きは絶対的なものではない。今後の研究次第では,現在は「健康」とされている血圧が「要治療」に突然変わってしまうかもしれないし,その逆もあるかもしれない。たとえば2014年4月に,日本人間ドック学会が「健康な人」の収縮期血圧は「〜147mmHg」,拡張期血圧は「〜94mmHg」と発表し,これを同学会の独自の新基準とする,などの動きが起こっている。基準というものはそういうものだと考えておいたほうがよい。

村上道夫・永井孝志・小野恭子・岸本充生 (2014). 基準値のからくり:安全はこうして数字になった 講談社 pp.66-67

経済危機に強い医療制度

これに対し,他の多くの先進国の医療制度はもっと経済危機に強いものだった。カナダ,日本,オーストラリア,そしてほとんどのヨーロッパ諸国は,医療を市場任せにするのではなく,国による国民皆保険制度を土台にしてきた。これらの国々では,医療分野では市場原理がうまく働かず,「さかさま医療ケアの法則」という罠にはまる危険性があることを承知していた。
 そうした国々とアメリカとの違いは,今回の大不況でも大きな差となって表れた。アメリカでは何百万人もの人々が医療を受けにくい,あるいは受けられない状態に陥ったが,イギリス,カナダ,フランス,ドイツなどでは,医者に行くのを控えたり,予防医療を受けるのをやめたりした人はずっと少なかった。これらの国々では医療は市場財ではなく人権の1つと考えられていて,職や収入を失っても受けられる医療サービスにはあまり影響がなかったからである。つまり,経済が打撃を受けても,国民が「破産か健康か」という選択を迫られるようなことはなかった。

デヴィッド・スタックラー,サンジェイ・バス 橘 明美・臼井美子(訳) (2014). 経済政策で人は死ぬか?:公衆衛生学から見た不況対策 草思社 pp.182

医療の市場原理は

かなり前から繰り返し指摘されてきたことだが,医療の世界では市場原理はうまく働かない。ノーベル経済学賞受賞者のケネス・アローも,1963年に発表した画期的な論文のなかで,市場原理だけに任せておくと,安くて質の高い医療はなかなか提供されないと述べた。医療は主に次の2点で一般的な市場財とは異なる。1つはニーズの予想が難しいこと。もう1つは思いもかけず高額になる場合があること。たとえば,心臓発作を起こして冠動脈バイパス手術を受けるといったことは,いつ起きるのか事前にはわからない。そのためにいつ金を用意しておけばいいのかもわからないし,少々貯金してみたところで,大きな手術を受ければすぐに底をついてしまう。だからこそ保険に入るのだが,それで問題がすべて解決されるわけではない。なぜなら,保険に入るということは,どういう治療は受けられて,どういう治療は受けられないのかを他人に決めさせることを意味するからである。
 一方,民間の保険会社は企業として利益を生むことを求められる。そして利益を増やそうとすれば,方法は2つしかない。売上を増やすか,原価を削るかである。保険会社の売上は被保険者が毎月支払う保険料であり,原価は会社の経費と会社が支払う保険金である。つまり,医療を受けずにすむような人々に加入してもらい,医療を必要とする人々を加入させなければ(前述のパージング),確実に利益が増える。

デヴィッド・スタックラー,サンジェイ・バス 橘 明美・臼井美子(訳) (2014). 経済政策で人は死ぬか?:公衆衛生学から見た不況対策 草思社 pp.179-180

自己愛性パーソナリティ障害

話は少しそれるが,DSM-IV作成過程では,自己愛性パーソナリティ障害を診断カテゴリーとして残すかどうかが議論になった。うつ病など,精神症状が重篤な場合には自己愛性が強まる可能性があり,それを診断カテゴリーとすることが妥当かどうかという意見が出されたためである。わが国では疫学的根拠に乏しいまま若い人に自己愛的な傾向の強い若者のうつ病が増えているといわれるが,年齢にかかわらず,うつ状態が強くなると自己愛的になるのである。もっとも,DSM-IVでは最終的に,自己愛性パーソナリティ障害を削除するだけの科学的根拠がないという理由で,それがそのまま残されることになった。

大野 裕 (2014). 精神医療・診断の手引き:DSM-IIIはなぜ作られ,DSM-5はなぜ批判されたか 金剛出版 pp.129-130

自閉症と診断されると

このように増加した大きな理由として,米国では,自閉症と診断されると学校で丁寧に扱われることが挙げられる。米国の普通学級はおおよそ35人で構成されているが,自閉症と診断されると4人学級に入ることができ,手厚く注意を払ってもらうことができる。そのために,知的能力が高く,少し風変わりだったり引っ込み思案だったりする子どもが,教育的なメリットがあるという理由で,自閉症という診断を受けるケースが増えることになった。本来は教育的な配慮をもとに判断されるべきところが,医学的な診断が優先されるためにこのようなことが起きたのである。DSMが力を持ちすぎた結果,このように学校や司法場面で乱用ともいえる形でDSMが使用されることになってしまった。

大野 裕 (2014). 精神医療・診断の手引き:DSM-IIIはなぜ作られ,DSM-5はなぜ批判されたか 金剛出版 pp.71-72

うつ病の多様化?

過剰診断に関連して,近年,うつ病が多様化したといわれることがある。しかし,これは誤解を招くいい方であると私は考えている。うつ病という病気の表現形が多様化したのか,うつ病という症状群を引き起こす要因が多様化したのかが明らかでないからである。さらには,これまではうつ病と診断されなかった多様な症状群まで,うつ病と診断されている可能性もある。
 うつ病が多様化したという場合に,私たちは,うつ病という本体があって,その症状がさまざまな形で現れているというイメージを持っていることが少なくない。うつ病という実体があるという前提にたっているためだが,実際にはうつ病の実体はまだ解明されていない。そのために,DSMでは,ある特定の症状の一群をうつ病と呼ぼうという約束ごとをしている。それが診断カテゴリーである。

大野 裕 (2014). 精神医療・診断の手引き:DSM-IIIはなぜ作られ,DSM-5はなぜ批判されたか 金剛出版 pp.63-64

訳語の問題

中でも議論になったのが,disorderの訳語である。精神科病名検討連絡会では,disorderを「障害」ではなく「症」と訳すという提案が議論された。「障害」という用語に伴う偏見を和らげようという意図からで,「障がい」や「障碍」などの用語も検討された。最終的には不安障害など一部の疾患で「症」が採用されることになったが,反対意見も根強かったために「症」と「障害」が併記されることになった。

大野 裕 (2014). 精神医療・診断の手引き:DSM-IIIはなぜ作られ,DSM-5はなぜ批判されたか 金剛出版 pp.61

精神分析学の失墜

さて,精神力動的もしくは精神分析的な考え方が米国の精神医学の中で力を失っていった原因はいくつかある。最も大きな要因として,医療経済的制約が強まる中,高価で時間がかかるにもかかわらず効果の検証が行われていなかったことが挙げられる。
 もう1つの大きな要因として考えられるのが,80年代に入って急速に強まった生物学的精神医学の流れである。その頃から精神疾患は,脳の疾患であるということが強調されるようになり,精神的な苦痛を心理的要因から理解しようとする精神分析的ないしは精神力動的立場は急速に弱まっていった。

大野 裕 (2014). 精神医療・診断の手引き:DSM-IIIはなぜ作られ,DSM-5はなぜ批判されたか 金剛出版 pp.47-48

分割論者と包括論者

DSM-IIIでは,それまでの診断分類に比べて多くの診断カテゴリーが取り入れられ,それによって併存診断が増えることになった。診断分類を作成する際には,細かくカテゴリーを分けようとする“splitter”(分割論者)と呼ばれる立場のグループと,あまり細かく分けないで大きくまとめて取り扱おうとする“lumper”(包括論者)と呼ばれるグループとの間での葛藤が生じることが多い。DSM-IIIの作成過程では,“splitter”の力が強く,多くの細かい診断分類が追加されることになった。しかも,実際に診断を下す際には,見落としのないようにできるだけ多くの疾患カテゴリーを診断するように勧められている。

大野 裕 (2014). 精神医療・診断の手引き:DSM-IIIはなぜ作られ,DSM-5はなぜ批判されたか 金剛出版 pp.42-43

神経症

理論的に中立の立場をとって症状記述に徹することに対しては,病因を無視することになるという批判が出された。とくに,精神内界の葛藤に病因を想定する「神経症(neurosis)」という用語が使われなくなったことに対しては,精神力動的な立場の精神科医が強く反対した。しかし,立場が異なるさまざまな研究者や臨床家が共通の土壌で議論することを可能にするというプラスの面が大きかったことから,病因を想定しない分類システムが米国だけでなく世界的に広く受け入れられることになった。

大野 裕 (2014). 精神医療・診断の手引き:DSM-IIIはなぜ作られ,DSM-5はなぜ批判されたか 金剛出版 pp.40-41

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