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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「医療・医学・薬学」の記事一覧

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立場の弱さ

だれもが病気であるなら,だれもが薬を飲まなければならないことになる。向精神薬の市場はすでに巨大だが,なおも拡大をつづけている。成人向けの市場が飽和状態を呈すると,製薬企業は子どもに製品を売りつけて消費人口を増やした——精神障害の最近の流行がみな,子どもで発生しているのは偶然ではない。それに子どもは格別の上客だ——早いうちに仲間に引き入れてしまえば,生涯にわたって虜にできる。企業はライフサイクルの反対の端にいる高齢者にも狙いを定め,老人ホームでまるでホットケーキのように抗精神病薬うぃ売りさばいている。子どもと高齢者は正確な診断が最もむずかしい人口集団であり,薬の有害な副作用に最も弱く,老人ホームで抗精神病薬を多用すれば死亡率が高まるのに,製薬企業はそういう事実に頓着していない。さらに厄介なのは,最も多くの薬を飲んでいるのが最も立場の弱い子どもたちであることだ——貧しい子どもや,里親に育てられている子どもである。

アレン・フランセス 大野裕(監修) 青木創(訳) (2013). <正常>を救え:精神医学を混乱させるDSM-5への警告 講談社 pp.162-163
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医療保険と診断インフレ

診断のインフレをもたらしているもののなかでも,愚劣きわまるのはアメリカの医療保険の仕組みだ。医師は支払いを避けるために,診断を承認してもらわなければならない。これにはむやみな診察を防ぐ目的がある。しかし,意図せずして,賢明なコスト管理とは正反対の結果をもたらしている。まだ重い症状が出てもいないのに,保険金が支払われる精神科の診断に患者が殺到するため,自然に解消されたはずの問題に不必要な治療をほどこす事態になりがちだからだ。そういう治療は有害になりかねないし,高額な場合が多い。ずっと安上がりで,保険会社にとっても得になるのは,注意深く見守りながらカウンセリングをおこなう医師に保険金を支払うことであって,すぐさま結論に飛びつくのは長い目で見れば非常に高くつくのだから,そういう診断をする医師に報酬を与えないことだ。他国は,このきわめて賢明な解決策を指針にしている。

アレン・フランセス 大野裕(監修) 青木創(訳) (2013). <正常>を救え:精神医学を混乱させるDSM-5への警告 講談社 pp.148

予防医学の産業化・奴隷化

予防は至るところで誇大宣伝されている。息つく間もなく,毎日のように医学の大躍進が発表されている。新しい検査がつぎつぎに考えだされ,古い検査では異常のハードルが下げられる——それが新しい患者を大量に作り出している。医師は大事を取って,あらゆる患者にあらゆる高額な検査を受けるよう指示している。検診の利点を売りこみ,病気をほうっておいたときの恐怖をあおる宣伝がおこなわれている。
 おどして検診を受けさせる戦術は,その旗振り役には巨大な経済的成功をもたらしているが,少数の例外を除けば(喫煙者に対する肺がん検診とか,すべての人に対する結腸がん検診とかを除けば),検査が患者のためにならないことが多いのは,証拠から明らかだ——結果はたいして改善されないのに,必要のない高額な治療を積極的に受けさせて,よけいな負担を強いることになっている。そしてこの無駄遣いは,社会全体で毎年数千億ドルにも達する。本物の病気にかかっているのに保険にはいっていない人たちの治療に向けるほうが,よほどましな使い道だ。予防医学は目標こそすばらしいが,利益と誇大宣伝のために産業化,奴隷化されて,道を大きく誤っている。

アレン・フランセス 大野裕(監修) 青木創(訳) (2013). <正常>を救え:精神医学を混乱させるDSM-5への警告 講談社 pp.138-139

DSMの功罪

製薬企業の得になった決定はふたつしかない——ADHDの条件をわずかにゆるめたことと,双極II型障害を導入したことだ。どちらも臨床の重要な隙間を埋めるもので,どちらもじゅうぶんな証拠によって裏付けられ,どちらも決定がくだされた時には明白な商品価値はたいしてなかった。残念ながら,製薬会社が消費者に宣伝する権利を獲得し,高価な新商品を開発するに及んで,どちらの決定も製薬会社の食い物にされた——けれども,そんなことになるとはわれわれに予想できなかったし,防げもしなかった。製薬会社は,DSM-IVの内容に対してはなんの役割も演じなかったが,その乱用に対しては重大な役割を演じた。カエサルの妻たるものは疑念を招いてはならないと私も思う——が,それでもこの件に関しては,いわれのない疑惑だと確信している。
 DSMには功罪がともにある。それは精神科の診断の信頼性を高め,精神医学研究の変革をうながすというきわめて貴重な役割を果たしている。だが同時に,とめどもない診断のインフレを発生させ,その継続にひと役買うという非常に有害な意図せざる結果ももたらしている。診断のインフレは「正常」をおびやかし,精神科医療における著しく過剰な治療へとつながっている。

アレン・フランセス 大野裕(監修) 青木創(訳) (2013). <正常>を救え:精神医学を混乱させるDSM-5への警告 講談社 pp.134-135

診断インフレの抑制

診断のインフレを抑えるために打てる手はいくつかあった(そして実際に打つべきだっただろう)。何より重要な事として,DSM-IVの診断のハードルをもっと高くして(より多くの症状が,より長期にわたって現れ,より大きな機能障害を引き起こしているのを条件にするという具合に),企業が診断を商品に結びつけにくくすることはできた。しかし,われわれは公平で保守的であろうとするあまり,自縄自縛に陥った——証拠を求める厳格なルールのせいで,説得力のある詳細な科学的データがないかぎり,どちらの方向にも変更することはできなかった。われわれのルールにしたがっているかぎり,診断システムをデフレにするのはインフレにするのと同じくらいむずかしかった。根拠のない決定と,自分の縄張りを広げたがる専門家たちの本能を抑えこむために,ルールは必要な制約だった。

アレン・フランセス 大野裕(監修) 青木創(訳) (2013). <正常>を救え:精神医学を混乱させるDSM-5への警告 講談社 pp.131-132

誤りだった

DSM-III-Rは誤りであり,混乱のもとだった。DSM-III-Rの目標のひとつは,精神疾患を客観的に定義して,一種のリンネ式の分類を(あるいは「周期表」を)編み出し,それによって臨床研究や基礎科学研究を促進することにあった。自己修正を反復するシステムになるよう意図されていた——DSM-IIIのどうしても作り物になりがちな基準を出発点としつつも,それがうながす研究に基づいて基準を確認したり変更したりするつもりだった。診断システムが気まぐれな意見に基づいていて,むやみに動き続ける研究ターゲットしか提供しなかったら,この循環はけっしてめぐることはできない。

アレン・フランセス 大野裕(監修) 青木創(訳) (2013). <正常>を救え:精神医学を混乱させるDSM-5への警告 講談社 pp.124

衝撃

ところが,1970年代はじめに突然,診断は精神医学を転覆させかねないアキレス腱だと暴かれた。精神医学は歴とした医学分野であるというお墨付きをもらったばかりだというのに,ふたつの広く出回った文書が,その存立を脅かすことになった。ひとつめの衝撃は——イギリスとアメリカの国際共同研究により,たとえビデオテープで同じ患者を評価する場合であっても,大西洋の両側で精神科医の診断が大きく異なることがわかったのである。ふたつめの衝撃は——頭の切れる心理学者が,精神科医をたやすく不正確な診断へと誘導できるだけでなく,まったく適切でない治療にも誘導できることを示したのである。この心理学者が教える大学院生の数人が,別々の緊急救命室へ行き,幻聴が聞こえると訴えた。するとみな,ただちに精神科病棟に移され,その後は完全に正常にふるまったにもかかわらず,数週間から数ヶ月間も入院させられた。精神科医は信頼出来ない時代遅れの藪医者で,ちょうどそのころ全医学分野を最新化しつつあった研究革命に加わる資格がないかのように見られた。

アレン・フランセス 大野裕(監修) 青木創(訳) (2013). <正常>を救え:精神医学を混乱させるDSM-5への警告 講談社 pp.113-114

イスラム世界の精神医学

コーランには精神障害者に「衣食を与え,懇切にことばやさしく話しかけなさい」とある。重度の精神障害者に財産関連の決断をさせてはならないという実用的な忠告もあるが,敬意と思いやりを持って精神障害者を扱うよう求めている。これが宗教と全く関係ない,深い洞察を伴う臨床アプローチをもたらした。精神障害者は管理の行き届いた病院で保護観察介護を受けられた。患者の問題を記録し,理解するのも病院の役目だった。705年,精神障害者を専門とする最初の病院がバグダードに開かれ,800年にはカイロがそれにつづいた。やがてほかの大都市の多くもそれにつづいた。イスラム教の病院はしばしばユダヤ教徒とキリスト教徒の医師を雇い,大きな外来患者診療所と薬局を備えていた。
 精神医学の進歩には目を瞠るものがあり,1000年後のヨーロッパの歩みをそっくり先どりしていた。ヨーロッパではそのころになってようやく,独立した精神科病院が設立された。アラブ世界の精神科病院は科学的発見のすぐれた揺りかごになった。精神医学の専門家たちは,多様な患者を詳しく調べて,異なる経過を比較できた。そして正確な臨床観察をおこない,症状を症候群にまとめ,有効な治療法を開発した。アラブ世界の精神医学は,世界に類を見ないほど詳細で実用にすぐれた学問の域に達し,のちの精神医学がふたたびそこまでたどり着くのは,1900年ごろのことだった。

アレン・フランセス 大野裕(監修) 青木創(訳) (2013). <正常>を救え:精神医学を混乱させるDSM-5への警告 講談社 pp.98-99

伝染病

第2に,アルコールよりはるかに凶暴にインディアンに襲いかかり,ジェノサイド的な猛威を振るったのは,ヨーロッパからの伝染病である。19世紀半ばまで天然痘,麻疹,百日咳などが数度にわたって大流行し,インディアンに破滅的な打撃を与えた。伝染病の影響は時代,地域,部族によって異なる。最初に天然痘が,ヨーロッパ人の内陸進出と符節を合わせ,1781−82年に大流行した。図7が示すように,病原菌は80年に南のミシシッピ川。ミズーリ川を上流へさかのぼって北へ転じ,プレーリーで最初の死者が報告されたのは,81年10月だった。さらに南サスカチュワン川上流に達し,そこから北へ東へと向かった伝染病は,11月には南北サスカチュワン川の合流点,翌月には下流のカンバーランド・ハウスへと広がる。アシニボイン,ブラックフット,クリー族を次々と襲った天然痘は,ヨーロッパ起源の伝染病が無免疫の非ヨーロッパ人に広がった古典的な事例となった。

木村和男 (2004). 毛皮交易が創る世界:ハドソン湾からユーラシアへ 岩波書店 pp.77-78

むやみな同情は

ある研究者の意見では,糖尿病や内分泌の病気をもつ子どもに,QOLに関する質問をした場合,学校で行うよりも病院で行った方が,よい答えを出す傾向にあるということです。慢性疾患を持つ子どもは,病院を,痛い処置があり怖いところというイメージばかりを持っているのではなく,学校よりも精神面の問題を相談しやすい場所だと思っているのかもしれません(小児医療にたずさわっている身としては嬉しい意見だと思います)。
 慢性疾患のある子どもの親は,子どもをかわいそうに思っている傾向は確かにあります。このため,子どもに過保護になったり,過剰に干渉したりすると,かえって子どもにとっては自尊感情を傷つけられる可能性がある,ということも忘れてはなりません。むやみな同情は,サポートにつながらないことがあるのです。

古荘純一 (2009). 日本の子どもの自尊感情はなぜ低いのか:精神科医の現場報告 光文社 pp.154-155

優生学的視点

 科学的レイシズムの歴史,特に優生学の歴史は,多くの理由で曖昧にされてきた。少なくともホロコーストへの貢献という理由だけではない。優生学の展開にこのような歴史性が認められるにもかかわらず,近年の精神障害の原因追求における遺伝主義的視点からの発言は,優生学とは関連づけられてこなかった。精神障害の遺伝的説明に反対する者たちですら,こうした考えの歴史的背景を見落としてきた。私たちは今日でも,生物学的理論の大流行を背景に,統合失調症や注意欠陥多動性障害などの説明に遺伝学を用いている。「まだ直接的な科学的証拠がない」と,提唱者たちですら認めているのに,そう言ってしまう。テクノロジーの進歩が劇的なので,私たちは科学的な証拠が見つかるのは時間の問題だと確信してしまっている。同じような主張が,衰えることなく1世紀以上にわたって繰り返されてきたのだ。

ハーブ・カチンス,スチュワート・A・カーク 高木俊介・塚本千秋(監訳) (2002). 精神疾患はつくられる:DSM診断の罠 日本評論社 pp.271-272

ラベリング

 BPDの診断は,客観的な証拠や理性的な議論の必要性を葬り去ってしまった。他の診断名と同様,DSMい登場したとたん,この診断ラベルは行動の説明としてとんでもない使われ方をしている。診断自体に罪はなくてもだ。多くの精神障害の原因は不明である。精神科診断というラベルは,なぜ人がこのように行動したのかということを説明しはしない。ラベルは,ある種の行動がある精神障害を構成するという主張のもとに受け入れられているとしても,単にある種の行動の組み合わせを同定しようとしているものにすぎない。したがって,行動の説明として診断を用いるのは,循環論法である。例えば,ある人が「うつ病であるから彼女は悲しんでいるのだ」と言ったところで,なに1つ理解できたわけではない。同じように,もしBPDの診断基準に衝動性があるならば,「彼女が衝動的なのはBPDだからだ」と言っても何にもならないであろう。ましてや,患者がBPDであるからといって,その治療者までが衝動的性関係をもつようになることを説明できようはずもない。にもかかわらず,グーサイルは治療者が性的な過失を犯すのは,患者の診断に原因があるのだと私たちに信じこませようとしている。グーサイルは巧妙にDSM-Vに新しい診断を提案したいのかもしれない。治療者を誘惑した患者は,「治療者誘惑性傷害」であり「偽りの告発性傷害」であるというように。ある治療者が私信でこんなことを語ってくれた。「BPDは屑かご診断なんだ。治療者が好きになれない患者や,やっかいな患者,診断がつきにくく治療に難渋する患者がこの診断をつけられる。BPDと診断された患者には,性的虐待や近親相姦の既往をもっているものが多いようだ」。「境界パーソナリティ障害」とは,「やっかいな患者」をさす隠語なのだ。心的外傷のほんとうの根源を扱わないで,患者の病理を語ったりBPDと診断してしまうほうが簡単なのである。

ハーブ・カチンス,スチュワート・A・カーク 高木俊介・塚本千秋(監訳) (2002). 精神疾患はつくられる:DSM診断の罠 日本評論社 pp.250-251

境界性パーソナリティ障害について

 BPD(境界パーソナリティ障害)がはっきりと区別して同定できる診断であり,どの治療者が診ても一致する信頼性のある診断であると,グーサイルは信じて疑わない。だが,DSMの初期の研究では,BPDの診断妥当性は確立できなかったし,複数の精神科医がBPDの認識に一致できることも示されなかった。この診断に信頼性があるという証拠はほとんどなく,それどころか「DSMのパーソナリティ障害はすべてあまり信頼性がない」という証拠がたくさんあるのだ。精神科医は,診断を下す際,DSMの基準から離れようとする傾向があるので,この信頼性問題はますますやっかいである。例えば,グーサイルらがBPDの診断を下すときの2つの主要な特徴は,「みなし児のような依存性」と「人を惹きつける魅力」であった。どちらの特徴もDSM-III-Rの診断基準には挙げられていない。これらの特徴を持つ患者は,BPD患者のなかでも目立ったサブグループとなっているのかもしれないが,現在の最新版であるDSM-IVでも,BPDの診断基準にはなっていないのである。

ハーブ・カチンス,スチュワート・A・カーク 高木俊介・塚本千秋(監訳) (2002). 精神疾患はつくられる:DSM診断の罠 日本評論社 pp.249

PTSD予備軍増加

 次の変更点もまた,外傷概念を拡大し,PTSD予備軍の数を増やしている。1980年以降,外傷の構成要素についての定義は大きく変化してきた。元来,PTSDを誘発する出来事は,DSM-III-Rに盛りこまれたように「通常の人間の体験を越えたもの」,きわめて非日常的なものとみなされていた。この外傷を限定する一文が,DSM-IVでは抜け落ちた。例えば,愛する者を亡くすといった外傷は,辛いことではあるが,人生において普通に体験されることであり,きわめて破局的な事態と日常的な痛ましい体験とを区別するということで,初期には意味があった。しかし,DSM-IIIとDSM-III-Rの外傷体験の限定的な定義は2つの理由で批判された。1つには,心理的不安をもたらす出来事は,通常の人間の体験の範囲を超えるものではないかもしれない,というものだった。レイプなどの性的暴行が,それまで考えられてきた以上に頻発していることをアメリカ人は認識させられてきた。家庭内暴力の全体像も闇に隠されてきたが,ごく最近になって周知のものとなってきた。これらは日常的なことであるが,レイプ,児童虐待,家庭内暴力はどれもPTSD症状を産み出すのである。第2番目の外傷概念についての問題は,すべてのPTSD症状が,ひどい暴力の結果生じたわけではないというものだった。低いレベルのストレスを持続的に受けて外傷を生じた人たちもいる。中国の水責めは前額部に水滴を1滴ずつ落とすというものだが,このような些細なことさえ,繰り返し続けられれば,人は狂気に陥ると考えられている。もちろん,水責めは普通に起きることではないが,毎日続く出来事,たとえば間断なく続く勤務中の性的あるいは人種的いやがらせは,人を不安に陥れる。こうした場合,PTSDの引き金となった単発の事件があったわけではないが,その蓄積する効果が心的外傷をもたらしうる。これらの理由で,PTSDの診断は改訂され,ストレス反応を惹起しうる多くの日常的な出来事もその原因として含まれるようになった。

ハーブ・カチンス,スチュワート・A・カーク 高木俊介・塚本千秋(監訳) (2002). 精神疾患はつくられる:DSM診断の罠 日本評論社 pp.151-152

PTSDの広まり

 DSMに収載されて以降,PTSDの診断を受けた大半の人々の病歴は,ベトナム帰還兵とは全く異なっていた。1980年,DSM-IIIで傷害として初めて認められて以来,PTSDは最も頻用される診断名の1つとなった。今日,PTSDは,惨劇に加担したり目撃した兵士の苦悩を説明するものとしてではなく,主として虐待とくに性的虐待の被害者の苦しみを説明するために用いられている。その変化の背景には,いくつかの歴史的な流れがある。とりわけ,レイプ,セクシャル・ハラスメント,子供や配偶者への虐待の外傷的な影響が広く知られるようになったことがある。広める原動力になったのは,ベトナム帰還兵ではなく女性市民運動であった。彼女たちの主張は,法律の拘束力の拡大を目論む保守的な政治家に擁護された。右左両派からの支持のもと,加害者を厳重に取り締まる運動や,体に外傷がなくとも被害者が傷害に苦しんでいることを示そうとする運動が燃え上がった。PTSDは,体の傷のない被害者の,遅延型の長期〜永続的な損害にぴったりなのである。

ハーブ・カチンス,スチュワート・A・カーク 高木俊介・塚本千秋(監訳) (2002). 精神疾患はつくられる:DSM診断の罠 日本評論社 pp.148

精神分析の排除

 70年代にDSMを手直ししていた研究志向の精神科医たちの主要な目的は,マニュアルから精神分析の影響を排除することだった。同性愛をめぐる戦いは,一斉攻撃の始まりを意味した。同性愛の精神力動についてのこうした論争は,他の精神分析の概念についての論争と同様,精神科医療の再編によって油を注がれた。精神分析に基礎をおいた個人診療中心の「職業」から,クレペリンの記述的アプローチに影響を受けた研究志向,大学優位の「学問」への変化があった。

ハーブ・カチンス,スチュワート・A・カーク 高木俊介・塚本千秋(監訳) (2002). 精神疾患はつくられる:DSM診断の罠 日本評論社 pp.84

どこを強調するか

 「彼はサイコパス的な要素で判断されるべきなんでしょうか。それとも正気な部分で判断されるべきなんでしょうか?」
 「そういうたぐいのことを言う連中は,とても左翼的な,左に傾いている学者なのだよ。いや,私は決して軽蔑的な意味でこの言葉を使っているわけではない。彼らはラベルを貼るのが嫌いなのだ。人々に違いがあるという話が好きではないんだよ」彼は間をおいた。「人は私が軽蔑的観点からサイコパスを定義しているという。だが,ほかにどうすればいいというのかね?よいところを挙げる?たとえば,彼は話がうまい,キスが上手だ,踊りの名手だ,テーブルマナーがいい,などと言うことはできる。だが,同時に,彼は問題を起こし,人を殺す。さて,私はどこを強調したらいいのだね?」
 ボブは笑い,私も笑った。
 「犠牲者に,よいところに目を向けてくださいと言ってごらん。彼女は『できません・私の目は腫れあがっているので』と答えるだろう」
 もちろん,行きすぎたラベルづけがあるのは認める,とボブは言った。しかし,それは製薬会社の仕業だ。「彼らがサイコパスの薬を開発したらどうなるか,見物だな。診断基準スコアはぐんと下がり,25とか20に……」

ジョン・ロンソン 古川奈々子(訳) (2012). サイコパスを探せ!:「狂気」をめぐる冒険 朝日出版社 pp.332-333

構成概念

 第1に,精神科の疾患概念とは,社会科学者たちが「構成概念」と呼ぶものであることを理解してほしい。構成概念というのは,物質として実体のないもの,つまりスプーンや猫のように見たり触ったりできない,抽象概念のことである。それは一般的な合意によって成り立つ「共有される考え」と言ってもよい。民主主義,心神喪失,保守主義などはどれも構成概念である。それらは「集団のなかで一定の割合で共有されている」という意味の,純粋な考えにすぎない。精神科の疾患も1つの構成概念であり,共有される考えなのだ。

ハーブ・カチンス,スチュワート・A・カーク 高木俊介・塚本千秋(監訳) (2002). 精神疾患はつくられる:DSM診断の罠 日本評論社 pp.33

区別

 DSMの本領の1つは,精神障害とそうでない問題とを区別しようとしたことにある。それを区別することがいかに重大であるか,普通の人にはピンとこないだろうが,実に甚だしい影響がある。すなわちDSMとは,精神科医療の専門的視点を正当化し,行政や企業から支援を要求する根拠ともなっている。だがもっと重要なことは,私たちの社会が自分たちの問題をどのように考えるべきかという考え方の枠組みを,DSMが提供していることだ。
 DSMは,ある種の行動をカテゴリー化することによって,どの行動が病気や障害に基づくものであり,精神科医などの専門家に取り扱われるべきかを決定する。精神障害というラベルが貼られた場合,その人の行動は,その人の内部の働きに不具合が生じた結果であるとみなされてしまう。

ハーブ・カチンス,スチュワート・A・カーク 高木俊介・塚本千秋(監訳) (2002). 精神疾患はつくられる:DSM診断の罠 日本評論社 pp.15

糞便インプラント

 最近の例では,恐ろしい胃の感染症(クロストリウム ディフィシル)の治療事例がある。ある女性患者は下痢に間断なく襲われ,8ヵ月間で27キロも痩せ,おむつをして車椅子の生活を送るまでになってしまった。従来の抗生物質を使った治療はうまくいかず,担当した胃腸科専門医は数ある選択肢のなかから糞便インプラント(着床)という珍しい治療を試した。彼女の夫の排泄物のサンプルをとり,それを生理食塩水のなかに混ぜたものを患者の腸内に注入するのだ。腸内で夫の細菌が優勢になり,患者の腸内細菌が正常化した。彼女の下痢症状は24時間以内に消え,数日後には完全に回復し,現在に至るまで病気は再発していない。嫌悪感のせいでこの治療の発明や応用が妨げられなかったのは幸いだ。もしそうだったなら,この女性やこの病気にかかった患者たちは死ぬしかなかったはずだ。

レイチェル・ハーツ 綾部早穂(監修) 安納令奈(訳) (2012). あなたはなぜ「嫌悪感」を抱くのか 原書房 pp.141

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