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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「その他心理学」の記事一覧

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記憶とアイデンティティ

私が気に入っている説は,アイデンティティ(自我同一性)が関係しているというものだ。記憶とアイデンティティとの間には密接な関係があり,私たちはそのせいで思い出によって落ちこんだり苦痛を感じたりする。この記憶とアイデンティティの関係をヒントにすれば,思い出の隆起の謎が解けるかもしれない。ほとんどの人たちは青年期の終わりから20代初めにかけて,自分が何者で,何者になりたいかを模索する。例のジョンとリチャードの実験を行なったリーズ大学の心理学者マーティン・コンウェイが提唱したところによると,アイデンティティを確立するこの時期には特に記憶が鮮明になり,人はその記憶を何度でも振り返ることで,確立したアイデンティティが維持しやすくなるのだという。この説が本当なら,ある種の大きなアイデンティティの変容を青年期以降に経験した人は,その新たなアイデンティティを強化するために,2度目の思い出の隆起を経験するのではないだろうか。コンウェイはバングラデシュの人々の記憶を調べた際に,まさにこの2度目の思い出の隆起を発見している。バングラデシュの人々はパキスタンからの独立戦争を経験したあと,1970年代に新たな生活を始めたのだ。

クラウディア・ハモンド 度会圭子(訳) (2014). 脳の中の時間旅行:なぜ時間はワープするのか インターシフト pp.168
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予期と追想

こうした研究について議論すると混乱してしまうことがあるが,それは時間の評価には2つの種類があるからだ。1つは予期的——今の時点から1分間を計って評価する方法。そしてもう1つが追想的——過去のある時点からどのくらい時間がたったかを評価するものだ。時間の流れが遅いと感じるときは,1分たったときどのくらい過ぎたか尋ねると,30秒とか40秒とか1分より少ない数字を答える。つまり過小評価する。しかしあとになって,そのときのことを思い出して答えてもらうと,今度は過大評価するのだ。どちらも時間の流れが遅いことを示している。たとえばあなたが,とてつもなく退屈な劇を見ているとしよう。早く休憩時間にならないかと思っているとき,1時間過ぎたと思ったら知らせてほしいと頼まれた。そのようなときは時間がなかなか経過しないので,40分ほど過ぎたところで1時間たったと思ってしまうかもしれない。ようやく休憩時間になり,第1幕を振り返ると,まるで2時間も続いたように感じてしまう。そのため数字だけ見ると,片方は過大評価,もう一方は過小評価のように見えるが,どちらも時間の流れが遅いと感じているという点では同じだ。

クラウディア・ハモンド 度会圭子(訳) (2014). 脳の中の時間旅行:なぜ時間はワープするのか インターシフト pp.52

体温と時間のゆがみ

その30年前,ハドソン・ホーグランドというアメリカ人心理学者の妻が,インフルエンザで寝込んでいた。夫はかいがいしく看病していたが,妻は自分がいてほしいときには,いつも夫が部屋の外にいてなかなか戻ってこないと文句を言った。実のところ,彼が部屋を離れていたのは,ほんの数分だった。妻の経験する時間がゆがんでいるのではないかと考えた彼は,チャンスとばかりに,時間知覚と体温についての実験を行ってみることにした。妻の体温は大きく変動していたので,体温計の数値が変わるたびに,1分間を頭の中で計るよう頼み,同時にそれをストップウォッチで正確に計測した。そして確認のため,時間計測作業をさらに5回行うよう,妻を説得した。その結果,病気の妻はこの実験のために,48時間で30回の計測を行なった。
 このとき彼が発見したのは,わけもわからず1分を評価するという夫の頼みを受け入れた妻の忍耐強さだけでなく,体温が高いときほど,実際よりも早い時間で,1分が過ぎたと妻が感じたということだった。つまり時間の流れが遅くなったのだ。体温が39.4度に達したとき,妻はたった34秒で1分が過ぎたと答えた。

クラウディア・ハモンド 度会圭子(訳) (2014). 脳の中の時間旅行:なぜ時間はワープするのか インターシフト pp.40-41

時間がゆがむ要因

では時間がゆがむ主な原因は何だろうか?第1は感情である。歯医者での1時間は,仕事の締切前の1時間とはかなり違うと感じる。明るい表情をした人の顔の写真を見ているときは,どのくらいその写真を見ているか,わりと正確に予測できるが,怖がっている顔をいくつも見ると,実際より長い時間が過ぎたと感じる。しかし感情が時間の感覚をゆがませることが最もよくわかるのは,非日常的な経験をしたときだ。生きるか死ぬかの状態で恐怖を感じているときには,時間の流れが遅くなる。チャック・ベリーが空中を落ちているときのように,命の危険を感じて怯えているとき,1分がまるで15分くらいに引き伸ばされたように感じる。

クラウディア・ハモンド 度会圭子(訳) (2014). 脳の中の時間旅行:なぜ時間はワープするのか インターシフト pp.28

誤った推論

誤った推論に基づく理論の,悲劇的で有名な現代の事例に,第二次世界大戦のフランス軍の軍備がある。第一次世界大戦で凄惨な大虐殺を被ったあと,フランスは,ドイツによる次なる侵略の可能性から自国を護ることが不可欠と認識した。しかし不幸なことに,フランスの陸軍本部は,次の戦争でも,第一次世界大戦と同様の戦闘が行われるはずだと決め込んでしまった。先の戦争では,フランスとドイツのあいだに敷かれた西部戦線が,4年間も塹壕戦のまま膠着状態にあった。入念に守備を固めた塹壕で防衛を担った歩兵部隊は,敵の歩兵部隊の撃退におおむね成功し,攻撃部隊は,新しく開発された戦車を個別に配置して,もっぱら歩兵による攻撃の援軍にあたった。したがってフランスは,さらに巨費を投じて,入念な要塞システムであるマジノ線を作り上げ,東側のドイツとの国境を防御しようとした。しかし,第一次世界大戦に敗れたドイツ陸軍本部は,異なる戦略の必要性を認識していた。ドイツは攻撃の先鋒として歩兵ではなく戦車を利用し,散らばった機甲師団の中へ戦車の大部隊を進めて,かつて戦車に向かないとみなされていた森林地を抜けてマジノ線を迂回し,たった6週間でフランスを打ち破った。第一次世界大戦後の誤った類推に基づく理論で,フランス軍司令官たちは,ありがちな間違いを犯した。司令官たちはよく,来るべき戦争が前回の戦争と同じであるかのような計画を立てる。特に,前回の戦争で自軍が勝利を収めた場合には。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(下巻) 草思社 pp.222-223

寄せ集め

バラゲールに関するさまざまな疑問の答えは,わたしにもわからない。彼を理解するうえでの問題のひとつは,こちらが非現実的な期待を抱いてしまうことだろう。わたしたちは無意識のうちに,人間を単純に“善”か“悪”かに色分けし,ある人物が徳性を備えているなら,その人物の行動のあらゆる面にそれが輝き出るはずだと考える。相手の中に高潔で賞賛すべき面をひとつでも見つけると,別の面では違うとわかったときに困惑を覚える。人間は首尾一貫した存在ではなく,たいていは相互に関係のないさまざまな経験で形作られた特性の寄せ集めなのだとは,なかなか認識できない。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(下巻) 草思社 pp.115

断片化する能力

現実を扱いやすい断片に分けるというこの能力は,産業社会と近代科学が驚異的な成功を収めたことの基礎であり,最大の弱点でもある。世界を分解して専門化することの強みは明らかだ。ごく一部(化学物質,バクテリア,車軸,神経結合)を理解することで,私たちは化学,微生物学,工業,神経科学で驚くべき功績をあげた。弱点が明らかになったのは,成功から何世紀も経ってからだった。それどころか,弱点は成功によって初めて弱点となったのかもしれない。私たちは多くの赤ん坊を救い,多くの人々に食料を与え,かっこいい車をたくさん造り,そうすることによって地球全体を危機にさらしているのだ。

デイビッド・ウォルトナー=テーブズ 片岡夏実(訳) (2014). 排泄物と文明:フンコロガシから有機農業,香水の発明,パンデミックまで 築地書館 pp.28

虚栄心

思い描いた理想と現実との乖離を受け入れられず,「プライド」だけ保っている。だから若いフィリピン人女性に男としての自尊心をくすぐられると舞い上がってしまい,あと先考えずにこの国まで追い掛けてしまうのではないだろうか。そこで今度は「金持ちの国から来た日本人」という新たな「プライド」が生まれる。それは同時に途上国に対する思いあがりや虚栄心に直結していることに彼らは気づいていない。自ら飛び出した先での困窮生活という醜態を両親や親戚,周囲にさらしてしまうため,今さら日本に帰ることもできない。それは「プライド」というよりただの虚栄心だ。フィリピンで何とか踏ん張って,復活したい。だが,理想と現実は乖離し続けるばかり。その現実を認めたくないがために,滅金で自分を飾り立て,気づいた時には虚しい「プライド」だけが残った。

水谷竹秀 (2011). 日本を捨てた男たち:フィリピンに生きる「困窮邦人」 集英社 pp.232-233

あとから責める

人は,後になって,そのとき知りようのなかったことを知らなかったという事実のために,自分を責めることがある。また人は,やむを得ず行った行動のために,自分を責めることがある。このような状況で,ある程度の「自己憐憫」が呼び出される。ある者たちはこの方向に動くことができるが,そうでない者たちもいる。この連続体の他方の端では,自責の元が完全に明白なことがある。お前は知っていた,そして何もしなかった。おまえは,決して言い訳のできないようなことをした。そして,あいまいな中間があり,そこでは人はこのように問うかもしれない。私は知るべきだった何を知らなかったのか,見るべきだった何を見なかったのか?私は,渇き,飢え,生きたいという欲求に直面していたことを考えれば,そのようにしなかったからといって何だというのか?

マーク・フリーマン 鈴木聡志(訳) (2014). 後知恵:過去を振り返ることの希望と危うさ 新曜社 pp.86-87

遠くから眺める

空からの眺めの喩えで考えてみよう。地上で飛行機の座席に座っているとき,外に見えるのはどれもくっきりとし,輪郭がはっきりしている。いったん空に高く上がったなら,あなたが地上で見た具体的なものは,ただの形に,パターンに,一般的なデザインになる。地上では見えなかったものを見ることができるし,あるいは見慣れたものが違うように見えるかもしれない。景色しだいで,まったく美しいものになることもある。後知恵にも同じことが言える。遠くから見て改めてわかることがたくさんある。

マーク・フリーマン 鈴木聡志(訳) (2014). 後知恵:過去を振り返ることの希望と危うさ 新曜社 pp.78

偽りの過去

しかしこの過程にはもっと厄介な場合もあり,それは,たとえば過去をありのままに見ることの拒絶に基づいていたり,それを隠してあたりさわりのないものにしようとする場合である。過去を振り返るこのモードが頂点に達するのは,「傾向的な」やり方で過去を描くことにおいてだけでなく,完全に偽って過去を描くことにおいてである。このことは,後知恵とそこから生み出されるナラティヴについてきわめて重要な事を示唆する。物語を完全に正しく語ることは不可能かもしれないが——ナラティヴな反省の解釈的性質がそれを妨げるのは明白だ——嘘をつくこと,つまり事実として知られていることをただ無視して過去の物語を語ることは,完全に可能である。

マーク・フリーマン 鈴木聡志(訳) (2014). 後知恵:過去を振り返ることの希望と危うさ 新曜社 pp.72

つくり直す

私たちは自分史の中に始めからあったものを掘り出す考古学者でも,無から何かをつくり出す発明家でもない。詩人と同じように創作家であって,ナラティヴを通して,後知恵によって,人生という作品をつくり,そしてつくり直す。その仕方は,経験がその中に孕む潜在性,いつか解き放たれる潜在性を,後に起きることに応じてあれこれの方向に解き放すというものだ。この運動はさしあたり,完全に前向きでも後ろ向きでもなく,一種の詩的な形の螺旋運動,弁証法的に前後を行き来する運動であり,それは経験を理解するのに必要な想像力に発する。死が大声ではっきりと警告するように,「時計の針を戻すことはできない」。このように,時が前へ進むのは取り消せないというのはまったく正しい。これは先に私が時計時間として述べたことである。けれども,これも先に述べたことであるが,私たちは出来事がどれも同じ時の刻みに沿って次々と起こる時計時間だけでなく,ナラティヴ時間も生きている。あの家へのドライブが意味と重要性を得たことには納得がいく。娘が病気になるまでは見えなかった,私の父と娘との繋がりが私の心に生じたことも,腑に落ちる。意味はナラティヴな想像力から出ていて,そして意味とは,ひとえに,過去だけでなく自己そのものをもつくり,そしてつくり直すことの一部なのだと私は考えている。

マーク・フリーマン 鈴木聡志(訳) (2014). 後知恵:過去を振り返ることの希望と危うさ 新曜社 pp.69

単純化と希薄化

ある部分,これは私たちが歴史を単純化しがちであり,しばしば歴史を希薄化する者ですらあるためであり,いたるところに罪があるとしたりどこにも罪がないとするのではなく,しばしばどこかに罪を着せるために関係する事実を無視するのである。

マーク・フリーマン 鈴木聡志(訳) (2014). 後知恵:過去を振り返ることの希望と危うさ 新曜社 pp.42

反省

しかし現下における限界とは,時間的なもの,直接経験をしばしば特徴づける変わりやすさや不確定さだけではない。人間自身の限界,私が先刻述べた人間の近視眼性の働きでもある。これは道徳的領域で特にそうで,私たちはまず行動して後で考えがちだ。このように,今に対してはしばしばある種の「自閉性」が,つまり利己的な——時には自己中心的な——視野の欠如があると言えるかもしれない。後知恵を通して,つまり後知恵によって与えられる自己と今ここの自己との距離を通して,この自閉性を克服することができる。したがってナラティヴな反省の形を取った後知恵は,真実だけでなく善のための潜在的な手段であることがわかるのであり,ゆえに道徳生活を強め,深くする重要な役割をもつものと理解されねばならない。

マーク・フリーマン 鈴木聡志(訳) (2014). 後知恵:過去を振り返ることの希望と危うさ 新曜社 pp.24

吟味された源泉

私は後知恵を実際よりも崇高なものにしようとはしていない。後知恵は歪曲の元になり得るし,実際しばしばそうである。またそれは利己的で自己防衛的な幻想の元となることがあるし,必要な人には慰めとなる作り話を生む。そして,特にサートウェルが気付かせてくれることだが,後知恵は結果としてナラティヴの牢獄を,つまり語ることに凝り固まったため生きることの妨げとなる自家製の囲いを作り上げることがある。しかしながら後知恵が吟味された唯一の主要な源泉であることに変わりない。吟味された人生が良いものと保証されるわけではないが,その機会を増やすことは確かである。

マーク・フリーマン 鈴木聡志(訳) (2014). 後知恵:過去を振り返ることの希望と危うさ 新曜社 pp.6

後知恵と道徳

筆者の人生において起きた出来事で,後知恵によってそれが起きたときとは非常に違って見えるたくさんのことを私は思い出すことができる。事の最中ではそのことの真実を全く確信しているか,あるいは私の立場が妥当なことを心から信じている——そして,もちろん他者の立場が妥当でないことも。そのように行動するしか選択肢がなかったと納得することもある。しかしその後,時が過ぎればそのことが全く違うように見える。展望する何らかの視点を得るなら,それに続くのは,あのときは絶対真実で正しいと思えたものが,完全な偽りや間違いであったということである。後知恵を通して私はある程度の洞察を得るだけでなく,道徳的成長へ向かう,小さくはあるが一歩を踏み出したのである。「道徳的」の語で私は,「良い」行為や「悪い」行為としばしば結びつけられるような特殊な経験の領域(つまり「道徳性」)のことを言っているだけでなく,いかに生きるべきかについての根本的な問題と関係する,より広範な経験の領域(しばしば「倫理」の題目で考察される)のことを言っている。したがって私の命題の第二はこうである。後知恵は道徳生活を形づくり,深めるのに不可欠な役割を演じる。

マーク・フリーマン 鈴木聡志(訳) (2014). 後知恵:過去を振り返ることの希望と危うさ 新曜社 pp.3

悪質な歴史

心理学では「後知恵」の語にはしばしば「バイアス」の語が伴い,後知恵は「本当にあったこと」を歪める元凶の1つであると見なすのが適切だと広く考えられている。特に有害なのは悪名高い事後主張で,事が終わってから,「そんなことみんなわかっていたよ」と言い出す性癖のことである。後知恵的なバイアスが実際にあること,それは悪質な歴史という結果をもたらす可能性があることに疑いの余地はない。悪質な歴史とは,ある出来事に欺瞞的な意味や重要性を与えるように過去を描くことである。そのため心理学の文献で,後知恵は汚名を被っている。心理学という学問にとどまらず,特に瞑想や「マインドフルネス」やそれに類似した実践では,私たちの多くはどうしても過去や未来にとらわれ,この世界に気を配れないので,現在に,つまり今にもっと注意を向ける必要があるとされる。

マーク・フリーマン 鈴木聡志(訳) (2014). 後知恵:過去を振り返ることの希望と危うさ 新曜社 pp.4

後知恵とナラティブ

さらにこのことが示唆するのは,後知恵は記憶についての何かだけでなくナラティヴについての何かでもあるということである。そしてさらに言いたいのは,人が時間を費やして自身の人生の物語を語っても語らなくても,そうだということである。ありそうな繋がりを見つけようと私が私の人生のある部分の経緯を振り返るとき,私は必然的にナラティヴの「筋書きづくり(emplotment)」をしている。「筋書きづくり」とは,過ぎ去った過去が新たに現れた全体の部分として,進行中の物語におけるエピソードとして,今わかるという経験である。したがって私の2つの命題のうちの最初のはこうである。自己理解が生じるのは,かなりの程度,それ自体が後知恵の産物であるナラティブな反省を通じてである。

マーク・フリーマン 鈴木聡志(訳) (2014). 後知恵:過去を振り返ることの希望と危うさ 新曜社 pp.2

脳の仕組みと知能

アレックスとの錯視の研究は,物体や分類の名称や数字の次に切り拓く新境地になると私は考えていた。進化上,鳥類とほ乳類は2億8000年前に枝分かれしたと考えられている。これだけ昔に枝分かれしたということは,脳の仕組みも根本的に違うことを意味するのだろうか?
 じつは,2005年にエリック・ジャーヴィスが共同研究者たちとまとめた画期的な論文が発表されるまでは,その通りだと考えられていた。ほ乳類の脳を見ると,大脳皮質が大きく発達し,脳溝(しわの部分)が縦横無尽に走っている。これに対して,鳥類には大脳皮質にあたる部分がない。このため,鳥は高度な認知能力を持てるはずがないというのが定説だった。いってみればこの定説との戦いだった。鳥類の脳に,物体や分類のラベル,“大小”の比較,それに“同じ”と“違う”の概念が理解できるはずなどないとされていたのだ。しかし,現にアレックスは理解できたのだ。このことは,動物の脳についてのある真実を示していると私は考えた。ほ乳類と鳥類の脳は構造が大きく違うことは確かだし,そのことによって能力に差が生じることも確かにあるのだが,どんな動物の種類でも“脳の仕組み”と“知能”には共通の特徴があるはずだ。言い換えれば,ポテンシャルは動物によって違うのだが,根本的な仕組みは同じだというのが私の主張だ。

アイリーン・M・ペパーバーグ 佐柳信男(訳) (2010). アレックスと私 幻冬舎 pp.262-263

言えることと理解すること

数字についての訓練を新たにはじめたのは2003年の秋だったが,その時点でアレックスは数字の「ワン(1)」から「シックス(6)」まで知っていた。しかし,おぼえた順番は番号順ではなかった。はじめにおぼえたのは,たとえば三角の木材を指す「スリー コーナー ウッド」の「3」と,四角い紙を指す「フォー コーナー ペーパー」の「4」だった。つぎにおぼえたのが「2」,続いて「5」と「6」,そして最後が「1」である。今度の訓練では,アレックスが数字の意味を本当に理解しているのかどうかを確かめることにした。3歳前の人間の子どもに4個のビー玉を見せ,「いくつ?」と聞くと,たいていの場合は正しく「4つ」と答えられる。しかし,ビー玉がたくさん入っている箱を差し出して同じ子どもに「ビー玉を4つ取ってちょうだい」とお願いしても,適当にわしづかみしたたくさんのビー玉を渡されるのがオチだ。言葉もそうだが,「言える」からといって「理解している」とは限らないのだ。

アイリーン・M・ペパーバーグ 佐柳信男(訳) (2010). アレックスと私 幻冬舎 pp.243

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