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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「その他心理学」の記事一覧

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いつでも同じような疑問が

私たちが学生の頃(昭和30年代の後半),友人とよく話した話題の1つは「心理学は科学であるか?」あるいは「心理学は将来生き残れるか?」というものであった。心理学の「科学性」(その時,私たちもまた自然科学を念頭に置いていたと思う)はおおいに疑わしかったし,対象領域も生理学や数学などの隣接(?)科学によって吸収されつつあるという感じもあったのである。また,実学としてもたよりないようにみえた。だから,会話は,「残るとしたら,知能テストくらいのものだな」と半分自嘲的に言って終わることが多かった,と思う。そして同時にその頃私たちは,心理学の専門家(アカデミックな心理学者)になるためには,何か技術を身につけなければいけないと感じていた。そうした技術とは,(1)電気生理学,(2)情報解析,(3)心理診断法,の3つのどれかであった。
 (1)は脳波計に,(2)はコンピュータに,(3)ロールシャッハ・テストやTATに象徴されていたものである。それはとりもなおさず,生理心理学,計量(数理)心理学,臨床心理学という“将来性のある”専門領域における中心的な技術であった。

日本臨床心理学会(編) (1979). 心理テスト・その虚構と現実 現代書館 pp.359
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「心」

研究至上主義の中で,被験者を研究に奉仕する「モルモット」として位置づけて,しかも,「科学の進歩=人類の幸福」といった,タコツボ的ヒューマニズムに支えられた科学論が肯定的に存在していたためとも思われる。また,業績中心主義の中で己の上昇志向に夢中で,業績に奉仕する「モルモット」の立場までは考えてあげられなかったためとも思われる。
 さらには,現代の心理学は「心」の問題の科学性・客観性を自然科学的方法論である数量化の中に求める傾向が強かったのであるが,被験者の「心」の諸現象を,この方法論の中で抽象化することに夢中であったためとも思われる。つまり,その「心」に関する諸現象の内容,意味を質的に受けとめ,それ自体において検討することをしないで,ただそれらを(主として数量化過程を経て)心理学的枠組に収斂させ,かつ抽象化してしまう癖のためともいえよう。

日本臨床心理学会(編) (1979). 心理テスト・その虚構と現実 現代書館 pp.185

体質

しかし心理学を自然科学と並べてみて直ぐ目につく低さ,浅さ,安っぽさは,どうしようもないのでして,このひけ目を補償するために,上からお声がかかるとすぐ尻尾を振って乗って行ったものです。私(または私たち)のこの心理学者的軽佻性は,戦後もずっとつづいて,その後の<新進>のお手本に成ったようです。もろもろの官庁の委員会・審議会,大企業・大会社,その他各種の研修機関に招かれて,あらゆる問題について,さっと解説し解答する習慣です。戦後は<学識経験者>の委員会がふえましたし,日本の産業界は戦後ゼロから出発するために勤労意欲の向上や志気の問題や人間関係論やそして更に大衆心理とかの知識を私たちに求めてきました。そんな風にして同僚は浅間山荘にまで出張することに成るのでした。私たちはこうした大学生活に安住し,極力,人びとの生活や歴史の流れに触れないようにつとめてきました。日本の心理学世界には紳士協定とでもいうべき目にみえないおきてがあります。同業の著作や行為やについて決して批判的発言をしないこと。社会問題に一切関わりをもたぬこと。心理学の中に社会問題や人間関係を引き入れたり科学者の枠から出て,これらの問題につき発言しないこと。これは学会の体質ですし大学の体質であると思います。

日本臨床心理学会(編) (1979). 心理テスト・その虚構と現実 現代書館 pp.155

客観性願望

客観性とは何かを,もし哲学に問うとすれば,もちろん何か一連の解答を得ることができると思うが,それを典拠としてあるテストの客観性の有無を判定することには役に立たないであろう。しかし私たちが客観性といっているのはもっと簡単なことであって,それは<誰が,いつ,どこで,どんな意図で実施しようと常に必ず,こうすれば,こうなる>という知識をいうのである。したがってそれは公共性ということに近いのであり,きめられた条件と手続きを遵守するかぎり誰でもいつでも何回でも反復しうる<技術>ないし技術的知識をいうのである。技術というのは,きめられた条件と手続きとを守るかぎり誰でもいつでも何回でも反復しうる操作でありそうした操作の知識である。そして技術というものは,こうすれば必ずいつもこうなるという操作,統制,支配の術なのである。客観性とはこうした技術というものの特性なのであり合理的科学的な支配や操作やの特性なのである。自然科学は要するに自然に対する技術であり自然に対する統御・支配のための技術学なのである。したがって実証ということも,記載された条件下で定められたやりかたで試行していつでも記載されたのと同じ結果がえられることの実証である。それであるから,すべて客観的知識は必ず技術となりうるはずであり,技術は理論的にいってすべて機械化されるはずである。たとえばコンビナートは技術の機械化であり,客観的知識の機械化である。
 これが心理学のお手本であり,私たちの<客観性願望>である。それならば私たちは心理学研究者として,何を目的として,何を支配統制しようとしているのであろうか。この問いは,応用心理学,臨床心理学とテスト問題とを越えて,心理学,実験心理学に対して問われなければならない。

日本臨床心理学会(編) (1979). 心理テスト・その虚構と現実 現代書館 pp.149-150

聞くだけに

なんで私たちを支配や管理するのでしょう。私たち病人から言いますとね,インタビューもテストも支配管理以外の何ものでもないんです。インタビューもやってもらわなくていいんですわ。あんなテストみたいなことは。断定するんですからね,相手は。なぜ断定しなきゃいけないんでしょうね。こっちは,そんなこと信じないでいいけど疾病中の混乱時には,それに呪縛されることは事実なんです。もう息が出来ない,しかも私たちは今だってですけど,秒という呼吸の中,時間と対決しているような苦しさですよ。
 もうやめて下さい。すべて,もう聞くだけにしてください,患者からは。もし患者が勝手なこと言っているのなら「あなたと話したくない」となぜはっきり言えないのですか。言えばいいですよ。

日本臨床心理学会(編) (1979). 心理テスト・その虚構と現実 現代書館 pp.84

形式ではない

さて,疫学研究で得られるデータとその分析が応用のために信頼できるかどうかを,妥当性という言葉を用いて説明することが多い。妥当性は,内的妥当性と外的妥当性とに分けられる。外的妥当性は,一般化可能性とか応用可能性と呼ばれることがある。内的妥当性の追求が科学の整合性(論理的な説明)を求める一方,外的妥当性は応用可能性を求める。
 医学研究における動物実験は,うまくいけば内的妥当性はそこそこあるが,人への外的妥当性は全くないかほとんどない。ピロリ菌による発がん性を動物実験で示そうが示すまいが,「それでどうしたの?動物と人間とでは違うよ」と一言で片付けられる危険性が常にある。動物実験の結果を人間に適用可能であると言うすべを,動物実験は持っていない。一方,応用可能性を追求しすぎて内的妥当性が全くなければデータは信用できない。両方の妥当性を十分に満たすことは困難だが,どちらかが完全に欠けているのはまずいのだ。内的妥当性を追求して,実験ばかりするのでは困る。特に医学の応用目的では人間での観察が可能なら観察研究を検討する必要がある。実験は内的妥当性を上げるための形式の1つに過ぎない。科学研究の目的は,形式を整えることではない。この場合の目的は,あくまでも因果推論である。目的を見失ってはならない。

津田敏秀 (2011). 医学と仮説:原因と結果の科学を考える 岩波書店 pp.12

気づけば解放される

ピアジェは,自分の視点に気づけば,その視点から解放されると主張したが,そのとおりだと思う。実験を通してこのことを学んだおかげで,私の人生は大きく変わった。教授という仕事は,人前で話すことが多い。ところが,人前で話すようになって間もないころの私は,身をすり減らすほどのあがり症に苦しんでいた。初めて学会で発表するときは,緊張で2日間眠れなかった。初めて教職採用面接を受けたときは,3週間で9キロもやせた(心配ご無用。大学時代はフットボールをやるため増量していたので,余計な贅肉はたっぷりあった)。今でも人前で話すときは緊張するが,身をすり減らすほどではない。聴き手のほとんどは,私が想像する最悪のケースのことなどまるで考えていないし,私が目の前で話しているときも,自分の生活にとって大事なことをあれこれ考えているだろうし,たとえ何が起ころうとも,私が思うよりはるかに早く忘れてしまうことを知っているからだ。数年前,初めて高校の卒業式でスピーチをすることになったときなどは,自分が卒業生だったときのスピーチ内容を思い出せたら100万ドルあげるといわれてもまったく思い出せなくて,逆に勇気づけられたものだ。そもそも,高校の卒業式のスピーチをした人が,男性か女性かも忘れていた。あなたが昔聴いた講義や講演や,終わるまでじっと耐えていた卒業式スピーチのことを,もう一度思い出してほしい。あなたは,話の内容を何%くらい思い出せるだろうか?もしその数字が,雷に当たる確率より高かったら,驚きだ。人間は,自分の視点が持つ自己中心性を意識することで,広い視点を持てるようになる。さあ,気を楽に持とう。そもそも他人はあなたなど見ていないし,もし見ていても,たいして気にしていないのだから。

ニコラス・エプリー 波多野理彩子(訳) (2015). 人の心は読めるか? 早川書房 pp.160-161

道徳の無言化

心理学者のジョナサン・ハイトは,道徳規範を言葉で説明するのがいかに難しいかを力説し,その現象を「道徳の無言化」(moral dumbfounding)と称している。人はしばしば,ある行為が不道徳だと直感的に判断するが,それではなぜその行為が不道徳なのかを説明しようとすると,答えに詰まって,しばしば最後まで理由を考えつけないのだ。たとえばハイトが実験参加者に,実の姉妹と避妊措置をしたうえで自発的にセックスすること,捨てられていたアメリカ国旗でトイレ掃除をすること,自動車事故で死んだ飼い犬をその家の人たちが食べること,死んだ鶏を買ってきてセックスすること,死の床にある母親に誓った墓参りの約束を破ることが,道徳的に問題ないかどうかを質問したところ,いずれの場合もノーという答えが返ってきた。しかし,なぜそれがいけないのかを質問されると,参加者たちは言葉に詰まって悩み苦しんだすえに,降参してこう答えた。「わかりません。説明はできないんですが,とにかくそれは間違っているとわかります」。
 たとえ言葉では説明できなくとも,道徳規範は往々にして,暴力的な行動への有効なブレーキとなりうる。すでに見てきたように,現代の西洋社会で,捨て子を安楽死させる,侮辱されたことへの報復をする,先進国が別の先進国に宣戦布告するといった,ある種の暴力が回避されている根本的な理由は,道徳を重視しているからでも相手に共感しているからでも衝動を自己制御しているからでもなく,そうした暴力行為が現実的な選択肢としてまったく念頭にないからなのだ。その種の行為は考慮されたすえに避けられているのではない。それは考えられもしない,笑ってしまうほど馬鹿げた行為なのである。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.452-453

心理学の時代だった

20世紀後半は,心理学の時代だった。集団内の優劣順位,ミルグラムやアッシュの実験,認知的不協和といった学術雨的な研究の成果が,どんどん社会通念の一部となった。だが,一般の人々の認識に染み込んでいったのは,科学としての心理学ばかりではない。心理学的なレンズを通して人間の営為を見ることが,もはや一般的な慣習となったのだ。この半世紀のあいだに,人間という種の全体を視野に収めた自意識が育ち,それが文学や社会的流動性やテクノロジーによってさらに強化され,私たちの目はカメラのごとく,自分たち全員のことをスローモーションで追いかけるようになってきた。私たちはますます,自分たちの営為を2つの視点から見るようになっている。1つは,ものごとを自分の経験したそのままに見せる,頭蓋骨のなかの視点から。そしてもう1つは,自分の経験したことは進化した脳内の活動パターンからなっていて,そこには錯覚も欺瞞も含まれるのだとわきまえている科学者の視点から。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.353

無害なマゾヒズム

この対抗プロセス説は,それだけではやや未熟で,たとえばこの理屈でいくと,やめたいときにいい気持ちになれるからという理由で,人は自分の頭を叩きつづけるなどという予測がなされてしまう。いうまでもなく経験の種類によって,作用と反作用との引っぱりあいの強さは異なるし,作用がどれだけ弱まり,反作用がどれだけ強まるかの進み具合もちがってくる。したがって一部の嫌悪経験だけが,とくにその経験を克服させてしまうに違いない。心理学者のポール・ロジンは,ある種の獲得嗜好の症候群があることを突き止めて,それを「無害なマゾヒズム」と名づけている。そこで好まれている逆説的な快楽とは,たとえば激辛のチリペッパーや強烈な匂いのチーズや辛口のワインを賞味したり,サウナやスカイダイビングやカーレースやロッククライミングなどの極限的な経験に身を置いたりすることである。これらはすべて大人の嗜好であり,その世界に入ってくる新参者は,苦痛や吐き気や恐怖という最初の反応を乗り越えないと玄人にはいたれない。そしてこれらの嗜好はすべて,ストレス要因の量を少しずつ上げながら,自分を徐々にそれに慣れさせることによって獲得される。これらの嗜好に共通するのは,高い潜在的利得(栄養,薬効,スピード,新しい環境への理解)と高い潜在的危険(毒作用,体調悪化,事故)が一対になっていることだ。これらの嗜好の1つを獲得することの喜びは,現在の限界を押し上げることの喜びである。すなわち,自分が不幸を招かずにどれだけの高さ,辛さ,強烈さ,速さ,遠さにまで到達できるかを,細かく調整した段階を踏んで探求していくことの喜びだ。その究極の利点は,局所的な経験のなかにある有益な領域でありながら,生来的な恐怖や警戒によって初期設定では封鎖されている領域を,開放できることにある。無害なマゾヒズムは,この征服の動機が行き過ぎたものである。そしてソロモンとバウマイスターが指摘するように,嫌悪と克服のプロセスは,最終的に欲求と中毒にいたるまでに行き過ぎることがある。サディズムの場合,潜在的な利益はドミナンスやリベンジや性的アクセスであり,潜在的な危険は被害者や被害者の仲間からの報復だ。サディストはまぎれもなく玄人になる——中世ヨーロッパの拷問具,警察の尋問所,シリアルキラーの隠れ家は,概して恐ろしいほど洗練されている——うえに,ときには中毒にもなりうるのである。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.327-328

道徳に従う

誰が正しく,誰が間違っているのかについて,冷静な第三者さえ疑わないような場合でも,心理学の眼鏡をかけて見てみると,悪人はつねに自分の行為を道徳的なものだと思っていることがわかるのだと覚悟しなくてはならない。この眼鏡はかけると痛い。「ヒトラーの視点から見てみよう」という文章を読んでいるときの自分の血圧を測ってみるといい(オサマ・ビン・ラディンでも金正日でもいいが)。しかしヒトラーにも,ほかのあらゆる感覚ある生き物と同じように,もちろん視点があった。そして歴史家が教えるには,それはきわめて道徳家的な視点であったという。ヒトラーは第一次世界大戦時にドイツの突然の予期せぬ敗戦を経験し,これは内部の裏切りがあったためとしか説明できないという結論にいたった。連合国による殺人にも等しい戦後の食糧封鎖と,懲罰的な賠償金請求には,いたく心を傷つけられた。彼はどうにか1920年代の経済混乱と街中の暴力を生き延びた。そしてヒトラーは,理想主義者だった。彼は英雄的な犠牲が千年王国をもたらすという道徳的なビジョンを描いていたのだった。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.218

文字どおり受け止めすぎ

また,人間の心は本質主義に傾きやすいので,「人は食べたもので作られる」という決まり文句を,私たちは少しばかり文字通りに受け止めすぎるきらいがある。死んだ肉を人体に取り込むのは,ある種の汚染のように感じられ,動物性が凝縮されたものを摂取するのは,それを食べた人に獣性を染みこませる恐れがあるように感じられるのだ。アイビーリーグの学生でさえ,この幻想にはとらわれやすい。心理学者のポール・ロジンの調べでは,大学生たちのこんな推論傾向が明らかになっている——肉を求めて亀を狩り,剛毛を求めてイノシシを狩る部族は泳ぎが達者で,肉を求めてイノシシを狩り,甲羅を求めて亀を狩る部族はケンカに強い。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.154

醜悪か清浄かの二者択一

人間の心があらゆるものを醜悪か清浄かの度合いで測りたがり,それを道徳的に正当化したがるということは,これまでにあちこちで言及してきた。この尺度の両端で同一視がなされる。一方では,不道徳が不潔さや肉欲や快楽主義や放蕩と同一視され,他方では,美徳が清浄さや貞節や禁欲主義や節制と同一視されるのだ。このような混同は,食物に関する感情にも影響を及ぼす。肉を食べることは汚くて享楽的であり,したがって悪い。一方,野菜だけを食べることは清潔で禁欲的であり,したがって善いのである。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.153-154

視野の狭さ

レイプは決して男性性の正常な一部というわけではないが,男性の欲望が基本的に性的パートナーの選り好みに頓着せず,パートナーの内面にも無関心であるという事実によって可能となっているところはある。もっといえば,男性にとっては「パートナー」という言葉より「対象物」という言葉のほうが適切なぐらいなのである。この性別による性行為の概念の違いは,それぞれの性別が性的攻撃の被害をどう捉えるかの違いに反映される。心理学者のデイヴィッド・バスが行った調査によれば,男性は性的攻撃が女性被害者にとってどれだけショックであるかを過小評価するのに対し,女性は性的攻撃が男性被害者にとってどれだけショックであるかを過大評価する傾向がある。この深い性別格差は,伝統的な法律や道徳律においてレイプ被害者が冷淡に扱われてきた理由の補足説明となる。そうした扱いがなされてきたのは,男性が女性に対して無情に権利を行使してきたから,という以上の理由があるのかもしれない。その背景には,自分たちと異なる心理,つまり,求めてもいない突然のセックスを見知らぬ他人とすることになるのは魅力的どころか不快なことであるという心理を,想像することができない男性の視野の狭さも関わっているかの知れないのだ。したがって,男性が女性と肩を並べて働いている社会,男性が自分たちの利益を正当化しながらも女性の利益を考慮しないではいられない社会とは,そうした愚鈍な無関心さが無傷でいられる可能性が低い社会だということである。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.58

レイプという概念

心理学者のマーゴ・ウィルソンとマーティン・デイリーは,「自分の妻を財産と間違えた男」と題した論文のなかで,世界中の伝統的な法律が女性をその父親や夫の財産として扱っていることを示した。財産法は,財産を無制限で売却したり交換したり処分したりする権利を所有者に与え,もし財産が他者によって盗まれたり傷つけられたりした場合は,その損害を取り返す権利が所有者にあることを認めるよう社会に求めている。この社会契約に女性の利益は反映されていないので,レイプはその女性を所有している公民権を持った男性に対する犯罪となる。レイプという概念は,他人の所有物を傷つける不法行為,または貴重な財産の窃盗と解釈されていた。これは「レイプ(rape)」という言葉そのものにもあらわれている。レイプは「破壊(ravange)」や「強欲(rapacious)」や「強奪(usurp)」と同じ語源を持つのである。したがって,財産を持った身分の高い男性に保護されていない女性はレイプ法の適用範囲外とされていたし,夫による妻のレイプは,自分で自分の財産を盗むようなものなのだから,論理的にありえないとされていた。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.43

本質主義からジェノサイドへ

ジェノサイドについてのここまでの説明をまとめると,次のようになる。人間の思考のもつ本質主義という習慣によって,人を分類するというカテゴリー化が行われ,あるカテゴリーの総体に対して道徳的感情が振り向けられる。この組み合わせによって,ホッブズの言う個人または軍隊同士の争いが,民族のような集団間の争いへと変化する。だがジェノサイドには,もう1つの決定的な要因がある。ソルジェニーツィンが指摘するように,数百万人単位で人を殺害するには,イデオロギーが必要だ。個人を道徳的カテゴリーに埋もれさせるユートピア主義の信念は,強力な政治体制に根を下ろし,その破壊的な力を最大限に発揮する可能性がある。このため,ジェノサイド死者数分布に異常なほどの外れ値を生じさせるのは,イデオロギーの力にほかならない。対立を生むイデオロギーの例には,十字軍や宗教戦争(さらに,副産物としては中国での太平天国の乱)におけるキリスト教,フランス革命のポリティサイドにおける革命的ロマン主義,オスマントルコとバルカン半島のジェノサイドにおけるナショナリズム,ホロコーストにおけるナチズム,スターリン政権下の旧ソ連,毛沢東政権下の中国やポル・ポト政権下のカンボジアでの粛清,追放,大飢饉におけるマルクス主義などがあげられる。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.571

嫌悪感

ヒトの心は,生物的因子による汚染から身を守る手段を進化させてきた——それが嫌悪という感情だ。通常,体からの分泌物や,動物の身体の一部,寄生虫,病原体を媒介する動物などが引き金となって人は嫌悪感を覚え,汚染源となる物質やそれに似たもの,それと接触したものをすべて排除せずにいられなくなる。嫌悪感は道徳的な解釈が容易であり,一方の極に精神性や清廉,貞節,浄化,他方の極に獣性,戯れ,肉欲,汚染を置く連続体として既定される。こうして人は,嫌悪すべきものを物質的に不快なだけでなく,道徳的に卑しむべきものと見なすのだ。人を裏切る危険人物の隠喩には,英語では病原体の媒介動物——ネズミ,シラミ,虫けら,ゴキブリ——を用いることが多い。1990年代に強制退去やジェノサイドを表すのに使われた悪名高い言葉が,「民族浄化」である。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.568-569

学習と記憶

一般に,ある動物が賢いとか知性的であるとかいうときの1つの基準となっているのが学習と記憶に関する能力である。ある課題を学び,それを一定の時間覚えておくことができる能力,それが学習と記憶であり,これが発達していればいるほど知的と見られる。動物を対象とした学習と記憶の実験は,ヒト以外の動物では,霊長類のチンパンジーやニホンザル,あるいは齧歯類のラットやマウス,そしてハトなどの鳥類で行われてきた。これらはみな背骨のある脊椎動物の仲間であるが,学習と記憶の実験は古くから無脊椎動物のタコについても行われてきた。とくに,ぼくたちにも馴染み深いマダコという種が主な実験対象であった。たこ焼きに中に入っているタコである。

池田 譲 (2011). イカの心を探る:知の世界に生きる海の霊長類 NHK出版 pp.187-188

マキャベリ的知性仮説

ぼくたちは日常の中で他人といろいろなやりとりをする。この場合の他人とは,親や兄弟,親しい友人,見知らぬ人など,およそ自分が日常の中でかかわる人をすべて指している。ここでのやりとりはコミュニケーションといってもよいだろう。ぼくたちは周囲にいる不特定多数の人といろいろなやりとりをすることで,必要な情報を得たり,物を買ったり,食べ物を食べたり,ときには嫌な思いをしたりする。それがどのようなやりとりであっても,「上手に」行うことができれば,「よい結果」が得られるはずだ。
 他者とのやりとりという社会的な場面において,うまく振る舞うことができた個体は自分に有利な結果を得ることができ,それは,生き残る上で有利に働き,最終的に自分の子孫を残すことにもつながるだろう。ここで,他者とうまいやりとりができるのは,脳が働いて,適切な行動をとることができるようにその人の行動を制御しているからだと考えることができる。
 ということは,脳の働きがほかの個体より少しでも優れていれば,ここでいう適切な行動をとるような制御を当の脳がしてくれる,ということになる。「脳が優れている」というのは少し曖昧な表現だが,単純に考えれば脳のサイズが大きければそれだけたくさんの神経細胞から脳は構成されているだろうし,そのぶん,神経細胞のより複雑で精緻なネットワークがつくられ,結果として複雑な情報処理も可能になると思われるからだ。
 つまるところ,「他者とのやりとり」という社会的場面が進化上の1つの選択圧となり,脳が大きくなっていったというのが人の脳が大きくなったことの1つの説明である。これはマキャベリ的知性仮説と呼ばれている考え方だ。マキャベリというネーミングは,15世紀のイタリアの政治思想家ニコロ・マキャベリに由来する。

池田 譲 (2011). イカの心を探る:知の世界に生きる海の霊長類 NHK出版 pp.96

タコ用の知能検査?

標準検査にも物足りなさがある。人間の知能指数(IQ)をめぐる論争から察するに,知能の定義や測定はいまだに物議をかもす問題で,賛否が分かれている。「IQテストは,人間の能力や実際の知能を測るのに向いていない。弊害があることで有名だ」とアンダーソンも警鐘を鳴らす。人間の知能の尺度も満足にないのに,動物の知能など測定できるわけがない——ましてや,無脊椎動物なんて。「もちろん,タコ用のIQテストなどない」と,アンダーソンは言う。被験者と心を通わすことができない——というか,どういう世界観を持っているのかさっぱりわからないのに,評価の尺度を決めてしまうと,大雑把で矛盾した評価法になりかねない。

キャサリン・ハーモン・カレッジ 高瀬素子(訳) (2014). タコの才能:いちばん賢い無脊椎動物 太田出版 pp.141-142

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