I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「パーソナリティ・個人差」の記事一覧

ヤンキー的・オタク的

簡単に言うと,ヤンキー的とは「明るくて外向的」ということ,オタク的とは「暗くて内向的」ということだ。
 「ヤンキー/オタク」という単語がピンと来ないと感じられる方は,単に「明るい/暗い」と言い換えてもらっても構わない。
 表面的な性格や態度が明るいか暗いかということだけを問題にしているわけではない。そもそも人としての意識が外に向いているのか,内に向いているのか,という視点で区別しているのだ。

ラリー遠田 (2015). なぜ,とんねるずとダウンタウンは仲が悪いと言われるのか? コアマガジン pp.16

名前の効果

この忠告と同じことだが,あたたかい響きをもつ名前は,童顔と同様にあたたかさと正直さの印象を強め,冷たい響きをもつ名前は,おとな顔と同様に権力と指導力の印象を強めることがわかった。これは2つの名前にニックネームや短縮形が含まれていないときにもみられた。そのうえ,おとな顔でもあたたかい響きをもつ名の求職者は,冷たい響きをもつ名の求職者ほどエネルギッシュでないと受け取られ,あたたかさが求められる職業,たとえば託児所の教師の助手とかホームレス救援所のカウンセラーなどに向いているとうけとられた。そればかりか,おとな顔の応募者と童顔の応募者は,両者ともあたたかい響きの名前の場合は,このような仕事に推薦を受ける可能性が等しかったが,両者とも冷たい響きの名前の場合はそうではなかった。求職者のおとなっぽい顔は経営能力と決断力を要する仕事に適しているという判断にプラスの効果をおよぼすが,あたたかい響きの名にはこのプラスの効果を打ち消す能力もあった。おとな顔であたたかい響きの名をもつ求職者と童顔で冷たい響きの名の求職者が経営能力と決断力を要する仕事に推薦される可能性は等しかった。

レズリー・A・ゼブロウィッツ 羽田節子・中尾ゆかり(訳) (1999). 顔を読む:顔学への招待 大修館書店 pp.315-316

化粧の印象

化粧は女性の魅力と童顔の程度を高めるのに加えて,性格の印象にも影響する。性格の印象におよぼす効果は,魅力におよぼす効果ほど確実ではないが,化粧をする女性は人気があり,社交的で,おしゃべりだとうけとられるだけでなく,安心してつきあえ,落ち着きがあり,自信にみちているとうけとられることが多い。これらの印象からわかるように,化粧をする女性は女性の役割の固定観念にあてはまるとうけとられている。ある種の職業に応募するさいにこれが否定的な要素になりかねないという証拠があるが,おそらくこれは,化粧をした女性が無能な女性という固定観念にとりこまれるからである。化粧をした女性は童顔に見えるので,こどもっぽい性格をそなえているとうけとられる。

レズリー・A・ゼブロウィッツ 羽田節子・中尾ゆかり(訳) (1999). 顔を読む:顔学への招待 大修館書店 pp.301-302

美貌と童顔

人を顔の固定観念にあてはめて判断すると,ほんとうに視野がせまくなり,とりわけ,性格特性を見抜けなくなる。美貌と童顔に目をくらまされるのである。美貌と童顔から得られる性格の情報はあてにならないのに,この特性にばかり目がいくので,判断に役立つ情報を見のがしてしまうのである。顔のほかの特性からこのような情報が得られるかどうかは未解決の問題であり,人相学者を嘲笑するまえにさらに研究を重ねる必要があろう。顔の固定観念が正しい印象を妨げるのは困ったことだが,それにもましてよくないのは誤った印象を助長することである。

レズリー・A・ゼブロウィッツ 羽田節子・中尾ゆかり(訳) (1999). 顔を読む:顔学への招待 大修館書店 pp.289

相関を引き出す能力

感知する側が容貌と性格の相関関係を学習するのに多くの体験を必要とするとは思えないので,真の相関関係をみわける能力にはまた別の理由があるのではないかと思われる。利用できる多数の情報のなかからある相関関係をひきだす能力が進化的にそなわっているのかもしれない。このような選択のメカニズムがなければ多くの不適切な相関関係をひろいだしてしまうであろうし,目で見て学習するのでは正しい認知をうることができない。ある相関関係にたいする生得的な備えは,直接しめされたもので事例が少なすぎて学習できない容貌ー性格関係を性格に見分けるにも重要である。たとえば,クレチン病の身体的発現と精神的発現との相関関係は,この病気の患者を目にして学習されることはないと思われる。この病気はひじょうに珍しいからである。この病気について教わったことのない人がこの相関関係を認知できるとしたら,それはなんらかの生得的な備えがあったと考えていいだろう。人は容貌と行動の関係を認知できるようにできているという説を支持する証拠は,古典的な条件づけをつかった研究からもえられている。それによると,表情はおとなにもこどもにも同じくらいの誘発性をもつ事象とむすびつけられやすい。たとえば否定的な事象は幸せそうな顔よりおびえた顔や怒った顔とむすびつけられやすい。

レズリー・A・ゼブロウィッツ 羽田節子・中尾ゆかり(訳) (1999). 顔を読む:顔学への招待 大修館書店 pp.83-84

理論的基盤

現在利用できる証拠からうかがえるように,われわれが顔に性格特性を読む理由は,それらが正しい情報を提供しているからであるが,性格特性の人相学的手がかりについては研究による証拠がかなり不明瞭であり,面識のない他人の性格を正確に読めるような顔の特性を知ることは今後の課題である。これまでの研究にいちじるしく欠けているものは,容貌のどの特性がどの性格を伝えるかを予言するための理論的基盤である。たしかに人相学者はこうした理論を提供してこなかった。彼らがもたらしたのは理論的一貫性のない大量の主張ばかりであった。統一的な理論では2つの問題に取り組まねばならない。(a)さまざまな性格がなぜ容貌にあらわれるのか,この説明からどんな顔ー性格結合が予言されるのか,そして(b)人はこの関係をどうやって見分けるのか,である。

レズリー・A・ゼブロウィッツ 羽田節子・中尾ゆかり(訳) (1999). 顔を読む:顔学への招待 大修館書店 pp.76

目の色と気質

小学校の教師も青い目の子と褐色の目の子の気質の違いに気づいている。幼稚園から3年生までの133人の教師に,クラス一臆病で,内気で,抑制されたコーカサス人種の子を一人選ぶよう求めたところ,選ばれた子どもの60パーセントが青い目であり,その集団から無作為に選んだら生じるはずの50パーセントをこえていた。また教師にクラス一社交的,外向的で,抑制のないコーカサス人種の子を選んでもらうと,褐色の目の子が母集団での割合より多い。青い目のおとなと褐色の目のおとなの違いについては証拠が混乱しているが,青い目の人のほうが行動の抑制が多いようである。目の色と性格との相関関係から,前に論じた外向性の判断の正確さは,判断される人のカラービデオやカラー写真をみた場合に強められるであろうと思われる。もちろん,判断する人が,知らない人の外向性を判断するのに目の色という確実な手がかりをつかうとすればであるが。

レズリー・A・ゼブロウィッツ 羽田節子・中尾ゆかり(訳) (1999). 顔を読む:顔学への招待 大修館書店 pp.73

外向性と外見

外向性の確実な手がかりには魅力,メーキャップの使用,流行の髪型のほか,頻繁に頭を動かすこと,自信のある人なつこい表情,そして微笑む時間が長いことが含まれる。これらの特性は,ある人がどれほど外向的だと自己評価しているか,他人にどの程度外向的だと思われているかの両方に関係している。自己評価と他人による評価との相関はすべての手がかりについて中程度であった。愛想のよさはある目鼻立ちによって正確に伝えられるが,別の手がかりは判断を誤らせ不正確な判断を促す,という証拠もある。愛想のよさの確実な手がかりは魅力的な洗練された容貌,ソフトな目鼻だち,童顔,および人なつこい表情などである。誠実さの確実な手がかりには魅力的な洗練された容貌と短い髪がある。魅力的で洗練された容貌はまた,人なつこい表情とともに感情的安定性にも確実な手がかりをあたえる。これまで評価された顔の特性には,5大特性の残りの1つ,教養を正確に伝えることがわかったものはない。しかし,自信のある表情は知性を正確に伝えるし,魅力はセックスパートナーとしての可能性を正確に伝えると思われる。

レズリー・A・ゼブロウィッツ 羽田節子・中尾ゆかり(訳) (1999). 顔を読む:顔学への招待 大修館書店 pp.70-71

知性

正確に見分けることが役に立つと思われるもう1つの性格特性は知性である。だれの助言に従いだれの助言を避ければいいかを知るのに役立つからである。この性格についての研究は多くはないが,初期の研究は,顔写真にもとづいた管理職者の知性の評価とその管理職者のIQの得点のあいだに中程度の関連があることをあきらかにした。しかしこの関係は,IQ得点分布のいちばん上といちばん下の管理職者については推定なので,過大評価されているかもしれない。より新しい研究では,IQ値がやや広い範囲にわたる人々の場合も知性の判断は中程度に正確であることがわかったが,正確にするには判断する人に無声映像より音のある映像を見せる必要がある。容貌が知性を正確に伝えるかどうかという問題を解決するにはさらに研究が必要である。

レズリー・A・ゼブロウィッツ 羽田節子・中尾ゆかり(訳) (1999). 顔を読む:顔学への招待 大修館書店 pp.67-68

外向性と優位性

外向性の判断と同様に優位性の判断はかなり正確であるが,これはおそらくこの2つの性格が近い関係にあるためであろう。だれがだれより「強い」かというこどもたちの判断では賢いとか格好いいとかいう他の属性の判断にくらべて合意が早くから発達し,強い合意がみられる。これは,優位性を認知することに進化上の適応価値があるとする機能主義者の立場と符合する。だれがだれより強いかという判断は他の性格の判断より正確である。これは,強さの判断が判断される人の自己評価と一致することからもわかる強い効果である。もちろんこどもたちはまったく面識のない人について判断したのではなく,容貌の情報と行動の情報があたえられていた。また,別の研究では,知らない人の優位性にたいするおとなのはんだんがかなり正確であることがしめされている。われわれは見ただけでリーダーがわかる。

レズリー・A・ゼブロウィッツ 羽田節子・中尾ゆかり(訳) (1999). 顔を読む:顔学への招待 大修館書店 pp.65-66

外向性

5大特性のうち外向性はかなり正確に判断される。どれほどおしゃべりか,率直か,大胆か,社交的かといった外向性の判断には中程度の合意があるばかりか,一部の判断には確証がある。知り合いがいない場面で外向的とみなされる人は,おしゃべりだったり,にこにこしていたり,ゼスチャーが多かったり,情熱的だったりなど,外向的な行動をしめす傾向が中ないし強である。また,友人や本人が外向的だと判断する傾向も中程度である。さらに,外向的,友好的であるという自己評価そのものが外向的行動の的確な反映であるようで,自由な会話や質問責め,ほほえみや笑いや冗談をはじめる頻度について中ないし強の予言がみられる。

レズリー・A・ゼブロウィッツ 羽田節子・中尾ゆかり(訳) (1999). 顔を読む:顔学への招待 大修館書店 pp.64-65

タイプA・Bと表情

最近わかった例では,男性の斑紋状のはげと心臓病とは関係があり,これはマスコミで広く紹介された。またある顔の手がかりは,冠動脈疾患の傾向のある人を見つけるのに役立つことがある。こういう人はタイプAとよばれ,ひじょうにエネルギッシュで,敵対的で,競争心が強い。彼らは交通渋滞にまきこまれるといらいらして警笛を鳴らし,仕事をまちがえた部下をどなりつける人である。反対にタイプBの人は「流れに逆らわない」傾向が強い。この2つのタイプの人々は特徴的な表情によって区別することができる。タイプAの人はタイプBの人にくらべて,眉を下げ,上まぶたを上げ,下まぶたをひきつらせて,インタビューする人をにらみつけることが多い。また顔に嫌悪の表情をうかべていることが多い。

レズリー・A・ゼブロウィッツ 羽田節子・中尾ゆかり(訳) (1999). 顔を読む:顔学への招待 大修館書店 pp.54-55

四体液・四気質説

殺人犯で食人性の性犯罪者であるジェフリー・ダーマーの裁判中,ミルウォーキーの住民は34ある傍聴人席の1つを確保しようと,午前2時から行列をつくった。彼らが睡眠を犠牲にしたのは,ダーマーの犯罪の残虐な詳細を聞くためではなかった。それならテレビやラジオでも聞けるからだ。そうではなくて,人々はこういう凶悪な犯罪を犯す男の顔が見たかったのである。情緒的適応は容貌にあらわれるという見方には長い歴史がある。古代ギリシャ医学の四主液(血液,黄胆汁,粘液,黒胆汁)説では,鬱病患者は黒胆汁が過剰であり,むくんでいて色が浅黒いと書かれている。黒胆汁が多いためにおこるその他の病気にはヒポコンドリー(心気症),てんかん,ヒステリーがあり,その1つ1つが特定の肉体的な兆候と結びつけられていた。

レズリー・A・ゼブロウィッツ 羽田節子・中尾ゆかり(訳) (1999). 顔を読む:顔学への招待 大修館書店 pp.49-50

自制心の向上

前述したように,自制心は「生まれつきのものであり,努力しても高められない」と誤解されています。しかし,自制心は筋肉と同じように鍛えられます(逆に,鍛えなければ弱まります)。最新の研究では,日常的な鍛錬(「エクササイズをする」「家計簿をつける」「食事の内容を記録する」など)によって,自制心が総合的に強化されることがわかっています。2週間,毎日エクササイズをした被験者が,健康面での向上だけでなく,「流しに食器を溜めない」「衝動的な買い物をしない」などの他の面での自制心の向上を示したのです。

ハイディ・グラント・ハルバーソン 児島 修(訳) (2013). やってのける:意志力を使わずに自分を動かす 大和書房 pp.26

自尊心は結果

それどころか,著名な心理学者であるフロリダ州立大学のバウマイスター教授らが過去の研究をまとめた丁寧なサーベイによって,「自尊心が高まると学力が高まる」というそれまでの定説は覆されました。バウマイスター教授らは,自尊心と学力の関係はあくまで相関関係にすぎず,因果関係は逆である,つまり学力が高いという「原因」が,自尊心が高いという「結果」をもたらしているのだと結論づけたのです。

中室牧子 (2015). 「学力」の経済学 ディスカヴァー・トゥエンティワン pp.46

テストに対する意識類型

最後に,現在のテスト研究者の,テストに対する意識と態度の典型を便宜的に4つに分類してみよう。分類そのものに意味はないにしても,テストをめぐる議論の争点がある程度明確になると思われるからである。第1はテストの無条件肯定派ともいうべきものである。心理学者は心理テストを通じて社会に貢献しうると信じて疑わず,もっぱら技術的改善にのみ専心している。したがって(3)でふれたいわゆる心理技術者たちも当然このカテゴリーに入ることになるだろう。第2は良心的改良派ともいうべきもので,現在の心理テストの状況が理想的なものとみなしているわけではないが,それは努力によって改善しうるとして,テストの本質そのものを否定するわけではない。心理テストの規制や規範作りにも熱心である。いわゆるリベラルな人たちだが,しばしば現実認識が甘く,楽観的すぎる。したがって,結果的には第1のタイプとはっきり区別することが出来なくなってしまう。第3は条件付肯定派と言ってよいだろうか。現行のテストの弊害は当然認めるが,心理テストをすべて否定するのではなく,精神発達の段階を測定する技術として一定の評価をするという立場である。いわば集団における個人の相対的位置づけではなく,個人の変化そのものを測定しようということである。第4に,懐疑的否定派が存在する。心理テストの存在を社会的連関において捉えようとする場合,その管理的,抑圧的本質を意識せずにはいられないとする。また,社会的に中立な心理的技術など信じようとしない。私自身は第3の立場に関心を持ちつつも,現状ではこの第4の立場に組せざるを得ないと思っている。

日本臨床心理学会(編) (1979). 心理テスト・その虚構と現実 現代書館 pp.365-366

投影法研究

投影法の存在が一般に広く知られ,実用化の試み,日本版の作成の試みなどがなされるようになったのは,昭和20年代後半から30年代前半にかけての時期であった。『ロールシャッハ研究』が初めて刊行されたのも,昭和33年(1958年)のことである。なかでも,1958年から59年にかけて刊行された『心理診断法双書』全3巻は,戦後の日本での投影法研究のその時点における集大成ともいうものであった。そのうちの1巻はTATにあてられ,木村駿氏によれば,
 「1959年,戸川を中心としてTATの大冊が心理診断法のうちの1冊として公刊された。これはTAT概観,実施法と分析法,臨床的適用,実験的研究,類似法の各領域にわたり,わが国の主なTAT研究者たちの研究成果の集大成といえるもので,日本のTAT研究史上に一時期を画したものといえよう」

日本臨床心理学会(編) (1979). 心理テスト・その虚構と現実 現代書館 pp.351

知能指数に至らなかった理由

さて,ビネーは,精薄成人について「白痴は2歳以下,痴愚は7歳以下,魯鈍は10歳以下」という操作的定義を行っているのだが,これでは(成人以前の)精薄児の種類わけには不十分なはずである。そのためには,生活年齢と精神年齢との相対比が問題にならなくてはならない。ところが,ビネーは,この相対比をあらわす知能指数を思いついていない。これについては再論するが,ビネーは,その必要性を示唆することなく,「2年にあたる知能遅滞はどのばあいもひじょうに重大な遅滞兆候であると考えている」といい切っている。
 ここでは,その事情について考えてみよう。彼の最初の関心は,正常児と異常児とを区別することであった。「小さなエルネスト」らのところで述べたように,特に,学力不振児の中の「精神薄弱児」を発見することだった。さらにいえば,文部省の要請もそこにあったのだが,「精神薄弱児」ではない学力不振児を間違って特殊学級に入れてしまわないようにすることだった。
 つまり,同一生活年齢集団=同一学年集団であり,その集団は同様の知的レベルからなる集団であり,また,そうあるべきだ,という前提にたって,そこでの例外者(特に「精神薄弱」)を発見することが要請されたのである。この中で彼は,「1年にあたる知能遅滞」では「精神薄弱」と言い切れなかったが「2年にあたる知能遅滞はどの場合も」「精神薄弱」であるといってさしつかえないと考えた。
 こうして「精神薄弱児」を排除することによって,その集団に対する教育課程,教育方法を統一することが出来,教育効果を最大限にすることができると考えたのである。繰り返せば「2年にあたる知能遅滞」児は「どの場合も」(つまり,いずれの年齢集団においても)当該の学年集団にまったくふさわしくないということで「精神薄弱児」とよばれ,それ故に普通学級から特殊学級などに排除されていったのである。
 知能指数概念が思いつかないですんだ事情はここにあったといえよう。ついでだが,1908年に発表された知能測定尺度は,1905年尺度に比較して「年齢段階」をさらに明確化した。1908年尺度では3歳から13歳にわたって年齢毎の正確な目盛りをつけ,しかも,1905年尺度にあった「白痴」の水準を知る問題を削除した。さらに1911年に改訂された尺度では,15歳用,成人用が附加されたのである。ビネーの関心が「精神薄弱」とふつう児との区別ということに加えて「優良児」の選別,ランキングということにも移っていったことがわかる。

日本臨床心理学会(編) (1979). 心理テスト・その虚構と現実 現代書館 pp.265-266

類型化の必要性

Y-G検査は人間をその類型において把えるのではなく,その「特性」を問題にしているテストであったはずである。そこでは人間の日常的なふるまいや,感じ方の傾向を分析的に把えようとしていたはずであった。そして,日常的なふるまいや,感じ方に「価値」は直接関係ないはずであった。
 しかし,現実のY-G検査はその「類型」を売りものにせざるをえなかった。しかも,この「類型」はテストを利用する側の事情に基づいて,はっきりと価値づけられていたのである。
 皮肉なことに,「特性」を測るテストは「特性」にこだわっているかぎり,「有効な」テストとはなり得ないのである。
 「特性」が問題になるのは「類型」ですそ切りをして,残った人々(ある種のパスポートを手に入れた人々)を効率的に処遇しようとする場合である。職業指導などにみられる特性—因子論的な立場などがまさにこれである。
 このように,「特性論」に基いているテストによって,人間が「類型化」されることがまやかしでなくて何であろうか。しかも,この「類型」は「適応」レベル——「不適応」レベルといった形ではっきりと「序列化」されているのである。だから,私たちもまた,そうした「序列」を意識せざるを得なくされているし,また,ひとたび「類型化」された人間像はそれ自身が自立してしまって,個人的事情は無視され,個人を乗り越えてしまう。
 Y-G検査は人間の「格づけ」を行ないつつ,それを可能にする論理や倫理を私たちに強制しているのである。

日本臨床心理学会(編) (1979). 心理テスト・その虚構と現実 現代書館 pp.257-258

科学性の権威

テスト業者がしばしばPRのために強調するのは,権威のある偉い大学の先生が作ったもの,コンピュータを使って厳密な統計処理をへて作ったもの,採点などが自動処理化されていて使いやすいこと,等々であることを考えれば,「科学性」の底の浅さはすぐあらわになるものといえる。
 しかし,それを打破することは指摘するほど簡単なことではない。「科学性」の権威は何重にも保護されているからである。

日本臨床心理学会(編) (1979). 心理テスト・その虚構と現実 現代書館 pp.210

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