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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「パーソナリティ・個人差」の記事一覧

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問題のある回避行動

問題になる回避行動にはふたつのタイプがある。「喜びを避ける行為」と,「苦痛を避ける行為」だ。喜びを避けることなんてあるのだろうか,と思うかもしれないが,「面白いことを楽しめない人」が皆さんの周りにいないだろうか(もしかしたらあなた自身かもしれない)。そういう人は,楽しいことがあっても,ほかにもっと有益な時間の使い方があるのではと思ってしまう。幸運を祝うと悪いことが起きるのではと不安になる人もいる。自分の誕生日や昇進を祝ったり,あるいはいい体操教室には入れたことを喜んだりすることさえ,自分本位で他の人をないがしろにしているように思えて心配になる。

トッド・カシュダン,ロバート=ビスワス・ディーナー 高橋由紀子(訳) ネガティブな感情が成功を呼ぶ 草思社 pp.30-31
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自己検閲

gという概念のおかげで,デビッド・ウェクスラーは正しい道筋を進んでいたことが裏づけられた。とても喜ばしいことだ。先進国で重んじられる分析的知能の個人差を測るための,現在のところもっとも優れた手段であるウェクスラー知能検査は,gによって理論的な裏づけを得たのだ。アメリカだけが先進国ではない。地球上のほぼすべての国が先進国をめざしている。また,分析的知能の価値がはるかに低い世界でも,gを使えば分析的知能に応じて個人をランキングすることができる。社会経済的地位という概念は,南アメリカ南端部にあるティエラ・デル・フエゴ州の住民にとっては大した意味はないが,社会学者にとってはとても重要だ。それと同じこと。生涯をかけて困難に立ち向かい,gの概念を生み出したアーサー・ジェンセンに,心理学者は感謝しなければならない。ジェンセンは才能にあふれていただけでなく,ときに科学的というより政治的な批判に立ち向かう勇気ももちあわせていた。もし私が学問に大きな貢献を果たしてきたとしたら,それはほぼすべて,ジェンセンが示したたったひとつの問題を踏まえたものでしかない。
 ジョン・スチュアート・ミルの本を読んでほしい。ある考え方を封じこんだら,将来そこから生まれるあらゆる議論の芽を摘みとってしまう。人類の思想史を自分の都合で検閲できると思いこんでいる者たちよ,よく耳を傾けるがいい。

ジェームズ・R・フリン 水田賢政(訳) (2015). なぜ人類のIQは上がり続けているのか?人種,性別,老化と知能指数 太田出版 pp.195

gとは

gを認知能力全般の指標ととらえることは,弊害が大きい。その認識は広まりつつある。第一に,gを利用するにしても,社会的な考え方を忘れてしまってはならない。人が社会的に成功するための認知能力や個人的特性は,分析的知能だけではないのだ。
 第二に,時代による認知能力の変化の歴史を理解するうえで,gはまったくあてにならない。gの意味をけっして忘れてはならない。gは認知的複雑性の指標だ。現代社会の進歩によってさまざまな知的能力が上がっていくのはなぜか?数ある知的能力のうちどれが上がっていくかが,各能力の認知的複雑性の程度によって決まるといった,なんらかのしくみがあるからかもしれない。だがそのようなしくみがないと知的能力は上がっていかない,と考えるのは間違いだ。もしそのようなしくみがあったとしたら,IQの上昇はgの上昇と等しくなるだろう。しかし,社会がどんな能力を求めるかが,そのような奇妙なしくみに従うだろうか。このことからわかるように,たとえgが上がっていなくても,IQの上昇には社会的な意味があるのだ。
 第三に,人種によるIQ差を理解するうえでgは役に立たない。g負荷量の高い下位検査ほど人種間のIQ差は大きいが,そこから,その差は遺伝のせいなのか環境のせいなのか判断がつかない。環境が同じだと仮定しても,複雑な課題ほど集団間の差は大きくなるのだ。

ジェームズ・R・フリン 水田賢政(訳) (2015). なぜ人類のIQは上がり続けているのか?人種,性別,老化と知能指数 太田出版 pp.193-194

社会に目を

知能の研究は,社会学的想像力が欠けているせいで前に進んでいないと思う。どうしたことか心理学者は,自分の研究成果を説明する社会的シナリオを無視することに慣れきっている。そして,社会的側面が抜け落ちた,的はずれな心理学的モデルを好みがちだ。人の知能の心理的側面とその他の側面を統合したうえで,脳生理学を使うべきなのだ。でもここに危険が潜む。往々にして,ふたつを統合するのでなく,還元主義になりかねない。知能の心理的側面を脳の活動へ求めること自体は,価値がある。だが心理学者はそれにとどまらず,人の知能の心理的側面を完全に無視しようとしている。問題を解いているのは人の知性なのに。社会学と心理学を無視して,生理学だけをとり上げる——こんなアプローチをしていたら,知能の研究はますます廃れていくだろう。

ジェームズ・R・フリン 水田賢政(訳) (2015). なぜ人類のIQは上がり続けているのか?人種,性別,老化と知能指数 太田出版 pp.193

それは知能と呼ぶべきか

ハワード・ガードナーはハーバード大学で認知・教育学の第一人者である。ガードナーは,知能は単一ではなく複数あるという「多重知能(MI理論)」を提唱し,言語的・論理数学的・音楽的・空間的・身体運動的・内省的・対人的という7つの知能をあげた(Gardner, 1983)。これらをすべて知能と呼んでいいのかどうか,研究者は科学的な見地から厳密に調べるべきだ。もしかしたら,モーツァルトがさまざまな音楽的「アイデア」を集約して作曲した行為は,アインシュタインがさまざまな空間的・時間的概念を集約して相対論をつくった行為と似ているのかもしれない。もしそうなら,音楽的能力と論理数学的能力のあいだにはこれまで考えられていた以上に共通点が多いのかもしれない。バレエダンサーの見事な身のこなしの知的側面も見落とされているのかもしれない。もしこれらになんらかの共通点がありながら,いままで見過ごされてきたのだとしたら,それらをすべて知能と呼んで人目を引くのは効果的なやりかただろう。
 だが,この理論をこんなふうに取り上げた人はひとんどいない(この説を手放しで信じる人があまりに多いのは,もちろんガードナーの責任ではない)。この7つの能力を「知能」と呼んでいいのかという問題は,能力の違い(スポーツは得意だが勉強は苦手など)によって子供を区別していいのかという倫理的な問題にすり替えられてしまった。そのうえ拡大解釈されて,7つの能力すべてで劣っていても,その人なりにできることにもとづいて評価すべきかどうかという問題まで示されるようになった。
 この倫理的問題に対する私の答えは「イエス」である。しかし,言葉遊びで社会的現実をねじ曲げてはならないと思う。専門家にふさわしい種類の「知能」で90パーセンタイルの位置にいれば何千もの道が開けるが,ソフトボールで90パーセンタイルの位置にいてもそうはならない。それが社会の現実で,親なら誰しも知っていることだ。自分の子供は「身体運動的知能」では高いパーセンタイル順位にいるが,それ以外の知能はさほどでもないと聞かされたら,親はどう思うのだろうか?

ジェームズ・R・フリン 水田賢政(訳) (2015). なぜ人類のIQは上がり続けているのか?人種,性別,老化と知能指数 太田出版 pp.182-183

ディケンズ=フリン・モデル

そこに,ディケンズ=フリン・モデルによって社会学的側面がくわえられて一気に見通しがよくなった。以前にくわしく説明しているので(Flynn, 2009c),ここでは軽く触れる程度にしたい。
 ある一組の一卵性双生児を考えてみる。一卵性双生児は遺伝子が同一なので,2人とも平均より背が高く俊敏だ。別々に育てられたが,どちらもバスケットボールをよくやって,小学校と高校でチームをつくり,プロの指導を受ける。同一の遺伝子をもつ2人が,同一のバスケットボールをする環境を手にすれば,18歳になったときのバスケットボール能力指数は同じになるだろう。そして,たとえ環境要因がきわめて強力だとしても,双子の研究ではそれは見過ごされてしまうだろう。
 遺伝率は,双子のIQが同じかどうかだけで見積もられている。知能遺伝子が同一であることばかりが注目され,どちらも同じように環境から恩恵を受けたいという点は見向きもされない。宿題をやる,よい意見をもらえる,学校を好きになる,優等クラスに入る,最高の教師に教わる——そうした影響力は完全無視だ。生まれてすぐは小さかった遺伝の差も,正のスパイラルまたは負のスパイラルに入り,歳を重ねるにつれて能力差がどんどん広がっていくのだ。
 ディケンズ=フリン・モデルでは,このスパイラルを「個人倍率器」と呼ぶ。クレア・ハワースらは,この個人倍率器の考え方に触発されて,年齢とともに遺伝率が上がっていく原因を説明している(Haworth et al., 2010)。ハワースらは1万1000組の双子を調査し,IQ差のうち遺伝の占める割合が,9歳では0.41だが,17歳では0.66まで上がることを発見した。「その答えは遺伝子型と環境との相関性にあると考える。子供が成長するにつれ,しだいに,自分の生まれつきの傾向をいくぶん考慮して,自分の経験を選択し,修正をくわえ,さらにはつくりだしていくのだ」(p.112)
 ディケンズ=フリン・モデルには「社会倍率器」という考え方もある。それまでは,環境によって集団間の大きなIQ差が生みだされるメカニズムを論じるときには,奇想天外なX因子の存在がなければならなかったが,この社会倍率器の概念によって不要になった。社会倍率器の考え方はこうだ。テレビの発明によってバスケットボールへの関心が高まると,平均的な能力がどんどん上がっていく。はじめにパスやシュートがうまくなり,誰もがそれに遅れまいとついていこうとする。誰かが片手でパスをしはじめて一歩リードすると,誰もがそれについていかざるをえなくなる。そして次に,誰かが片手でシュートを打ちはじめてさらに先んじると,誰もがそのレベルに追いつこうとする。こうして背の高さや俊敏さをもたらす遺伝子はまったく変化しなくても,一世代のなかでバスケットボールの能力はとてつもなく上がっていくのだ。

ジェームズ・R・フリン 水田賢政(訳) (2015). なぜ人類のIQは上がり続けているのか?人種,性別,老化と知能指数 太田出版 pp.174-175

多面的な相対性

gにこだわる人に駄目押しをしたい。一個人の行動は,ひとつの知性によって統合されている。したがって,2人の知能検査の成績を比較するときには,ふたつの知性を比較していることになる。知性が優れているほうは幅広いあらゆる認知的作業,またはほとんどの認知的作業をうまくこなすだろう。そうして生まれる「多面的な相関性」こそが,gの根源にほかならない。また,幅広い認知的作業の能力を集団間で比較するときには,ふたつの知性の集団を比較していることになる。作業の複雑さに応じて体系的に能力が違っていたら,ふたつの集団間でgの平均値に違いがあるかもしれない。さらに,族外婚や栄養状態の改善によってひとつの世代が恩恵を受ければ,「より優れた脳」に関する差もあるかもしれない。

ジェームズ・R・フリン 水田賢政(訳) (2015). なぜ人類のIQは上がり続けているのか?人種,性別,老化と知能指数 太田出版 pp.172

gの重要性

gが重要なのは,それが認知的複雑性の指標だからである。この前提に立てば,IQ上昇がgと相関関係にないことの意味を理解できる。つまりIQ上昇を「より複雑な認知的作業を簡単にこなせるようになってきたか」という意味で考えたとき,人間の知性は時代とともに変わってはいないということだ。
 なぜか?語彙の獲得は認知的複雑性の高い作業である。だが,子供たちの言葉づかいを伸ばそうと社会が求めなければ,<単語>下位検査のIQは大して上がらないだろう。分類は語彙を増やすよりも認知的複雑性が低い。しかし生きていくうえで,理解のために物事を分類することが求められるなら,<類似>下位検査のIQは大きく伸びるだろう。そういうわけで,作業の相対的な認知的複雑性(相対的なg負荷量)はIQ上昇とは関係ない。認知的に複雑な作業に取り組む能力の絶対的指標,いわば知能の絶対的指標を見つけることにしか関心がなかったら,そこには目が向かない。そして,IQの上昇とgを関連づけることはできないのだから,「空虚」として無視してしまう(Jensen, 1998)。だがこうした態度は,計量心理学にとりつかれて社会的な意味が見えていない,なによりの証拠だ。

ジェームズ・R・フリン 水田賢政(訳) (2015). なぜ人類のIQは上がり続けているのか?人種,性別,老化と知能指数 太田出版 pp.171

視力検査も相対的

視力検査は相対的な測定でしかない。視力1.0とは,平均的な人が5メートルの距離から見える記号を同じ5メートル離れた位置から見ることができるという意味だ。目の機能がまだよくわかっていなかった時代でも,メガネをかければ視界がよくなることはわかっていた。また,第二次世界大戦中のの連合国と枢軸国の戦闘行為を測る絶対的な指標もなければ,ましてや戦闘行為を生理的レベルまで還元するなんて逆立ちしたって無理だ,それでも戦争の勝者はわかっている。同様に,物事を分類する能力や論理を使って仮定をとらえる能力の絶対的指標も存在しない。それでも戦争の勝者はわかっている。同様に,物事を分類する能力や論理を使って仮定を捉える能力の絶対適しヒョイ雨も存在しない。それでもどちらの能力も1900年当時の祖先より現在の私たちのほうがはるかに優れていることはわかる。

ジェームズ・R・フリン 水田賢政(訳) (2015). なぜ人類のIQは上がり続けているのか?人種,性別,老化と知能指数 太田出版 pp.169

明らかになること・ならないこと

ジェンセンは,知能を脳や神経系内の現象としてとらえた。だがそれは,心理学的な外向性を生理現象と考えるくらいばかげている。どんな人が外向性かを生理学的に説明できるかもしれないが,それは,その生理現象が「他人と社交的に交流すること」と定義した外向性と相関しているからだ。「外向性」という言葉を脳内の現象で定義したら,その脳内の現象はその脳内の現象と相関していることになり,単なる同義反復だ。ジェンセンもそこまでかたくなではない。脳のある状態を,知能的行動とみなせる人間行動と関連づけて,知能の生理学的な根拠としているのだ。たとえば,脳のある生理現象が,物事をうまく速く学べるかどうかと相関している,という具合だ。
 この間違った定義が次の間違いの引き金になっていなければ,単なる言葉づかいの問題として片付けることもできた。だがこうした還元主義は,物事の意義や説明についての信念を見誤らせてしまう。生理学がどれだけ成功をおさめようとも,人間の行動は生理学の用語だけで説明しつくせやしない。あるバスケットボール選手が,残り1秒で決勝点のスリーポイントシュートを決めたとしよう。生理学に長けていれば,その選手の体の動きとボールの軌道を予測できるだろう。ただし社会学的な側面を無視するかぎり,この行動をほんとうに理解したことにはならない。なぜなら,バスケットボールが存在しなかったら,そもそもボールをリングに入れて勝敗を競ったりしないだろうし,その選手はチームのエースだから最後のシュートを任されたのかもしれない。こうしたことは,生理学では明らかにできないのだ。

ジェームズ・R・フリン 水田賢政(訳) (2015). なぜ人類のIQは上がり続けているのか?人種,性別,老化と知能指数 太田出版 pp.167-168

相対尺度

要するに,IQはあくまでも相対尺度ということだ。平均的な人(IQ100)より正答数が多い人もいれば少ない人もいる。そこで,年齢ごとにパーセンタイル順位をつける(84パーセンタイルであればIQは115となる)。いっぽう身長は絶対尺度である。この世にたったひとりでも身長は測れる(たとえば180センチ)。現代人が昔よりも15センチ背が伸びていれば,実際にそれだけ高くなっているのだ。だが,同じ知能検査を受けて現代人の正答数が多かったとしても,ひょっとしたらその原因は実際の認知能力の上昇とはまったく関係ないかもしれない。

ジェームズ・R・フリン 水田賢政(訳) (2015). なぜ人類のIQは上がり続けているのか?人種,性別,老化と知能指数 太田出版 pp.166-167

IQ値の特徴

(1)gは,認知的複雑性と相関していないとしたら興味の対象にならない。(2)課題の複雑さに順位があると考えるなら,能力の劣る対象は「複雑性の限界」にぶち当たる傾向があり,複雑な課題になればなるほど,能力の劣る集団との差がひらいていく。(3)IQと関連のある特性の遺伝率は課題が複雑になればなるほど高まる。(4)したがって,集団間の能力差が遺伝率と相関していても,そこから集団間の差の原因についての手がかりは得られない。(5)能力の劣る集団が優る集団との差を詰めているとき,複雑な課題であればあるほどその上昇値が小さくなる傾向がある。1972年以降,黒人のIQは白人に5.50ポイント近づいているが,GQは5.13ポイントしか近づいていない。(6)最近の学力検査からもIQが上昇していることは裏づけられるが,データ全体を見ると,黒人のIQの傾向は学力達成度の傾向と一致しない。(7)フリン効果は,人種によるIQ差が環境にあるという証明とは無関係だが,議論の見通しをよくしたという点では歴史的な価値がある。
 (5)について少し掘り下げよう。1972年以降,黒人は白人との差を詰めている。その値を下位検査ごとに見ていくと,下位検査のg負荷量とわずかだが負の相関が見られる。とはいえ,上昇しているという事実を無視していいわけではない。どの下位検査でも,黒人は認知的複雑性の高い課題で白人との差を詰めている。先ほどのバスケットボールの例にあてはめて考えてみよう。シュートの種類を難易度順に並べてみる。全種類のシュートの上達具合で他チームとの差を詰めたチームは,たとえ難しいシュートほど技術差が縮まっていなかったとしても,全体から見ればシュートの技術差はたしかに縮まっている。能力の劣る集団が勝る集団との差を縮めだしたときには,複雑な課題よりも簡単な課題のほうがかならず大きく向上するのだ。

ジェームズ・R・フリン 水田賢政(訳) (2015). なぜ人類のIQは上がり続けているのか?人種,性別,老化と知能指数 太田出版 pp.146-147

サンプルとの比較

つまり個人のIQを補正するなんて暴挙だと言いたいのだろうが,IQの何たるかをまったく理解していない人の主張だ。集団,つまり標準化サンプルと比較しないかぎり,個人のIQは計算できない。だから標準化サンプルに不備があると,偏りが生じて,個人か集団かに関係なく間違ったIQが出てしまうのだ。

ジェームズ・R・フリン 水田賢政(訳) (2015). なぜ人類のIQは上がり続けているのか?人種,性別,老化と知能指数 太田出版 pp.97-98

同年齢比較

個人のIQを計算するには同年齢の人と比べなければならない。というのも,6歳児の成績が12歳児と同じだとは考えられないし,70歳の成績が35歳と同じだとも思えないからだ。もっと言えば,同時代の同年齢でなければならない。すでに話したとおり,知的障碍であっても,昔の人に比べれば成績がいいかもしれない。なぜなら平均的なアメリカ人のIQが20世紀のあいだに30ポイント上昇しただけれなく,知能指数分布も全体にわたって同じように上昇しているからだ。

ジェームズ・R・フリン 水田賢政(訳) (2015). なぜ人類のIQは上がり続けているのか?人種,性別,老化と知能指数 太田出版 pp.87-88

知能指数と知能検査

知能指数を丸呑みしてはならないからといって知能検査の質が悪いわけではない。ただ,知能検査を受けるだけで,人を天才とか,正常とか,知的障碍に分類できると考えるのはもってのほかだ。分類するなら標準化された検査を使う。これが鉄則だ。そして誤った結果にならないように定期的に標準化作業をする。
 知能指数の意味することと知能検査そのものとはまったく別物だ。知能検査を使えるようにするには,標準化のためのサンプル——対象範囲内の全年齢の人——に検査を受けさせなければならない。くり返すが,定義上IQ70は人口の下位2.27%にあたり,知的障碍にあたる。もしIQ70が下位2.27%(統計学的に言えば,平均値より標準偏差ふたつ分下)と一致しない場合,その知能指数は信頼に値しない。

ジェームズ・R・フリン 水田賢政(訳) (2015). なぜ人類のIQは上がり続けているのか?人種,性別,老化と知能指数 太田出版 pp.85

昔と比べれば

先進国と途上国の競争はいまも続いている。途上国は経済発展と平均IQの上昇を果たし,いずれ先進国に追いつくのだろうか?それはおそらく,エネルギー,公害,水,食糧,人口といった喫緊の問題を解決できるかどうかにかかっている。さらに,気候,地理,市場,資源不足のせいで苦しんでいる国もある。けれども,彼らの秘めたる能力が遺伝子の制約を受けることはないと思う。つねに証拠にもとづいて社会動向を注視しているリンいわく,先進国と途上国のIQのひらきは今後縮まるかもしれない(Khaleefa et al., 2008)。
 忘れないでほしい。ほとんどの途上国のIQは,現在の標準にもとづいて計算した1900年当時のアメリカの平均よりも高いのだ。

ジェームズ・R・フリン 水田賢政(訳) (2015). なぜ人類のIQは上がり続けているのか?人種,性別,老化と知能指数 太田出版 pp.82

より現代的

さて,本書の冒頭であげた問いに戻ろう。IQの著しい上昇は,私たちが祖先よりも知能が高いということなのか?「現代の私たちは祖先に比べて考える能力が高いのか」,あるいは「祖先はあまりにも愚かで日常の具体的な世界にも対応できなかったのか」という意味なら,そうではない。「祖先よりも多様な認知的課題を負わされる時代に私たちは生きており,そうしたもろもろの問題に対処できるように,新たな認知能力や脳の領域を進化させてきたのか」という意味なら,そうだ。何が起きているのかが理解できれば,「私たちのほうが知能が高い」と言い張る人とも,「違っているだけだ」と決めつける人とも折り合いをつけられる。何はともあれ,多くの読者は後者の答えを知りたいだろう。だとすれば,私たちは祖先よりも「賢い」と言ってかまわない。だが,「私のほうがより現代的だ」と言ったほうがふさわしいだろう。それはけっして驚くことではない。

ジェームズ・R・フリン 水田賢政(訳) (2015). なぜ人類のIQは上がり続けているのか?人種,性別,老化と知能指数 太田出版 pp.46

混同

おおもとの原因は先に発見された証拠——知能検査の成績——にある。知能検査が測定手段だったせいで,認知歴史学者の役割とg計量学者の役割を混同してしまったのだ。原因を見つけて時代による思考習慣の変化が何を意味しているかを探りだす作業と,知能を測定する作業とは別物だ。認知歴史学とg計量学は,軸となる概念が違っていることに気づかなければならない。認知の歴史では,世代ごとに社会的要求がどのように変化してきたかが重要なのに対し,gは認知能力の個人差を測ることが重要である。g計量学者が歴史学者の方法論を軽んじるべきでないのと同じように,歴史学者も,誰がいちばん速くよく学べるかを測定するという行為をないがしろにしてはならないのだ。

ジェームズ・R・フリン 水田賢政(訳) (2015). なぜ人類のIQは上がり続けているのか?人種,性別,老化と知能指数 太田出版 pp.44-45

十種競技のたとえ

十種競技のgを使えば,同年齢の選手間での成績の差もかなり正確に予測できる。だが,各種目の成績がg負荷量の順位と同じになると言えるほど単純な話ではない。g負荷量から時代による成績の上昇パターンを推定することはできない。なぜなら,各種目の機能的な関連性はg負荷量をもとに判断できないからだ。
 たとえば,100メートル走,110メートルハードル,走り高跳びのg負荷量が同じくらい高いとしよう(実際もほぼそのとおり)。短距離走には上半身の筋力と瞬発力,ハードルには瞬発力と跳躍力,高跳びには跳躍力とタイミング感覚が必要だ。有能な選手はかならず3種目すべてで平均記録を大きく上回る。だが悲しいかな,社会が重視するものは時とともに変わっていく。世の中は世界最速の男を決める100メートル走に注目するようになり,若者は100メートル走で勝つことが異性を惹きつけると気づいた。みんなが100メートル走に力をいれるようになった結果,30年のうちに100メートル走の記録は標準偏差分伸びる。だが,ハードルは標準偏差の半分しか伸びず,走り高跳びにいたってはまったく変わらなかった。
 要するに,各種目の成績の上昇パターンは「下位検査」(この場合は競技種目)のg負荷量とは一致しない。相関の高い短距離走とハードルの記録は似たように伸びているが,同じく相関の高い短距離走と走り高跳びの記録はまったくちがう傾向を示す。したがってg負荷量をもとに,さまざまな運動能力の機能的な関連性を判断することはできないのだ。これに対する反応はふたとおり——運動能力どうしに数字の上での関連性はないという事実をありのままに受け入れて,それらの能力が現実世界でどんな機能を果たすかをくわしく分析するか,もしくは現実を全否定して,時代による成績の伸びを「空虚」,つまり「まやかし」と決めつけてしまうか,だ。後者は,因子不変でない変化はすべて「まやかし」だと言いきるだけで何も得るものがない。

ジェームズ・R・フリン 水田賢政(訳) (2015). なぜ人類のIQは上がり続けているのか?人種,性別,老化と知能指数 太田出版 pp.26-27

因子分析

IQ上昇を「空虚」と言いきる前に,因子分析を機能分析で補ってみたい。因子分析から隠れた特性が見つかったところで,それをはたらかせることなど誰にもできない。私たちは日常,話をしたり,計算をしたり,科学や道徳の問題について考えたり,なにかしら帰納的な活動をしているのだ。十種競技にたとえて両分析の違いを見てみよう。十種競技は,100・400・1500メートル走,110メートルハードル,円盤投げ,棒高跳び,やり投げ,走り幅跳び,砲丸投げ,走り高跳びの十種目に挑む。
 十種競技の成績を因子分析すると,一般因子gと下位因子——瞬発力(短距離走),跳躍力(幅跳びや高跳び),筋力(投擲種目)など——が導かれる。一般因子gが導かれるのは,同じ時間と場所,つまり同じ条件で競技がおこなわれ,各種目の成績には相関関係があるからだ。すなわち,ある種目に秀でている人は総合でも平均以上の成績をあげる。また,各種目はg負荷量が違うので,優秀な選手でもとびぬけて成績のいい種目もあれば,それほどでもない種目が出てくる。1500メートル走よりも100メートル走のほうがg負荷量ははるかに高いだろう。1500メートル走以外の種目に持久力は必要ないからだ。

ジェームズ・R・フリン 水田賢政(訳) (2015). なぜ人類のIQは上がり続けているのか?人種,性別,老化と知能指数 太田出版 pp.25-26

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