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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「パーソナリティ・個人差」の記事一覧

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公表されたテストの運命

上述の「科学性」の問題にかぎらず,Y-G検査の作成手続きが一定の方針に沿って行われていたとしても,そこでの「チェック」の基準が甘くなっているという点はいなめない。それと同時に,辻岡氏自身のパーソナリティ観が明確に打ち出されていないことは問題であると思われる。「パーソナリティ観」が不在ということはないであろうが,それが顕在化されていないがために,彼の「チェック」や「判断」がいたずらに恣意的で,ただギルフォードを模範としたテストを作れば良い,という印象を受けるのである。
 以上の検討から,テスト作成者の「良心」や「科学性」についての判断の問題だけではなく,ひとたび公表されたテストは「実用」的である方向へと「社会」的要請に応えて必然的に向かわざるを得なくなるという事実が示唆されると思われる。

日本臨床心理学会(編) (1979). 心理テスト・その虚構と現実 現代書館 pp.217-218
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Y-G検査の場合

Y-G検査の実際の使われ方を問題にする前に,この検査が具体的にどのような手順を経て,どのような論理に基づいて作成されたかを,みておくことが必要であろう。しかし,本稿の目的は,それらを「実証的」に批判してゆくことではないので,辻岡美延氏が作成過程をまとめた論文より,辻岡氏の「意図」を最低限明らかにするにとどめたい。
 彼はまず,妥当性と信頼性の概念を問題にしているが,妥当性に関しては実際的妥当性よりも因子的妥当性を優先させようとする立場を明らかにし,「信頼性を高めるという目標はそれぞれの下位検査に向け,妥当性を高める目標はテストバッテリーそのものに向けられるべきだと考え」ている。
 辻岡氏はこの論文の目的を次の7点に要約している。
 (1)内的整合性を有する特性別人格診断目録を作成すること。
 (2)その検査の尺度間の因子構造を明らかにすること。
 (3)各尺度を構成している項目間の因子構造を明らかにすること。
 (4)各尺度の信頼性を明らかにすること。
 (5)大学生・高校生・中学生・一般成人・非行少年などの集団について本検査の標準化を行なうこと。
 (6)種々の実際的分野における本検査の実際的妥当性を検討すること。
 (7)他の人格検査との関係を研究すること。(ただし,実際には(5)の大学生の標準化までで,それ以外の集団及び(6),(7)については論じられていない。)
 なお,辻岡氏はまず信頼性と因子的妥当性の高い尺度を作成し,次に種々の現場で,種々の立場からの実際的妥当性を検討することを課題として設定しているのであるが,これらの現場及び立場として,「教育的な場では教育的価値観から,産業では作業員の能率や適性や作業への適応度の観点から」をあげている。このように作成過程の当初から,Y-G検査の用途として,教育・臨床・産業のように多方面な場を考えていたということは,記憶されるべき点であろう。

日本臨床心理学会(編) (1979). 心理テスト・その虚構と現実 現代書館 pp.213-214

適応性概念の打ち出し

以上の見解をまとめてみるならば,ギルフォードが向性検査を検討し,複数の特性を導き出した背景として,
 (1)新しい技法(因子分析)の応用例を求めていたこと,そしてそれはまた,パーソナリティ理論に科学的・客観的な基礎づけを提供するだろう。
 (2)向性概念にかわるパーソナリティの中心的概念が,社会的にも求められていたこと,それは新しい労務管理のための技術を支えねばならなかった,の2点があげられるだろう。
 ギルフォードは,向性の分解→特性→社会適応性,というみちすじで,実用的な「適応性概念」を科学的に保証した。したがって,彼の「功績」は,いくつかの既成のテストを整理・統合する技法として,因子分析法を全面に押し出したことと,適応性概念を明確に打ち出したことであろう。

日本臨床心理学会(編) (1979). 心理テスト・その虚構と現実 現代書館 pp.210

理論の具体化

ここで,注意しておかなくてはならないことは,質問紙性格検査の初期の段階,たとえば,Woodworthの段階では実用性が優先していた。そこではテストの背景となるパーソナリティ理論の必要性はなかったといえる。あるいはテストがパーソナリティ理論そのものであった。しかし,それ以後のテストにおいては,次第にパーソナリティ理論の「具体化」としての側面が増大していったように思われる。向性検査もまた,1つにはそのようなパーソナリティ理論(向性概念)の具体化として存在したのではないか。そして,向性検査を検討する動機の背景となったものとしては,向性概念そのものが産業界を中心とする人事管理という社会的要請に応えられなくなったということが考えられるのである。

日本臨床心理学会(編) (1979). 心理テスト・その虚構と現実 現代書館 pp.209-210

性格検査の歴史

あらかじめ用意された多数の質問に対する個人の回答を通じて性格を把握しようとするいわゆるパーソナリティ・インベントリィ(性格調査目録)は,1918年のWoodworth Personal Data Sheetに始まるとされている。これは,R.S.WoodworthがPoffenbergerとともに,神経症患者の事例史から,適応異常の諸兆候を集め,これらを質問項目として整理した目録で,第一次世界大戦において応募兵に知能検査とともに用いられ,兵役に適さない者の排除に有効であったという。
 これ以後,各種のパーソナリティ・インベントリィが作成されているのだが,辻岡氏によれば,現在のインベントリィは,(1)Woodworthに始まる神経性兆候に関するインベントリィ,(2)Lairdに始まる向性検査,(3)Bellに始まる社会適応性検査,のどれかの流れをひいているという。
 Bellの検査というのは,1939年に作られたもので,適応性を多次元的に測定するためのインベントリィである。彼は,論理的分析により,Thurstone Scheduleの項目は,家庭生活への適応と,社会生活への適応と,情緒的適応とに分類され得ることを見出し,これらの異なる領域での適応性を測定しようと試みた。
 また,それ以前のインベントリィとしては,Bernreuter Personality Inventory(=BPI, 1933年,広く用いられた最初のものであり,かつまた適応不適応のみならず,広く他の人格特性次元まで測定しようとした一般用の最初のインベントリィ)と,Humm-Wadworth Temperament Scale(1935年,Rosanoffの人格理論に基づいて,人格の6次元に関する測定を可能ならしめるため考案したもので,正常者のみならず,精神異常者を分類し得るよう試みたもの)が重要であるという。
 BPIとHWTSとの相違は,前者が内的整合性の検討により項目選定が行われているのに対し,後者は6種の異常者の集団と正常者の集団を弁別するという「外的基準」による項目選定が行われている点で,これは人格特性測定のためのインベントリィとMMPIのごときインベントリィとの二大対決の初め,であるという。

日本臨床心理学会(編) (1979). 心理テスト・その虚構と現実 現代書館 pp.207-208

望ましさの測定

性格検査も同様であって,私たちには夥しく多くの個人差や特性があるが,検査はひたすら,望ましい社会生活を営む上に,はっきりプラスになる性質とマイナスになる性質とが,その人の性格としてしらべられる。従順,無口,社交性,着実,粗野,人好きのよさ悪さ,等々がこれである。したがって毒にも薬にもならない性質は,たとえ個性的であっても取り上げられない。煙草を口の真中で吸うとか,上目がちに人の顔を見るとか,コーヒーに砂糖を入れないとか,そうした<つまらない>性質は性格特性に算えない。性格検査は社会生活を営む上に不適応を生じやすい性質,平均から偏った性質,社会的に望ましくない性質,またはおおいに歓迎され奨励される性質,の有無や度合を明らかにするためにある。テストは現在の世の中の基準で望ましいとする人間の選抜検査であり,優良品と劣等品,善玉と悪玉との,ふるいわけ検査である。更に,可能なかぎり早い時期に区分けして,それぞれに適した教育訓練を行ない社会的階層の適所に適材を配置するための検査なのである。

日本臨床心理学会(編) (1979). 心理テスト・その虚構と現実 現代書館 pp.145-146

能力の多様性

なぜ,その人の評価と知能の評価とを区別するかといえば,理由は簡単である。人間の能力は極めて多様である。算数の能力もその1つであるがケン玉遊びもその1つであり,白痴児にその名人がいたそうであるが,素手でハエを捉えるのも人間能力の1つである。知能検査は決してこういう能力をテストしない。それはつまらない,役に立たない能力であるからである。現代社会における高度の学問や技術やの習得に不可欠な基礎的能力でないからである。社会の上層の仕事に従事するのに必要でないからである。知能検査で測られる知能とは望ましい社会人であるための必要条件としての知能であり,テストはその種の精神発達の検査に他ならない。

日本臨床心理学会(編) (1979). 心理テスト・その虚構と現実 現代書館 pp.145

媒介変数テスト

これらの点を更に明らかにするための例を知能検査にとって,それが何を検査する検査であるか考えてみよう。私たちはいろいろな形で人間の頭のよし悪しを評価している。これらいろいろな形で測られた知的諸能力の共通のおおもとの変数が知能とよばれる因子である。この事情は性格検査,人格検査,適性検査も同じであって,私たちの言葉でいえば,諸検査はすべて,知能とか性格とか適性とかいう<媒介変数>のテストである。人間をテストしているようにみえて実は個々人の問題ではなく,知能,性格等の媒介変数がテストされている。必要なのは,知りたいのは,何某という人間ではなくて,能力であり,特性であり,それのおおもとであると考えている想定的因子なのである。したがってこういってもいい。検査者は人間を評価しているのではなくてテスト結果について解答しただけである。
 しかしてすとの成績表は,媒介変数という見えない相手の首にさげられるのでなくて,現実のその人の何等かの記録に載せられ,その人の背番号になる。背番号とはその人の記録に載せられることである。見えない背中に貼られて生涯その人についてまわるのである。

日本臨床心理学会(編) (1979). 心理テスト・その虚構と現実 現代書館 pp.144-145

内田クレペリンの場合

たとえばクレペリン精神作業検査において,内田勇三郎によって,健常者常態定型曲線として提示された曲線は,一般社会人10,479名の平均作業曲線であり,各人の作業曲線はそれから逸脱の程度によって,準定型,準々定型,疑異常型,異常型などと分類される(横田象一郎『クレペリン精神作業検査解説』金子書房, 1961,による)。これは正常者の平均反応パターンからの逸脱によって異常性を判別するという心理テストの特徴を,典型的に示しているといえるが,この場合の『定型曲線』は日本の社会人集団の平均であるという,その一事によって,工業中心の社会で期待される行動様式や価値観を十分に反映しているのではないか。たとえば横田氏(前掲書)は,この『定型曲線』を示す人の特徴として,『仕事へのとっつきが良く,仕事を長く続けてもムラがなく,新しい仕事にもすぐ慣れ,上達も早い。また仕事に好き嫌いが少なく,外からの妨害によって影響されることも少なく,短時間の休憩で疲れをいやし,前より能率があがる。さらに仕事に没頭していても,外界の変化に適切に反応出来,事故や災害を招くことは少なく,人格も円満で人づきあいも良い』と述べている。この解釈は,横田氏自身の主観によって,やや理想化されすぎている感じがなくもないが,少なくとも仕事へのとっつきの良さ,慣れの早さ,ムラの少なさ,短時間の休憩の効果が十分みられることなどの点では,まさに企業内の労働者やサラリーマンに期待される人間像を十分に示しているように思われる。さらに横田氏の判定法によると,この定型曲線を示す人が,大学文科学生では9.7%,中学生では17.7%しかないという結果が出ているが,これは定型曲線があくまでも企業や職場に慣らされてきた一般社会人の心的特性を示すものであることを物語っている。このように平均からのへだたりという視点では,常に平均附近の反応をする多数者が,評価の基準となり,それらこそ正常者の見本として価値高く評価され,その多数者から落伍した少数者は脱落者,異常者として蔑視され,それにふさわしい処遇を受けるべく,種々の評価ー処理機構の中へ投げ込まれて行くのである。

日本臨床心理学会(編) (1979). 心理テスト・その虚構と現実 現代書館 pp.122-123

SPIの場合

では,<より公正>であり客観的と主張する心理テストの評価の中身は,じっさいにどんなものだっただろうか。ここに総合人格診断検査(SPI)の実例をあげておこう。
 この検査は人格を行動的側面・意慾的側面・情緒的側面に分けてそれぞれ各側面をさらに細分化して点数で示し(たとえば,社会的内向性37,持続性60,敏感性53,高揚性58,いずれも100点満点),さらに性格類型を内向・直観・感情・知覚の4項目で得点化し,次のように判定する。
 「外界に対して気軽に働きかける社交家である。感じたこと考えたことをちゅうちょなく表現する一方,他人の感情にも敏感で思いやりがあり,友好的な印象を与える。人の気持ちを犠牲にしてまで能率本位に仕事を進めることは好まず,他人に対して同情的で人間関係の調和を重んじながら進めていこうとする。ものの見方は,どちらかといえば現実的で,観念的なものより日常の体験や目前の具体的事実を重視し,周囲の状況に逆らわず,柔軟に適応していく傾向がある。細かい注意力を要する仕事やじっと机に向かう仕事は苦手で,活動的な仕事や人と接することの多い仕事に喜びを見いだす。筋道を立てて論理的に考えることが苦手で注意や考えが散漫になったり,安易な妥協をしやすい。状況に流されたり,いたずらに感情に左右されないように留意するとともに,物事を能率的に進めることの必要性を認識し,ときには合理的に割りきって,厳しい態度で望むことが肝要である」

 また,これらの診断から職務適応性として社交性・対人指向性を必要とする職務に適していると述べている。担任が3年間ないし4年間,子どもとつき合ってきて具体的な生きざまを書ききった中身と比べて,何とそらぞらしい(そして同時に傲慢な)言葉の羅列だろう。企業の側にしても,これらの点数なり評価を本気で信じているというより,好ましくない者を排除するための口実として使用する可能性こそ問題であろう。たとえば,企業が本心では国籍を問題にしながら心理テストで気分性が何点以下だったので採用しなかった,などと主張するのに使われることが恐ろしいのである。このような似非科学性の上にあぐらをかき,企業にテスト問題を販売しているテスト業者と,これに癒着する一部の心理学者の態度は今後とも,きびしく見守っていかねばなるまい。

日本臨床心理学会(編) (1979). 心理テスト・その虚構と現実 現代書館 pp.105-106

知能テスト

そもそも,知能テストの結果で子どもを選別することに問題があるといえる。児童相談所の心理判定員が実施する知能テストは,子どもの全人格を理解するためのものであるが,知能テストで測定出来るものは全人格のほんの一部にすぎない。
 IQ=全人格ではないはずである。また,知能テストで測定出来るといわれている,IQそのものにもかなり問題がある。鈴木・ビネーテスト,WISCなど知能テストの種類によりIQが違ってくる。とりあえず,特殊学級入級の基準をIQ50〜75と定めてあると仮定すると,一人の子どもについて,鈴木・ビネーではIQ70であり,WISCではIQ90の結果が得られたとする。鈴木・ビネーテストの結果ではその子どもは特殊学級入級が適当であるし,WISCの結果では通常学級入級が適当となってしまいます。

日本臨床心理学会(編) (1979). 心理テスト・その虚構と現実 現代書館 pp.41-42

ホットスポットを見つける

ある研究で,強いストレスに苦しんでいた大人たちが,「イフ・ゼン」の評価というやり方を使い,自分のストレスを引き起こすホットスポットを見つけるように指示された。細心に構成された日記をつけることで,彼らは自分にとって強いストレスを引き起こす特定の心理状況をずっと追跡記録し,それらのホットな誘引の1つひとつに対する自分の反応を毎日書き記した。たとえば「ジェニー」は,さまざまな状況で平均して普通のストレスレベルにあった——いや,平均よりやや低かった。ジェニーにとって問題となるストレスパターンは,彼女が仲間外れにされたと感じたときにだけ現れた。そういう状況のとき,彼女のストレスレベルは急上昇した。自分が仲間外れにされたと感じたとき,彼女は苦悩し,自分を責め,それ以上に他人を責め,人を避けるようになった。ストレスを経験する心理状況としない心理状況をジェニーが自分で発見する手助けをすること,そして,そうした状況での自分の反応を突き止める手助けをすることが,彼女がもっと柔軟にそのような状況に対処できるようにするための,的を絞った処置を考案する第一歩だった。この研究は「イフ・ゼン」のストレスパターンに焦点を当てたが,日記や追跡記録装置を使っての同じような自己観察は,何であれ,気になっている感情あるいは行動の結果として生じる過剰な反応のきっかけをマッピングするのに役立てることができる。自分が修正したいと思う行動を引き起こす「イフ」の刺激や状況を知ってしまえば,それらをどう評価し,それらにどう反応するかを変える位置に身を置ける。

ウォルター・ミシェル 柴田裕之(訳) (2015). マシュマロ・テスト:成功する子・しない子 早川書房 pp.227

「もし〜ならば」パターン

ちょうど攻撃性に関してウェディコで私たちが発見したのと同じように,状況が異なっても変わらない一貫性は,カールトンの学生たちの誠実さにもほとんどなかった。また,自分は首尾一貫しているという彼らの確信(じつは彼らの直観的な思い込み)は,多様な状況で彼らが見せた実際の一貫性の度合いとは無関係だった。教師との約束時間に一貫して遅れる学生が,試験の準備に関しては非常に誠実で,何週間も前から入念にやるという場合もあった。では,彼らの確信は何に基づいていたのだろう?あるいは,それは確信ではなく,首尾一貫しているというただの幻想だったのか?彼らの確信は,誠実さに関する各自の「イフ・ゼン」パターンと——とても強く——結びついていることがわかった。つまり,これらのパターンが長期にわたって繰り返されたり固定されていたりすればするほど,学生たちは自分がそれ以外の状況でも一貫して誠実だと感じた。彼らは,長期にわたって続き,予想可能な自分の「イフ・ゼン」の行動パターンを知っているために,自分は首尾一貫していると確信していたのだ。あるカールトン・カレッジの学生は,自分がたとえば授業時間や教授との約束の時間をつねにきちんと守るのを知っているから,大学における自分の誠実さは首尾一貫していると考えていた。もっとも彼は,自分の部屋やノートのとり方はいつも乱雑で,課題の提出は必ずと言っていいほど遅れることも知っていた。「イフ・ゼン」のパターンが長期にわたって変わらず一定しているから,人は特定の特性を首尾一貫して示すと考えるようになるのだ。一貫性に関する私たちの主観は,矛盾もしていないし幻想でもない。ただそれが,20世紀の大半を通じて研究者たちが探し求めてきた種類の一貫性でないだけだ。これを知っていると,他人が何をするのか,そしてまた,私たち自身が何をしそうかを予想したければ,どこに注目すればいいかわかるので役に立つ。

ウォルター・ミシェル 柴田裕之(訳) (2015). マシュマロ・テスト:成功する子・しない子 早川書房 pp.224-225

行動の一貫性の低さ

1968年,私は包括的な見直しにかかった。ある状況での人々の振る舞い(たとえば会社での義務や責任の遂行に対する誠実さ)を,別の状況での振る舞い(たとえば家庭での誠実さ)と関連づけようとした何十という研究によって,それまでに示されていた相関関係が対象だ。その結果に,多くの心理学者がショックを受けた。概して相関の度合いはゼロではないものの,考えられていたよりもずっと小さかったのだ。さまざまな状況での振る舞いの一貫性を立証できなかった研究者たちは,自分たちが失敗したのは,不完全で信頼性に欠ける方法を使ったせいだとした。だが,人間の特徴が持つ性質と一貫性についての彼らの推定が間違っており,問題はそこにあるのではないかと私は思い始めた。
 議論は続いたが,個人の行動の全般的一貫性は,一般にあまりに弱すぎて,ある種類の状況での振る舞いをもとにして,その人が別の種類の状況でどう振る舞うかを正確に予測する目的では役に立たないという事実に変わりはなかった。行動は状況次第で変わるのだ。高度に発達した自制のスキルも,ある状況である誘惑に対しては発揮されるだろうが,別の状況ではそうはいかない——転落した有名人が繰り返し私たちに思い出させてくれるように。

ウォルター・ミシェル 柴田裕之(訳) (2015). マシュマロ・テスト:成功する子・しない子 早川書房 pp.213-214

自制のスキル

自制のスキルが使われるかどうかは数々の事柄を考慮した上で決まるが,状況と予想される結果や,動機づけと目標,誘惑の強さを私たちがどう認識するかがとりわけ重要だ。そんなことは当たり前に思えるかもしれないが,私がここでそれを強調するのは,この点について誤解が生じやすいからだ。これまで,意志の力は「スキル」とは何か別のものだと考えられてきたが,それは間違っている。なぜなら,意志の力は長期にわたって一貫して揮われるとはかぎらないからだ。あらゆるスキルに言えるように,自制のスキルも,私たちにそれを使う意欲があるときだけに使われる。このスキル自体は不変で安定しているが,動機づけが変われば行動も変わってくるのだ。

ウォルター・ミシェル 柴田裕之(訳) (2015). マシュマロ・テスト:成功する子・しない子 早川書房 pp.210

拒絶感受性

2008年に再びオズレムが筆頭執筆者として同じチームで行なった関連の研究では,高RS(拒絶感受性)の人は,境界性人格障害の特徴を併せて示すことが多かった。この障害を持っている人は,些細な意見の相違を大げさに捉え,個人攻撃と見なし,他人ばかりでなく自分に対しても有害な反応を見せやすくなる。そして,ここが肝心なのだが,高RSでも自制能力も高い人はそうした影響を免れており,対人関係を維持できた。この傾向は,スタンフォード大学の未就学児の追跡調査と,新たな2つのサンプル(カリフォルニア州バークリーの,大学生のサンプルと成人のサンプル)の両方で見られた。全体として,高RSだが自制スキルが優れている人は,低RSの人に劣らず,人生で物事にうまく対処できていた。優れた自制スキルを持った高RSの人は,対人関係でストレスを受けたり,相手から拒絶されたりする可能性に直面しても,自制スキルを活用してホットで衝動的な最初の反応を「冷却」することができ,それによって自分を抑え,激怒して攻撃的になって人間関係を台無しにするのを免れられた。

ウォルター・ミシェル 柴田裕之(訳) (2015). マシュマロ・テスト:成功する子・しない子 早川書房 pp.180

成功できる見通し

この結果からは,成功の見通しを物事全般で持ちづらい子どもたちは,課題にすでに失敗したかのように取り組み始めることも分かった。だが,そういう子どもも,現に首尾良く課題を成し遂げたときには,ポジティブな反応を見せ,この新たな成功体験のおかげで,将来の成功への期待がおおいに高まった。成功するだろう,あるいは失敗するだろうという一般的に見通しは,私たちが新しい課題にどう取り組むかに重大な影響を与える。一方,具体的な見通しは,自分が本当に成功できるのかがわかったときには,変わりうる。これが意味するところは明白で,一般に楽観主義者は悲観主義者よりもうまくやっているが,悲観主義者でさえ,成功できるとわかったときには期待を高めるのだ。

ウォルター・ミシェル 柴田裕之(訳) (2015). マシュマロ・テスト:成功する子・しない子 早川書房 pp.136

楽観主義

楽観とは,最良の結果を予測する傾向をいう。心理学者は,人が自分の将来に対して好都合な見通しを持つというふうに定義する。それは,本人が本当に起こると信じている(ただの希望というより確信に近い)見通しで,「できると思う!」というマインドセットと密接に結びついている。楽観のもたらすポジティブな結果は目も眩むほどすばらしく,研究による十分な裏づけがなければ,とうてい信じられないほどだ。たとえば,シェリー・テイラーとその共同研究者たちは,楽観主義者のほうがストレスに効果的に対処し,その不都合な影響を受けにくいことを示した。楽観主義者は,楽観の度合いが小さい人と比べると,自分の健康と将来の幸せを守るために多くの手を打ち,全般に,より健康な状態を保ち,鬱になりにくい。心理学者のチャールズ・カーヴァーとその共同研究者たちは,楽観主義者が冠状動脈バイパス手術を受けると,悲観主義者よりも早く回復することを突き止めた。楽観主義者の恩恵については,例を挙げればきりがない。ようするに楽観は,適度に現実に即しているかぎり,望んでしかるべき恵みなのだ。

ウォルター・ミシェル 柴田裕之(訳) (2015). マシュマロ・テスト:成功する子・しない子 早川書房 pp.131-132

マインドセット

自分の知能や,周りの世界をコントロールする能力,社交性,その他の特徴は,生まれたときから逃れようのないもの,あるいは恵まれているものではなく,鍛えたり発達させたりできる筋肉や認知的スキルのように柔軟性を持っていると,幼いころから考える子どももいる。ドゥエックはそういう子どもを「拡張的知能観」の持ち主と呼ぶ。一方,自分の能力(賢いか愚かか,良いか悪いか,強力か無力か)を,自分には変えられない,生まれてこのかた固定された水準に凍りついているものと見なすのが,「固定的知能観」の持ち主だ。幸い,ドゥエックの研究は,こうしたマインドセットの重要性を示すだけにとどまらず,これらのマインドセットには変化の余地があることを明らかにし,マインドセットを考え直したり修正したりするための多くの方法を説明している。

ウォルター・ミシェル 柴田裕之(訳) (2015). マシュマロ・テスト:成功する子・しない子 早川書房 pp.128

エンジンかブレーキか

こうした研究成果について報道陣と論じているときにB.J.ケイシーが述べたように,先延ばしにする能力の低い人はより強力なエンジンに駆動されているように見えるのに対して,先延ばしにする能力の高い人はより優れた心的ブレーキを持っていた。この研究からは,1つ重要な点が明らかになった。私たちの基準に照らして,生涯にわたって自制能力が低い人も,日常生活のたいていの状況では,苦もなく自分の脳をコントロールすることができた。行動と脳の活動における衝動制御に彼ら特有の問題が見られるのは,とても魅力的な誘惑に直面したときだけだったのだ。

ウォルター・ミシェル 柴田裕之(訳) (2015). マシュマロ・テスト:成功する子・しない子 早川書房 pp.36

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