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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「社会心理学」の記事一覧

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嘘は損失をもたらす

 残念ながら,「罪のない嘘」という神話は本質的にはおとぎ話だ。「罪のない嘘」は「本物の嘘」よりも悪質度は低いかもしれないが,それでも他のすべての嘘と同じく,ある程度の被害をもたらす。ウソがうまく通れば,だれかをだますことになるのはちがいない。しかも,決定的なのは,たとえだまされた人が嘘とわからなくても,だました本人はそれを知っている。
 カリフォルニア大学サンタバーバラ校の研究者ベラ・デパウロと彼女の学生たちは,数多くの実験をくりかえした結果として,嘘はたとえ「罪のない嘘」であっても嘘をついた人に損失をもたらすことを発見した。デパウロによれば,嘘は「心の痛み」をもたらし,嘘をついた人は多少なりと気分が悪くなる。さらには,この気分の変化は,会話が嘘から離れてもまだ続きうる。それが積み重なれば,対人関係に感情的な「染み」がつく。嘘が混じっている会話は正直な会話とくらべて,温かみや親しみや心地よさが劣ると,デパウロはいう。

ロバート・フェルドマン 古草秀子(訳) (2010). なぜ人は10分間に3回嘘をつくのか:嘘とだましの心理学 講談社 pp.31-32
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ありのままとは

 「ありのままでいる」とは,どんなことなのかを検討すれば,そうした疑問の答えが得られる。多くの場合,「ありのままでいなさい」という助言は,対人関係でもっともシンプルなアプローチを取りなさいという意味だ。だが実際は,綿密に検討してみれば「ありのままでいる」ことは,数多くの要素の微妙なバランスを必要とする,非常に複雑なプロセスなのだとわかる。
 まず,対人関係では,他人との出会いの舞台となる状況がさまざまに変化する。たとえば,パーティで友人と出会えば,オフィスの小部屋へ訪ねていくときとはちがう話し方をするだろう。異なる状況での異なる行動基準は,相手に提示する「自己」をも考慮に入れなければならない。さらに,その「自己」は,感情を含めた出会いの状況によって形成される。たとえば,もし相手が可愛がっていた猫を亡くしたばかりだったら,思いやりを示さなければ友人としてふさわしくない。もし相手が婚約したといえば,喜んで祝福しなければ友人としてふさわしくない。いかにふるまうべきかを左右するそうした社会的な基準は,私たちの「本当の」感情を表現することよりも重要視される。

ロバート・フェルドマン 古草秀子(訳) (2010). なぜ人は10分間に3回嘘をつくのか:嘘とだましの心理学 講談社 pp.26-27

不稼働時間

 もうひとつの損失は「不稼働時間」である。ひとつの仕事をしていて,いったん中断をして別の仕事をしたあとで,もとの仕事にまた意識を戻すのには,多少の時間がかかる。職場問題の研究によれば,電話などで気を散らされたあとに深い集中力を取り戻すには,最長で15分ほどかかるという。
 この結果は,マイクロソフト社の職員の仕事ぶりを観察した研究とも符合する。その研究でも同社の社員は,受信メールに返信したあとで,報告書やプログラムの作成といった集中を要する作業に戻るまでに,やはり15分かかった。なぜそんなに長く?たいがい気が散ってしまい,ほかのメールに返信したり,ニュースやスポーツや遊びのサイトを眺めたりしたからだ。

ジョゼフ・T・ハリナン 栗原百代(訳) (2010). しまった!:「失敗の心理」を科学する 講談社 pp.115

後知恵バイアスの影響

 あと知恵によるバイアスは,こんなふうに生じる。結末がどうなったかを知ることは,過去の出来事の認識と記憶のしかたに大きな影響を及ぼす。これは,どんな些細なことにも,あてはまる。1975年のスーパーボールか,おばあちゃんの人工肛門手術か犬を去勢させるかどうかの決断かを問わない。結果を知ることによって,記憶が変わってしまうのだ。
 歴史家でさえも,このミスに陥りやすい。ある出来事が起こったあとならば—それがゲティスバーグの戦いでも,パール・ハーバー(真珠湾)攻撃でも—関連のある要因と関連のない要因とを分けるのはたやすい。これらの史実について書く者は,決まって結果が不可避のものだったように描いてしまう。だが,こうした記述の説得力は,ほかを犠牲にして,ある事実を伏せることで獲得される—「忍び寄る決定論」と呼ばれる過程だ。

ジョゼフ・T・ハリナン 栗原百代(訳) (2010). しまった!:「失敗の心理」を科学する 講談社 pp.94

人格判断すると顔を覚えやすい

 また,複数の人間を見分けるには身体的特徴だけを頼りにするわけではないが,いざ,どうやって見分けるかと問われれば,通常は身体的特徴をあげるものだ。さて,あなたならどこを見るだろう?多くの研究がこの答えを求めてきた。もっとも一致した発見はというと,唯一重要な特徴は……毛髪だという。ほかのどの身体的特徴より簡単に変えられることを考えると,じつに興味深い選択である。切ったり染めたり伸ばしたり,失うことすらあるのに。それでも髪なのだ。
 ところが,研究者がやや異なる質問をしたところ,顔の記憶にかんして驚くべき答えが得られた。正直さ,好ましさ,といった主観的な判断によろ特性を与えた場合のほうが,髪や目などの身体的特徴で区別した場合よりも,その人の顔がよく覚えられるというのだ。特性の方が造作よりも記憶に残るのはなぜか?特性のほうが脳に要求する情報処理が高度になるからだ。この顔は正直かどうかと考えるほうが,縮れ毛かどうかを決めるよりも頭を使う。苦労したほうが,記憶に残るらしい。
 この効果はてきめんなので,顔認識の研究の第一人者はこんな助言もしている。
 「人の顔を覚えていたければ,はじめて会ったときに『この人は善良そうだ』とか『くせ者らしい』などと人格判断を下してみるといい」

ジョゼフ・T・ハリナン 栗原百代(訳) (2010). しまった!:「失敗の心理」を科学する 講談社 pp.61-62

名前はあまり重要ではない

 名前がほかの要素と比べて重要でないことは,数年前にイギリスの研究で証明された。にせの人物のプロフィールを暗記させるという実験だ。各プロフィールには架空の名前のほか,その人物ゆかりの地名(出身地など)や職業,趣味といった,にせの情報が記されている。にせのプロフィールは,たとえばこんな感じだ。<アン・コリンズ。有名なアマチュア写真家。ブリストル近郊在住。地元で訪問看護師として働いている>
 では,実在する被験者たちは,実在しない人物の何を覚えていたか?
 「職業」だと思ったあなた,正解だ。職業は全被験者の69%が記憶していた。タッチの差で2位だったのは「趣味」の68%,次いで,62%の「出身地」。ぶっちぎりで最下位だったのが「名前」である。ファーストネーム(名)は31%,ラストネーム(姓)は30%しか覚えてもらえなかった。どういうわけか,その人がパン屋(ベイカー)を営んでいることは姓がベイカーであることより覚えやすいのだ。

ジョゼフ・T・ハリナン 栗原百代(訳) (2010). しまった!:「失敗の心理」を科学する 講談社 pp.49

総意誤認効果

 こうした話題についての最近の研究の多くは,「総意誤認効果」と呼ばれる現象に焦点を合わせたものである。「総意誤認効果」というのは,ある種の信念(や価値観や習慣)がどの程度人々に共有されているかを推定する際に,そうした信念を自分自身が持っていると,そうした推定が過大になりがちになる傾向を言う。たとえば,フランスびいきの人は,フランス嫌いの人が考えるよりも,フランス文化やフランス料理が多くの人に好まれていると考えている。酒飲みは,酒を飲まない人が考えているよりも,多くの人が飲酒を好むと考えている。こうした現象についての最もよく引用される実験として,大学生に,「悔い改めよ」と書かれた大きなプラカードを持ってキャンパス内を歩き回ってもらえるかどうかを尋ねてみた実験がある。かなりの数の大学生が,そうしてもよいと答え,同様にかなりの数の大学生がいやだと答えた。そうした回答が得られた後で,同じ大学生に,やるという学生とやらないという学生とが仲間の大学生の中にどのくらいずついると思うかを推定してもらった。その結果,これらの大学生の推測は,自分自身がどちらを選択したかに大きく影響されることがわかった。自分がやると答えた学生は,他の学生でも60%はやるだろうと推測したのに対し,自分がやらないと答えた学生は,そんなことをやるのは27%ぐらいだろうと推測したのである。

T.ギロビッチ 守 一雄・守 秀子(訳) (1993). 人間この信じやすきもの—迷信・誤信はどうして生まれるか— 新曜社 pp.188-189
(Gilovich, T. (1991). How we know what isn’t so: The fallibility of human reason in everyday life. New York: Free Press.)

容易く正当化できる

 つまり,私たちの動機は,多くの証拠の中から都合の良いものを選ぶという気づかれにくいやり方をとおして,私たちの信念に影響を及ぼしているのである。そうしたやり方の中で,最も単純ではあるが,最も強力なもののひとつに,どんな証拠を捜すべきかについての質問そのものを利用する方法がある。私たちが何かを信じたいと考えたとき,関連する証拠にあたってみるわけであるが,その際,「どんな証拠がこの信念を支持するだろうか」と自問することになる。たとえば,「ケネディ大統領の暗殺はオズワルドの単独犯行ではない」という考えを信じたいと考えている場合には,「どんな証拠がCIAの陰謀説を支持するだろうか」と自問することになる。ここで,こうした質問それ自体が歪みを含んだものであることに注意していただきたい。こうした質問は,私たちの注意を肯定的な証拠に向けさせると同時に,自分が望む結論に反するような情報からは遠ざけるように働くからである。そしてほとんどの場合,質問を肯定する証拠が,少なくともいくつかは見つけられるものであるため,こうした質問を一方の側からだけすることによって,真実であって欲しいと思うことがらをたやすく正当化することができるのである。

T.ギロビッチ 守 一雄・守 秀子(訳) (1993). 人間この信じやすきもの—迷信・誤信はどうして生まれるか— 新曜社 pp.131-132
(Gilovich, T. (1991). How we know what isn’t so: The fallibility of human reason in everyday life. New York: Free Press.)

合致情報のみ印象に残る

 合致情報と非合致情報との違いには,重要な要因が関わっている。それは,ある信念や仮説を持っているとき,その信念や仮説に合致するできごとだけが印象に残りやすいということである。というのは,そうした合致情報は,そうした信念や仮説を思い起こさせるからである。占い師に見てもらった人が,あなたは双子の親になるだろうと言われたとしよう。何年も経ってから実際に双子が生まれたとすれば,その人の記憶から長い間忘れられていた予言が思い出されることはまちがいない。さらには,予言が現実のものとなったという事実は,その後も決して忘れられることはないであろう。これに対し,ふつうに単児が生まれた場合には,過去の予言が思い起こされる可能性はずっと少ないに違いない。出産はひとつの立派な「生起」事例であるが,単児の出産は予言との関わりからは「非生起」事例であり,予言が実現しなかったことが改めて思い起こされることにはなりにくい。しかも,単児の出産は予言が正しくなかったことの反証事例ではなく,予言の正しさが確認されなかったというだけのことにすぎない。なぜなら,予言された双子の出産は,次の妊娠でまだ起こる可能性があるからである。

T.ギロビッチ 守 一雄・守 秀子(訳) (1993). 人間この信じやすきもの—迷信・誤信はどうして生まれるか— 新曜社 pp.104-105
(Gilovich, T. (1991). How we know what isn’t so: The fallibility of human reason in everyday life. New York: Free Press.)

重要度を低下させる

 死刑の犯罪抑止効果についての研究や,ギャンブラーの心理についての研究から,自分自身の信念にとって都合の悪い情報を,私たちは思ったほど軽んじているわけではないことが示された。そうした情報は,自分自身の信念にできるだけ影響を及ぼさないように,巧みに取り扱われているのである。既存の考えに反する情報を単に無視するのではなく,私たちは,そうした情報を特に厳密に吟味するのである。そして,その結果,既存の考えに反する情報は,欠陥の多い考慮に値しないものと見なされたり,既存の考えにあまり影響を与えない種類の情報に変換されたりするのである。死刑廃止論者たちは,死刑の犯罪抑止効果を支持する調査例を,結局は欠陥だらけの意味のないものとみなした。また,ギャンブラーたちは,予想が外れたのは予想が困難だったからとするのではなく,もう少しうまい戦略をとりさえすれば当たったはずだと結論づけるのであった。

T.ギロビッチ 守 一雄・守 秀子(訳) (1993). 人間この信じやすきもの—迷信・誤信はどうして生まれるか— 新曜社 pp.90
(Gilovich, T. (1991). How we know what isn’t so: The fallibility of human reason in everyday life. New York: Free Press.)

自己成就的予言の限界例

 自己成就的予言の限界をよく示す例として,標準的な「囚人のジレンマ」ゲームを多数回繰り返す実験がある。ゲームの説明を聞いた後,参加者はこのゲームにどんな姿勢で望んだら良いかについての意見を述べるよう求められる。「協調者」と呼ばれるタイプの参加者は,このゲームのポイントは,もう1人の参加者と協力して,2人の利益の合計を最大にするよう努めることであると答えるだろう。一方,「競合者」と呼ばれるタイプの参加者は,もう1人の参加者と競い合って,自分の利益が最大になるようにすることがこのゲームの目的であると答えるであろう。
 実際にゲームを始めてみると,それぞれが予想していたゲームに対する態度が正しかったかどうかが,実感できることになる。ところが,協調者と競合者とでは,自分の抱いていた態度が肯定される度合いは大きく異なる。協調者の場合,もう一方も協調者の時は,互いにとって利益が上がる協調的な手が取り続けられることになる。しかし,競合者と組にされたときには,自分の被害を避けるためにも,競合的な手をとらざるをえなくなる。一方,競合者の場合には,常に破壊的な戦いになってしまう。もう一方も競合者の時は,すぐにゲームは血みどろの戦いとなる。そして,もう一方が協調者の時でも,こちら側の行為から,潜在的な協調者を自己防衛のための競合者に変えてしまうことになる。つまり,競合的な行為は,協調的な行為に比べ,相手側も同じ行為を取るようにさせやすいということである。そこで,競合者の持つ人間観「世界は利己主義者で満ちあふれている」は,ほとんど常に肯定されるのに対し,協調者の持つより曖昧な傾向は,肯定されにくいことになる。残念ながら,否定的な予言が当たってしまうことの方が多いのである。

T.ギロビッチ 守 一雄・守 秀子(訳) (1993). 人間この信じやすきもの—迷信・誤信はどうして生まれるか— 新曜社 pp.72-74
(Gilovich, T. (1991). How we know what isn’t so: The fallibility of human reason in everyday life. New York: Free Press.)

選抜効果

 ところが,こうした比較の重要性を充分に認めたとしても,現実にはそれが不可能なことの方が多い。選択時の成績が合格点に達しなかった人は,その後実際に大学で勉強したり,会社で働いたりできないのだから,そうした不合格者のうちの何割かが,実際に成功者となりえたかは知りようがないのである。面接で悪い印象しか与えなかった者は仕事にありつけず,入試成績が低かった者は有名大学には入れない。研究費申請が受け入れられなかった研究者は,わずかな研究費だけでみじめな研究しか行えない。こうした「不合格」グループが,もし不合格にならなかったとしたときにどの程度成功したか,についての情報が得られないために,選択が正しかったかどうかの評価は,「合格者」グループが実際にどれくらい成功するかだけを基になされることになる。しかし,すでに見たとおり,この方法での比較は,正しい評価方法ではない。もし,もともと成功率が高い場合(つまり,選択時に基準以下の成績であった人々の中にも,多くの成功者が出てくるような場合)には,選択基準がその後の成功の予測にまったく無関係であっても,その選択基準が適切であったと誤った結論が出されることになってしまう。応募者の能力水準が高く,選択時のテスト成績とは無関係に,ほとんど全員が成功するような場合には,こうした誤った結論づけが特に起こりやすくなる。きわめて優秀な人々だけが応募してくる会社や大学や研究助成機関では,採用担当者は,彼らの決定結果がすべて成功に結びつくため,自分たちが用いている人事採用手続きや入学試験方法や研究助成方針が,きわめて効果的なものであると確信するに違いない。しかし,採用されなかった応募者がどういうことになったかを知りえない限り,こうした結論は不確実なものであると言わざるをえないのである。

T.ギロビッチ 守 一雄・守 秀子(訳) (1993). 人間この信じやすきもの—迷信・誤信はどうして生まれるか— 新曜社 pp.63-64
(Gilovich, T. (1991). How we know what isn’t so: The fallibility of human reason in everyday life. New York: Free Press.)

相手の目を通して見よ

 ジャン・ラスムッセンは,私たちが自分自身(もしくは検察官)に「どうして彼らはあんなにも不注意で無謀で,無責任になり得たのか?」と尋ねるのは,当該の人々が奇妙な振る舞いをしたためではないと指摘する。それは,彼らの行動を理解する際に,誤った枠組みを適用しているからである。人々の行動を理解し,その行動が適切だったかどうかを判断するために必要な枠組みとは,彼ら自身の通常の業務文脈である。なぜなら,その文脈の中に彼らははめ込まれているからだ。その視点から見れば,意思決定や判断は適切であり,正常で,日常的で,当たり前で,想定内のものとなる。もし人々がリスクを正しく見越していたかどうかを本当に知りたいならば,結果の知識や,後で重大であったことがはっきりとわかった一片のデータなしで,当時の彼らの目を通して世界を見るべきである。しかし,それはなかなか難しい。

シドニー・デッカー 芳賀 繁(監訳) (2009). ヒューマンエラーは裁けるか—安全で公正な文化を築くには— 東京大学出版会 pp.125
(Dekker, S. (2008). Just Culture: Balancing Safety and Accountability. Farnham, UK: Ashgate Publishing.)

後知恵が生み出すバイアス

 後知恵は次のようなバイアスを生む。

・因果関係を簡略化しすぎる(「これがあれにつながった」と)。なぜなら,私たちは結果と理由からさかのぼって,一見それらしい原因を推定することができるからである。
・結果の見込み(とそれを予見する能力)を過大評価する。なぜなら,私たちはすでに自分の手の中に結果をつかんでいるからである。
・規則や手続きに対する「違反」を過大評価する。マニュアルと実際の活動の間には,常にギャップがある(そしてこれはめったにトラブルにつながらない)のだが,私たちが悪い結果を見てから振り返って理由を考えると,そのギャップは重大な原因とみなされる。
・当事者に与えられた情報の,その時点での重要性,関連性を誤判断する。
・結果の前に行った行動と結果とをつり合わせる。もし結果が悪ければ,それをもたらした行動も悪いものだったに違いないと考える。すなわち,チャンスを逃した,見通しが悪かった,判断ミスや見真違いをした,などと。

シドニー・デッカー 芳賀 繁(監訳) (2009). ヒューマンエラーは裁けるか—安全で公正な文化を築くには— 東京大学出版会 pp.116
(Dekker, S. (2008). Just Culture: Balancing Safety and Accountability. Farnham, UK: Ashgate Publishing.)

後知恵バイアスの影響

 結果が悪かったと知ることは,私たちがその結果をもたらした行動をどのように見るかに影響する。私たちは失敗を探そうとする傾向を強める。あるいは過失責任までも探そうとする。私たちは「許されるもの」として行動を見ようとしなくなる。結果が悪くなればなるほど,多くの失敗が目につき,関係者が説明しなければならない様々な事柄を発見する。それは以下の理由による。

・事故後,特に(患者の死亡や滑走路上での大破を伴うような)大事故後には,当事者がいつどこで失敗したのか,何をすべきであったのか,何を避けるべきであったのかを見つけるのは簡単である。
・後知恵を使って,重大だと判明したデータについて,当事者が「これに気づくべきであった」と判断することは容易である。
・後知恵を使って,人々が予見し防ぐべき被害をはっきりと見つけることは容易である。その被害はすでに起きているのだから。このため,人の行動は容易に「過失」の基準に到達する。
・後知恵で責任追及することは非生産的である。外科医同様,他の専門職も組織も悪い結果の説明を可能にする方法に力を入れるだろう。より官僚的になり,こまごました文書を作成し,防衛医療に走るだろう。このような対応は,実際に業務を安全にすることにはほとんど何も寄与しない。
・後知恵バイアスは心理学の定説であるにもかかわらず,インシデント・レポートも司法の手続きも(ともに説明責任に関係のあるシステムなのだが),後知恵バイアスに対して基本的には全く無防備である。

シドニー・デッカー 芳賀 繁(監訳) (2009). ヒューマンエラーは裁けるか—安全で公正な文化を築くには— 東京大学出版会 pp.114-115
(Dekker, S. (2008). Just Culture: Balancing Safety and Accountability. Farnham, UK: Ashgate Publishing.)

失敗が姿を変えると

 ナンシー・ベリンジャーは,医学教育の「隠れたカリキュラム」がどのように働いているかについて述べている。隠れたカリキュラムとは,公式のプログラムと平行して必ず自然発生的に生じる,非公式の徒弟教育である。そこで学生や研修医は,多くは実例を通して,自分自身や同僚の失敗についてどのように考え,人に話すかということを教わる。たとえば,「失敗」に対してどのように記述すると,それがもはや「失敗」ではなくなるかを学ぶ。失敗は以下のようなものに姿を変える。

・「合併症」
・「指示を守らない」患者のせいで
・「明らかに回避不可能な事故」
・「稀に発生する,不可避かつ遺憾な出来事」
・「通常は害のない手順がもたらした,不運な合併症」


シドニー・デッカー 芳賀 繁(監訳) (2009). ヒューマンエラーは裁けるか—安全で公正な文化を築くには— 東京大学出版会 pp.91-92
(Dekker, S. (2008). Just Culture: Balancing Safety and Accountability. Farnham, UK: Ashgate Publishing.)

模倣と相互作用による調整

 面と向かっての会話には,また別のかたちの模倣と相互作用による調整がある。言葉の意味も話す順番も自動的に了解されるが,ここでは同時に起こる身ぶり,視線の方向,体の回転などが,話されていることを理解するするのにとても重要な助けとなる。これらの言葉によらないコミュニケーションは,あっというまに様式化する。対話の中では互いが互いを終始見つめているように感じるかもしれないが,自然発生的な会話を録画したテープを詳細に分析してみると,じつは話し手が話し出したときに,聞き手が話し手の目を見ていることはほとんどない。その直後,聞き手はちらりと話し手の目を見る。この互いに目が合った瞬間に,たいてい話し手は言いかけていた文章を中断して,新たな文章を話しはじめる。それはあたかも,聞き手が相手の目をまっすぐ見ることにより,こう保証しているかのようである。「どうぞお先に。あなたが話す番だから邪魔はしないよ(とりあえず数秒は……)」
 簡単に言えば,会話の中の言葉と行動はどちらも共通の目標をもった組織的な協調活動の一部であり,この対話のダンスは私たちにとって自然でもあり容易でもある。だが,どちらについても伝統的な言語学ではほとんど研究されていない。さらに言うなら,こうしたダンスはまさしく,ミラーニューロンが模倣を通じて促進する社会的相互作用の一種でもある。

マルコ・イアコボーニ 塩原通緒(訳) (2009). ミラーニューロンの発見:「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 早川書房 pp.125-126

関係を続けるコツ

 ゴットマンによると,関係が壊れかけたときに相手の言葉を言い換えたり理解を示したりしても助けにならない。しかも実行には「感情のアクロバット的な操作」が必要で,ふつうの人にはむずかしすぎるという。チームの結論は議論を呼びそうだ。とくにアクティブ・リスニングの考え方を信奉するカウンセラーには受け入れられにくいだろう。だがべつの研究でも,アクティブ・リスニングが人間関係の要であることを裏づける証拠は見つかっていない。
 相手の言葉に耳を傾け,相槌を打つことが円満の秘訣でないとしたら,どうすればいいのだろう。ゴットマンは,長続きするしあわせな男女のカップルは,対立したときのパターンに独特の特徴があると指摘している。女性のほうがたいてい厄介な問題を切り出し,問題について分析をおこない,解決法をいくつか提示する。男性がその案を一部でも受け入れて,パートナーに協力する姿勢を見せると,その後も関係が続く可能性が高い。だが,男性が相手の言葉をはぐらかしたり馬鹿にしたりすると、関係が壊れやすい。

リチャード・ワイズマン 木村博江(訳) (2010). その科学が成功を決める 文藝春秋 pp.183-184

どの財布が戻ってくる?

 私は240個の財布を買い,宝くじ,割引チケット,にせのメンバーズカードなど,ありふれたものを入れた。それに加えて40個ずつ4組,合計160個の財布に4種類の写真を1枚ずつ入れた。笑顔の赤ちゃん,かわいい子犬,しあわせな家族,穏やかな老夫婦の写真である。5組目の40個の財布には持主が最近慈善事業に寄付をしたことを示すカードをつけ加え,6組目の40個の財布にはなにもつけ加えなかった。つけ加えたものは,財布を開いたときにすぐ目につくような透明なビニールの窓の中に入れた。そのように準備した財布をすべてごちゃまぜにしたあと,通行人の多い通りに1つずつこっそり落とした。ただし郵便ポスト,ごみ箱,ゲロや犬の糞から離れた場所を選んだ。
 1週間で52パーセントの財布がもどり,明確なパターンが浮かび上がった。返ってきた財布のうち,6パーセントはなにも加えなかったもの,8パーセントは慈善カードをつけ加えたものだった。老夫婦,かわいい子犬,しあわせな家族の写真を加えた財布が返ってきた割合はそれぞれ11,19,21パーセント。抜群に成績がよかったのは,笑っている赤ちゃんの写真を加えた財布で,なんと35パーセントがもどった。

リチャード・ワイズマン 木村博江(訳) (2010). その科学が成功を決める 文藝春秋 pp.75

傍観者効果

 「傍観者効果」と呼ばれるようになったこの現象について,ラタネとダーリーが調べはじめたのは,キティ・ジェノヴェーゼの殺害を38人もの人が目撃しながら,手を貸そうとしなかった事件が発端だった。だが最近の調査では,当時のメディアが事件を報道する際に,人びとの冷淡さを誇張して伝えた可能性も浮上している。事件を担当した弁護士の1人は,目撃者としてつきとめられたのは6人ほどだったと語っている。しかもそのうちジェノヴェーゼが刺される現場を見た人は1人もなく,事件の最中に警察に通報したと言っている人が,少なくとも1人いるという。だが,当日実際になにがあったにせよ,報道に触発された数々の実験で,助けが必要なとき周囲にいくら人がいてもあてにならない理由が,かなり解明されたことは事実である。

リチャード・ワイズマン 木村博江(訳) (2010). その科学が成功を決める 文藝春秋 pp.65-66

引用者注:Kitty Genoveseは,「キティ・ジェノヴィーズ」とカタカナにされることが一般的でしょう。

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