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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「社会心理学」の記事一覧

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内集団は多様,外集団は均一

内集団と外集団の区別が及ぼすもう1つの影響として,わたしたちは,自分の内集団を外集団よりも多彩で複雑だと考える傾向がある。たとえば,医師,弁護士,ウエイター,美容師を対象とした先ほどの研究では,被験者全員に,それぞれの職業の人が独創性や順応性などの特性についてどれだけ多様であるかを評価してもらった。すると全員が,自分以外の職業の人は自分の内集団に属する人よりもはるかに似通っていると評価した。年齢,国籍,性別,人種,さらには,通っている大学や,所属している女子学生クラブに関しても,同じ結果が得られている。
 そのため,ある研究者グループが指摘しているように,おもに白人体制派向けに発行されている新聞には,「中東問題で黒人の意見が大きく二分」といった見出しが出て,まるで,アフリカ系アメリカ人が全員同じ考えを持たないのはおおごとだといった報じ方をされるが,その一方で,「株式市場改革で白人の意見が大きく二分」といった見出しが出ることはない。

レナード・ムロディナウ 水谷淳(訳) (2013). しらずしらず:あなたの9割を支配する「無意識」を科学する ダイヤモンド社 pp.250
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社会的地位と声の高さ

一方,ある科学者グループが最近発見したところによると,男性は,自分が競争相手に対して優位階層のどこに位置するかを判断し,それに合わせて無意識に声の高さを調節するという。200人の20代男性を対象としたその実験では,1人ひとりに,隣の部屋にいる魅力的な女性とのランチデートを賭けて別の男性と競うよう指示した。競う相手は2つ隣の部屋にいると説明した。
 被験者は女性とデジタルビデオ映像で話ができるが,競う相手と話をするときには声しか聞こえず,姿を見ることはできない。実際には,競う相手も女性も研究者の仲間であり,決められた台本に従っていた。被験者は,自分がほかの男性に尊敬または評価されている理由を,女性および競争相手と話し合うよう指示された。そして,バスケットボールコートでの優れた技量や,ノーベル賞を受賞できる潜在能力,あるいはアスパラガスキッシュをつくる腕前について本音を話しはじめたら,そこで会合を打ち切り,被験者に,自分自身と競争相手と女性を評価するいくつかの質問に答えてもらう。そして被験者には退散してもらう。悲しいかな,誰も勝者には選ばれない。
 研究者たちは男性被験者の声の録音テープを解析し,また質問票に対する答えを精査した。質問票を使って調べた事柄の1つは,被験者が,競争相手と比べて自分の肉体的優位をどのように評価したかである。自分のほうが肉体的に優位である—つまり力が強く攻撃的である—と考えたときには,声の高さを下げ,相手のほうが優位であると考えたときには声の高さを上げたが,いずれの場合にも,自分がそうしていることには気づいていないようだった。

レナード・ムロディナウ 水谷淳(訳) (2013). しらずしらず:あなたの9割を支配する「無意識」を科学する ダイヤモンド社 pp.191-192

視線と社会的優位性

わたしたちは,相手の目を見る時間を自分の相対的な社会的地位に合わせて機械的に調節するが,それをふつうは,自分ではそうしていると気づかずにやっている。ちょっと信じられない話に思える。どんな相手でもじっと目を見つめようとする人もいるかと思えば,CEOと話すときでも,あるいは近所のスーパーでバッグに鶏もも肉のパックを放り込もうとしている子供に話しかけるときでも,つねに視線を逸らしがちな人もいる。では,どのようにすれば,凝視行動を社会的優越性と関連づけられるだろうか?
 それは,しゃべっている相手を見つめる全体的な傾向ではなく,聞き手と話し手の役割を切り替えたときに自分の行動をどのように調節するかにある。その行動は1つの数値的指標として特徴づけることができ,それを使って心理学者は注目すべきデータを導き出している。
 その指標を計算するには,自分が話しているときに相手の目をどれだけの時間見ているか,その割合を求め,それを,自分が話を聴いているときに同じ相手の目を見ている時間の割合で割る。たとえば,自分と相手のどちらが話しているかに関係なく,同じ時間だけ目を逸らせば,この比は1.0となる。しかし,相手の話を聴いているときよりも自分がはなしているときのほうが,より多く目を逸らす傾向があれば,この比は1.0より小さくなる。聴いているときよりも話しているときのほうが目を逸らす時間が短ければ,1.0より大きくなる。
 この比は重要な意味を持っていることが,明らかとなっている。これは「視覚的優越性比率(visual dominance ratio)」と呼ばれ,社会的優位階層のなかで自分が会話の相手に対してどのような位置にいるかを反映している。相手に比べて社会的優位性が高い人では,視覚的優越性比率は1.0近くか,またはそれより大きい。1.0より小さいと,優位階層のなかで低い位置にいることがうかがわれる。要するに,視覚的優越性比率が1.0かそれより高い人はおそらくボスであり,0.6近辺の人はおそらく部下であるといえる。

レナード・ムロディナウ 水谷淳(訳) (2013). しらずしらず:あなたの9割を支配する「無意識」を科学する ダイヤモンド社 pp.175-176

目撃証言は不正確

これを真似たある実験では,ごった返した科学の会合に,それを追って銃を持った男が駆け込んでくる。男とピエロは言い争って喧嘩を始め,銃を発射して部屋から出て行く。すべて20秒以内に起こる。科学の会合にピエロが登場したという話は聞いたことがなくもないが,実際にピエロの衣装を着ていることなどめったにないのだから,聴衆は,この事件が芝居であることに気づいて,その理由も見抜けると考えて差し支えないだろう。
 ところが,目撃者はのちほど質問されることに気づいていたというのに,その報告はひどく不正確だった。報告のなかでは,ピエロの服装がそれぞれ大きく異なっていたり,また,銃を持った男がかぶっていた派手な帽子について細かく説明されていたりした。当時,帽子は一般的なものだったが,銃を持った男は帽子をかぶっていなかった。

レナード・ムロディナウ 水谷淳(訳) (2013). しらずしらず:あなたの9割を支配する「無意識」を科学する ダイヤモンド社 pp.84

自己成就予言

予測が自ら実現することを「自己成就予言」という。一例に大統領予備選挙がある。多数の候補者が立候補している選挙戦で世論調査が発表されたときに,この現象が見られることがある。有権者は自分の票を無駄にせず,勝てそうな候補者を支援したいと思う。そんなときに世論調査が発表されれば,どの候補者に投票すればいいかという指標となる。2012年,アイオワ州の共和党党員集会では,最終段階になってCNNが,リック・サントラムの支持率が前回から約10パーセント伸びて16パーセントになったという調査結果を発表した。この発表以前にサントラム優勢という結果を示した調査がほかになかったことを考えれば,統計的には外れ値だったかもしれない。しかし,この世論調査のおかげでサントラムに好意的なマスコミ報道が増え,有権者のなかにはイデオロギー的に近いミシェル・バックマンやリック・ペリーからサントラムに乗りかえる人が出てきた。やがて世論調査は自らの運命を実現した。サントラムがアイオワ州を制したのである。

ネイト・シルバー 川添節子(訳) (2013). シグナル&ノイズ:天才データアナリストの「予測学」 日経BP社 pp.237-238

認めてほしいこと

誤解のないように付け加えておくが,個人を役割の複合体として見るということは,人間を操り人形のようなものとして見るということではない。人間は社会からの要請(期待)という意図に操られてただ手足を動かすだけの存在ではない。人間には内的な欲求がある。それを充足するために行為しているのだ。内的な欲求といっても生理的な欲求だけではない。それなら人間以外の動物にもある。人間に固有な欲求として社会的な欲求がある。その最たるものは他者からの承認欲求であろう。他者から認めてほしいという欲求である。何を認めてほしいのかというと,それは次の三つに要約することができる。
 第一に,「私はまともな人間である」ということ。これは公共的な場面でとくに重要なものである。電車の中で,喫茶店で,路上で,図書館で,映画館で……,私たちは「おかしな人」「怪しげな人」「不審な人」「危ない人」「非常識な人」などと他人から見られないように気を付けている。気を付けているといっても必ずしも意識しているということではない。意識していることを忘れるほど意識の深いレベルで私たちは気を付けている。私が喫茶店でウェイトレスに内面のイライラをぶつけないのは,「喫茶店の客」としての社会からの要請のためであるが,同時に,それは「私はちゃんとした客である」=「私はまともな人間である」と喫茶店の人々(従業員や他の客たち)から認めてほしいからである。
 第二に,「私は有能な人間である」ということ。これは学校や職場といった労働的な場面で重要なものである。学生は教師や他の学生たちから「優秀な学生」「熱心な学生」として認められたいと思っている。サラリーマンは上司や同僚から「仕事のできる人」として,レストランの料理人は客から「腕のいい料理人」,医者は患者から「名医」「いい先生」として認められたいと思っている。プロ野球の一流選手が税金で多くを持っていかれることを承知で年俸アップにこだわるのは,その学がプロとして自分の評価を表すものであるからだろう。主婦にとっての家事労働にも同じことが言える。賃金を伴わない労働(不払い労働)ではあるけれども,「料理の上手な主婦」「家計のやりくりが上手な主婦」として認められたいのである。「だめな学生」「仕事のできない社員」「やぶ医者」「だめな主婦」として見られることはなんとしても避けなければならない。
 第三に,「私は愛されるべき人間である」ということ。これは家族や友人や恋人といった私的な人間関係の場面において重要なものである。「私は有能な人間である」というのが自分の能力についての承認であるとすれば,「私は愛されるべき人間である」というのは自分の人柄(人格)についての承認である。前者は社会的評価を求め,後者は他者の愛情(好意)を求めるものである。私たちは人から「優しい人」「素敵な人」「いい奴」「かわいい人」「大切な人」として認められたいと思っている。「私は有能な人間である」ことを認められたからといって,「私は愛されるべき人間である」ことを認められるとは限らない。二つのことは,まったく無関係とはいえないが(仕事のできる人を好きになる場合もあるから),基本的には別のことである。「社会的には成功するが,誰にも愛されることのない人生」と「社会的には成功しないが,自分を愛してくれる人のいる人生」とどちらを選ぶかと質問されたら,たぶん,ほとんどの人は後者を選ぶのではないだろうか。これは好みの問題というよりも,そう答えることを期待されているからである。現代社会は愛情に至高の価値をおく社会,愛情至上主義社会なので,愛情よりも成功を選ぶ人間は「変わった人」と見られがちである。すなわち「私はまともな人間である」という自己呈示に失敗してしまうのである。

大久保孝治 (2013). 日常生活の探求:ライフスタイルの社会学 左右社 pp.47-49

他人の目

やはり,現代人が最も取り憑かれているのは,他人の目だろう。これは言葉どおり,他人が実際に見ているわけではない。ただ自分で,自分がどう見られているかを気にしすぎているだけだ。
 全然気にしないというのは,やや問題かもしれないが,現代人は,この「仮想他者」「仮想周囲」のようなものを自分の中に作ってしまっていて,それに対して神経質になっている。そのために金を使い,高いものを着たり,人に自慢できることを無理にしようとする。いつも周囲で話題にできるものを探している。その方法でしか,自分が楽しめなくなっている。
 金を使えば,仮想他者の評価が一時的に手に入るかもしれない。実際には,そういう幻想を自分で抱くだけだ。そしてそのあとには,無駄に使った金や時間のツケが待っている。そこで,自分はいったい何を楽しみに生きているのか,と気づくのである。

森博嗣 (2013). 「やりがいのある仕事」という幻想 朝日新聞出版 pp.197

自信と的中率

 カリフォルニア州立大学バークレー校のフィリップ・テトロックが実施した有名な実験がある。テトロックはテレビで解説する専門家たち——かぎられた情報を元に長々としゃべることで生計を立てている人々——による経済や政治の予測が当たる確率は素人の予測が当たる確率よりも低いことを,実験から発見したのだ。そのうえ,的中率がもっとも低いのは,もっとも有名で自信満々な専門家だった——つまり,HBS(引用者注:ハーバードビジネススクール)の教室で生まれながらのリーダーとみなされるような人々だ。

スーザン・ケイン 古草秀子(訳) (2013). 内向型人間の時代:社会を変える静かな人の力 講談社 pp.72
(Cain, S. (2012). Quiet: The power of introversion in a world that can’t stop talking. Broadway Books: St. Portlamd, OR.)

集団思考

1972年に心理学者アーヴィング・ジャニスがピッグス湾侵攻の失敗を例にとって説明したように,集団思考は,活動の成否が組織の団結力に大きく左右される集団——戦場で闘う兵士たちはまさにこれに当たる——においていつ発生してもおかしくない組織的病理である。その症状は,おおむねつぎのようなものだ——どれほど困難な状況にも対応できるという意思決定者の幻想,グループには倫理観が存在するという思い込み,組織の考え方に同調しないメンバーのステレオタイプ化,そして,合理的に物事を掘り下げることを阻害する過度に単純化された精神構造。やがて自称「思想の番人」が組織を巡回し,反対意見の拡散を食い止め,異端者に圧力をかけ,たとえ水面下では異論が渦を巻いていようとも,組織は一枚岩であるという錯覚を醸しだすのだ。もしも戦場で,このようにして認識の多様性が失われ,画一化した組織文化がはびこったとすれば,兵士は命を落とし,戦場は長期化しかねない。

アンドリュー・ゾッリ,アン・マリー・ヒーリー 須川綾子(訳) (2013). レジリエンス 復活力:あらゆるシステムの破綻と回復を分けるものは何か ダイヤモンド社 pp.265

弱いきずな

社会的ネットワーク理論の観点から見ると,ネットワークには「弱いきずな」と「強いきずな」があると言われている。親しい友人や家族との関係は,経験の共有,深い信頼,相互依存,さらには相互の働きかけに支えられており,一般的に強いきずなだ。同じ仲間の鳥が群れをなす(研究者はこれを同種親和性と呼ぶ)ように,強いきずな,特に遺伝的要因よりも自らの選択によって結ばれる他人とは,多くのものを共有している。私たちは,そういった相手を同じ部族に属する仲間とみなす。反対に弱いきずなとは,仕事上のつきあい,強いきずなを通して間接的に知り合った人,友達の友達など,より距離感のある他者との関係をいう。
 この理論を確立したのは,スタンフォード大学の社会学者マーク・グラノヴェッターだ。彼は1973年,多数の転職希望者から聞き取りを行い,新しい仕事に落ち着くまでの過程で社会的ネットワークが果たした役割を探った。その結果,調査対象者の大半が,じつのところ弱いきずな(親しい友人ではなく,知り合い)を通して仕事を見つけたことがわかった。この発見を機に,社会学とネットワーク理論の分野で弱いきずなの有効性に関心が集まった。その後の研究は,社会的移動性やイノベーションの拡散のさまざまな局面で弱いきずなが重要であることを明らかにした。「弱いきずなは社会的ネットワーク内の非常に異なるグループに属する人々を結びつけるため,例えば,人材需要がどこにあるかといった最新情報を素早く探索する時に有用です。自分や直接の友人がもち合わせていない情報に手が届く可能性が広がるからです」。ニューヨーク大学の情報経済学者シナン・アラルは説明する。「弱いきずなは,社会構造のなかで人々の結束が希薄になっている領域をカバーしてくれます。これは,とりわけ危機的な状況において情報を伝達するうえで重要です」

アンドリュー・ゾッリ,アン・マリー・ヒーリー 須川綾子(訳) (2013). レジリエンス 復活力:あらゆるシステムの破綻と回復を分けるものは何か ダイヤモンド社 pp.245-246

怒りと嫌悪

 怒りを覚える状況と,嫌悪感を覚える状況の違いは,共通の表現から判断することができる。アリゾナ大学のロビン・ナビは,大学生らに,“怒っている angry”“むかつく disgust”“げんなりする,ぞっとする gross out”で表現できる感情をいだいた時のことを記述するように指示した。怒った時のことを書くようにいわれた学生は全員,自分が,何らかの手段で干渉されたり危害を加えられたりした時の出来事を記述した。ところが,「むかついた」体験を報告するようにいわれた被験者の75%は,怒りが引き起こされたのとまったく同じタイプの出来事——たとえば不公平な扱いを受けたことや他人の行動に気を悪くしたことや,スキャンダルを書き立てられたことや騙されたことを挙げた。ところが,「ぞっとした」体験を書くようにいわれた学生の92%が,体液や死や昆虫に関する出来事について報告していた。つまり,むかついた状況を書くようにいわれた時に,怒っているときと異なるタイプの出来事について報告したのは25%だけだったということになる。このことからは,「むかついた」という時には,怒っていることが多いとわかった。「ぞっとした」という表現は,実際に吐き気を催すようなかなり限定したシチュエーションで使われるが,「むかついた」は実はそうではないことがわかった。

レイチェル・ハーツ 綾部早穂(監修) 安納令奈(訳) (2012). あなたはなぜ「嫌悪感」を抱くのか 原書房 pp.284

呪いを信じたくなるのは

 私たちがなぜ,呪いを信じたくなるのかについて,進化学の観点から説明するとこうなる。「怪しい」サインに対してより用心深く反応した祖先のほうが,たとえば木の葉がたてるサラサラという音を聞いてそれが幽霊なのか,風なのか,敵が跡をつけてきたのではないかと考えた祖先のほうが,何も気に留めなかった祖先よりも長く生き延びた。同じように,破滅の兆候となるサインに気を配り,警戒して暮らした祖先は,自分の姿をかたどった人形がピンクッションにされていても気にしなかった祖先よりも長生きしたのである。

レイチェル・ハーツ 綾部早穂(監修) 安納令奈(訳) (2012). あなたはなぜ「嫌悪感」を抱くのか 原書房 pp.153-154

嘘を見分ける方法

 嘘を見分ける方法は3つある。1つは,相手が“言わない言葉”に注目すること,2つ目は相手が口にする言葉に注目すること,そして3つ目は血圧,心拍数,手のひらにかく汗といった,かすかな生理的変化に注目することだ。この3つ目の方法を担うのは,嘘発見器と誤って呼ばれることの多いポリグラフである。ポリグラフは嘘発見器ではなく,何の罪も犯していない人でも何らかの理由で緊張していたり,イライラしているときに示すわずかな生理的変化を測定する装置。したがって,被験者の扱いと測定値を解釈する技術に長けた検査者が扱ってはじめて,その人が嘘をついているかどうかを判断できる。それでも主観的解釈にならざるを得ず,手順に関しても批判が多いため,ポリグラフ検査の精度は議論の的となっている。

ダレン・ブラウン メンタリストDaiGo(訳) (2013). メンタリズムの罠 扶桑社 pp.312-313

死を暗示させると

 プライミングに関する研究データは,国民に死を暗示すると,権威主義思想の訴求力が高まることを示唆している。死の恐怖を考えると,権威に頼るほうが安心できるからだ。また,無意識の連想において象徴と隠喩が果たす役割を指摘したのはフロイトだが,実験によってこの知見も確認されている。たとえば,「W( )( )H」と「S( )( )P」という虫食いの単語が並んでいるとしよう。この単語を完成させる実験で,直前に何か恥ずかしい行為を考えるように指示された被験者は,「WISH」と「SOUP」よりも「WASH」と「SOAP」を選ぶ確率が高くなる。それどころか,同僚の背中を突き刺すことを考えただけで,その人は電池,ジュース,チョコレートよりも,石けん,消毒液,洗剤を買いたくなる。これは,自分の魂が汚れたという感覚が,体をきれいにしたいという欲求につながるからだと考えられる。このような衝動は「レディ・マクベス効果」と呼ばれている。
 洗うという行為は,罪を犯した身体の部分と密接に結びついている。ある実験では,被験者が架空の人物に電話またはメールで「嘘」をつくよう誘導される。その後に何が欲しくなるかを調べたところ,電話で嘘をついた被験者は石けんよりうがい薬を,メールで嘘をついた被験者はうがい薬より石鹸を選んだ。

ダニエル・カーネマン (2012). ファスト&スロー:あなたの意思はどのように決まるか?(上) 早川書房 pp.83-84

儀礼的無関心

 公の場でプライバシーを守るためには,アメリカの社会学者,アーヴィング・ゴフマンが言う「儀礼的無関心」が必要だ。つまり,他人のなかでの暮らしを耐えうるものにするための技術である。彼らがそこにいることを認識はしているが,あらゆる手段を使って,知らないふりをするのだ。あらゆる種類の排泄の音が自分のものであると悟られないために,個室に長々と留まっていた経験のある人はどのくらいいるだろう?新しい恋人がいるベッドルームからあまりにも近すぎるホテルのトイレで,身の縮む思いで用を足したことがある人は?わたしはある。そしてこれからもあるだろう。
 現代のプライバシーという概念は,トイレのドアと同じくらい確固たるもののように思われているが,じつはこの言葉の歴史は浅い。ノルベルト・エリアスは,その著書『文明化の過程』で,工業化が進んだ社会に住む人々は,長い間にいつのまにか,ある種の行為を他者の目を逃れて行いたいという抑えがたい欲求を抱くようになった,と述べている。そして,これは必ずしも進歩とは見なせない,と彼は記す。現代の習慣のなかには,わたしたちの祖先をぞっとさせるものがたくさんある。

ローズ・ジョージ 大沢章子(訳) (2009). トイレの話をしよう:世界65億人が抱える大問題 日本放送出版協会 pp.197-198

先延ばし=ドラッグ

 先延ばしを薬,ドラッグの一種だと考えてみよう。気分を変えてくれる薬,若干依存性があって,大量に摂取すると有害で,一種の変性意識の状態,つまりうろうろふらふらする特殊な気分に導いてくれる薬だ。こういう見方をすると,先延ばしは自己コントロール問題の主流にどっかりと座ることになる。自己コントロールの問題の多くには,自己治療という大きな要素があるからだ。よくわかる例がドラッグ依存やアルコール依存だが,強迫性障害も不健康な行動パターンによって,たとえ一時的であれ不安を解消しようとしている。ドアの鍵や蛇口をもう一度確認したいという思いはかゆみのようなもので,かけばそのときはすっきりする。
 仕事をしなければならないと思うと不安になったり落ち込んだりするときには,自己治療したくなるのも無理はない。だから先延ばしは気分転換の技術なのだが,ただし(食べたりドラッグを使用したりするのと同じで)近視眼的ではある。だが,それで気分が良くなると思えば,どうしたって先延ばししたくなるだろう。自己コントロールに関してはアメリカで有数の研究者である心理学者ロイ・バウマイスターと2人の共同研究者が88人の大学生を対象に調査を行なっている。大学生たちはアロマテラピーと色彩が気分に与える影響を調べる実験だと告げられた。また数学を含む知能テストもすると知らされ,10分から15分練習すると点数が上がると言われた。しかし準備の時間は好きなように使っていい。部屋にはさまざまな「暇つぶしの道具」が備えられていた。
 学生たちの一部はつまらない「暇つぶし」(幼稚園生対象のパズルや古い技術雑誌など)しか与えられなかったが,別の学生たちにはおもしろい「暇つぶし」(ビデオゲーム,やりがいのあるプラスチック製パズル,人気のある雑誌の最新号など)が与えられた。それから学生たちは気分が良くなる,あるいは悪くなる文章を読むように指示された。また一部の学生は確実に気分を鎮める効果があるキャンドルの香りを嗅いでくれと言われた。もともとアロマテラピーに関する調査ということになっていたからだ。
 この実験から何がわかったか?いちばん先延ばしがひどかったのは,気分が悪くなっていて,しかも嫌な気分を変えることができると考え,さらにおもしろい「暇つぶし」の道具を与えられた学生だった。このグループの学生たちは15分の準備時間のうち14分をサボって過ごした!自分の嫌な気分は変わらないと思った(気分を良くするキャンドルを与えられなかった)学生がサボった時間は6分未満だった(気分が良くなった学生でも,気分を変えられると思った者はもう少しサボった時間が長かった)。
 この実験からわかるのは,私たちが先延ばししてサボることで気分が良くなると思っていることだ。だがこの治療法は病気よりも始末が悪い。仕事を先延ばしにすると,ふつうはますます不安になり,落ち込む。仕事にとりかかったと考えてみよう。eメールをチェックするのも,ほかの一時的な気晴らしを選ぶのも自由だ。だがデスクからは離れない。キーボードを前にしている!それでも目の前にある抜け道を通り,『フィナンシャル・タイムズ』の記事を読んだり,eBayで格安商品を探したりして気晴らしをしたくなる。劣等感について解明してくれた偉大な心理学者アルフレート・アドラーは,神経症とは「無意識の抑圧ではなく,手に負えない作業を回避しようとする意図的な策略である」と考えていた。この基準からすれば,先延ばしはまさに神経症だろう。

ダニエル・アクスト 吉田利子(訳) (2011). なぜ意志の力はあてにならないのか:自己コントロールの文化史 NTT出版 pp.277-279

先延ばし

 安心していい。先延ばしはどこにでもある。デポール大学の心理学者ジョゼフ・フェラーリは先延ばしの研究で業績をあげた人だが,アメリカ,オーストラリア,ペルー,スペイン,トルコ,それに英国で調査を行い,先延ばしに関してはとくに国民差はないことを発見した。動物にさえ,先延ばしをするものがいる。そして自己コントロールに関連する事柄の多くがそうであるように,ここでもドーパミンが一役演じているらしい。

ダニエル・アクスト 吉田利子(訳) (2011). なぜ意志の力はあてにならないのか:自己コントロールの文化史 NTT出版 pp.274

コレクションと恐怖管理理論

 コレクターの多くは,自分のコレクションが子孫や孫の世まで伝えるべき遺産であると考えている。中には,とくに芸術品や歴史的な工芸品に関して自分のコレクションを博物館に寄贈したり,自分の博物館を造ったりすることで,後世に残そうとする人もいる。ここから,モノの収集はある種の不死の形を作ることであり,それによって死への恐怖を抑えるための方法なのではないかと考える専門家もいる。この考え方は,社会心理学で恐怖管理理論(TMT)として広く知られている理論と一致する。TMTは,人も他の動物と同じく死を免れないという,存在に関する受け入れがたい事実から生まれた。しかし,他の動物とは異なり,人間は自分がいつか死ぬことを知っている。だから自分がいつか死ぬこと,そしてそれがいつなのかを予測できないことで,恐怖に怯えることになる。さまざまな文化において,この潜在的な恐怖を管理するために,教義や儀式,その他の秘策が用意されている。そのひとつが,人は死んでも,その一部が生き続けるという考えだ。価値あるモノを作ったり集めたりするのは,それを達成するための方法のひとつである。つまりモノを収集することが不死への可能性を開くことになるのだ。

ランディ・O・フロスト ゲイル・スティケティー 春日井晶子(訳) (2012). ホーダー:捨てられない・片付けられない病 日経ナショナルジオグラフィック社 pp.74-75
(Frost, R. O. & Steketee, G. (2010). Stuff Boston: Houghton Mifflin Harcourt)

悪口

 人の悪口を言うことにはいくつかの利点がある。一緒に誰かの悪口を言うことによって,その場にいる人たちの連帯感が強まることがあるからだ。また上司などの悪口を言って鬱憤を晴らせば,ストレスの解消にもなる。
 だが,もちろん,悪口を言うことには欠点もある。悪口を言うというやり方であまりにも安易にストレスを解消してしまうと,率直に意見を言って,問題を根本から解決することができなくなってしまうからだ。同僚の悪口を言うくらいなら,直接本人に意見をぶつけたほうがいい場合がたくさんある。
 とりわけ相手が妄想性の性格の人の場合は,その人の悪口を言うことは大きな危険を冒すことにつながる。妄想性の性格の人は,誰かが自分に悪意を持っているのではないかとつねにアンテナを張っている。したがって,悪口を言ったりすれば,必ずわかってしまうのだ。そうなったら,今度はあなたのほうがあることないこと悪い噂を流されるのを覚悟したほうがよい。

フランソワ・ルロール&クリストフ・アンドレ 高野 優(訳) (2001). 難しい性格の人との上手なつきあい方 紀伊國屋書店 pp.77-78
(Lelord, F. & Andre’, C. (1996). Comment gérer les personnalités difficiles. Paris: Editions Odile Jacob.)

ジョストによれば

 危機感が大きければ大きいほど,私たちは見慣れたものにしがみつく。家庭料理が食べたくなるときのことを考えてみるといい。ほかの条件が同じであれば,危機感にさらされている人は自分が属する集団,大義,価値観に普段にも増してこだわる。実験によると,人びとに自分の死について考えるように促すと(「あなたが実際に死んだとき自分はどうなると思うか,できるだけ具体的に書いてください」というふうに),自分と宗教や人種を同じくする人にはいつもより優しくなるが,外部の人に対してはより否定的になる。死の恐怖に直面すると,政治的あるいは宗教的信念も極端になる。自分のいずれは死ぬと意識させられた愛国的アメリカ人は,星条旗をふるいの代用に使うことに対して「対照群の愛国的なアメリカ人に比べて」より高い抵抗感を示した。自分の死について考えるように促された敬虔なキリスト教徒は,十字架をハンマーとして使うことに対してより強い反感を示した(慈善団体のみなさんは,覚えておくといい。私たちは自分の死について考えさせられた後は財布の紐を緩めがちになるのだ)。別の研究では,危機的な状況下では,人はマイノリティー集団に対してより否定的になるとわかった。不思議なことに,このことはマジョリティーの人びとだけでなく,マイノリティーの人びと自身についても当てはまる。
 さらに言えば,人を自己の利益を大きく損なうような政策に賛同させる,あるいは少なくとも承認させることも可能だ。心理学者であるジョン・ジョストの弁によれば,「封建主義,十字軍,奴隷制,共産主義,アパルトヘイト,タリバンのもとで生きた人びとの多くは,自国の体制は不完全だが,道徳的には認められるものであり,[ときには]他の選択肢よりもよいとすら信じていた」。要するに,心の汚染はきわめて深刻な問題なのである。

ゲアリー・マーカス 鍛原多恵子(訳) (2009). 脳はあり合わせの材料から生まれた:それでもヒトの「アタマ」がうまく機能するわけ 早川書房 pp.75-76

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