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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「社会心理学」の記事一覧

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面接を成功させるには

 ヒギンズとジャッジは大学卒業後の就職活動にのぞんだ100人以上の学生を対象に調査をおこなった。2人はまず学生たちの履歴書に目を通し,たいていの雇い主が採用条件の二大要素としている,仕事への適性と経験について調べた。そして就職試験で面接を終えた学生たちに,面接での対応についてアンケートに答えてもらった。内容は自分の長所をアピールできたか,会社に対する興味を示したか,求められている人材について面接官に質問したかなどである。研究チームは面接官とも連絡をとり,いくつかの点を確認した。応募者の面接での態度,会社への適性,仕事に必要な能力,そして最も重要な採用結果などを訊ねたのだ。
 集めたデータを分析した結果,研究チームは雇い主が人を採用する決め手について,これまでの説がまちがっていたことを,意外な事実とともに発見した。採用の決め手は適性か,それとも経験か。じつはどちらでもなかった。だいじなのはただ1つ。応募者の好感度だった。感じのいい印象をあたえた応募者は合格の割合が高かった。彼らはいくつかの方法で面接官を惹きつけ,売込みに成功していたのだ。
 その方法とは。仕事とは無関係だが,自分と面接官がたがいに興味をもてる話題で盛り上がる。笑顔を浮かべ,相手と目をあわせる。会社をほめる。この積極性の連続攻撃が,効力を発揮した。これほど感じがよくて社交性のある人材なら,職場にもすぐ溶けこむはずだと面接官が確信し,採用になったのだ。

リチャード・ワイズマン 木村博江(訳) (2010). その科学が成功を決める 文藝春秋 pp.45
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起こるか,起こらないか

 普通,人間は二元的な思考をする。たとえば何かが起こるのだろうか,起こらないのだろうか。それは自分に影響を及ぼすのだろうか,及ぼさないのだろうか,などと。だから転倒による死の可能性は10万分の6だと聞けば,「わたしの身には起こらない」と決めつけて,そのリスクを棚上げしてしまう。実際には合衆国の不慮の死のなかで転倒は(車の衝突事故と中毒に次いで)3番目に多い死因であっても。これにはグラント・シールの話をすればはるかに説得力があるだろう。3歳の男の子グラントは,2007年2月に自宅で遊んでいて転倒し,花瓶にぶつかって怪我をした。そのときの怪我がもとで,よちよち歩きの幼児は死亡した。あるいはパトリック・ぜゾースキーの話はどうだろう。19歳のパトリックは,自宅付近を歩いていてグラントと同じく2月に転倒して頭を打った。彼の場合は,その場で死を宣告された。こういった死は,比較的よく起こるという事実があるにもかかわらず,ニュース記事ではたいていいつも「変わった事故」だと評される。

アマンダ・リプリー 岡真知子(訳) (2009). 生き残る判断 生き残れない行動:大災害・テロの生存者たちの証言で判明 光文社 p.101

警告する側に必要なこと

 ではわたしたちは現実から目をそむけたがる最悪の本能をどうやって抑制すればいいのか?何よりもまず,警告を出す側が,敬意を持って私たちを遇すべきである。警告が単に何をすべきかではなく,なぜそうすべきなのかを説明している例がめったにないのは驚くべきことである。いったんこの問題に気づけば,いたるところでそういう例を見かけるだろう。実際のところ,人々が危険度を測りまちがえるのは,第1に,わたしたちを守る任務についている人たちの,わたしたちに対する不信感が広く浸透しているからだとわたしは思う。彼らは「果ての国」のわたしたちの護衛者であるのに,わたしたちときちんと向き合っていないことがしばしばなのだ。
 たとえば,酸素マスクが飛行機の天井から落ちてきたら,どうやってそれをつけるかを客室乗務員が説明するのを聞いたことがあるだろう。「ほかの人たちを手伝う前に,ご自分のマスクをしっかりつけてください」と,警告される。だが客室乗務員はなぜそうすべきかを伝えない。急速に気圧が低下している場合にそういうことを言われるのを,想像してもらいたい。意識を失うまでに10秒から15秒しかないだろう。つまり,そういうことなのだ。そのときはじめて,自分の子供を手助けする以前に,なぜ自分のマスクをつけるべきなのかわかるかもしれない。まず自分のマスクをつけないと,「これ,何の役に立つの?」などと言う暇もなく,親子ともども意識を失うことになるだろう。たちまち警告が煩雑な法律用語のようではなく,常識的な意味合いを帯びて聞こえてくる。そうなれば動機づけになる。

アマンダ・リプリー 岡真知子(訳) (2009). 生き残る判断 生き残れない行動:大災害・テロの生存者たちの証言で判明 光文社 p.97

人間は理性的ではない

 今日では,意思決定を研究しているほとんどの人々が,人間は理性的でないということに同意している。「わたしたちはリスク測定者のようにあれこれやらない——計算をしたり,可能性を増やしたりしない。そういうのが誤りであることが証明されてきた」と,ポール・スロヴィックは述べている。彼はオレゴン大学の心理学教授であり,世界的な評価を得ているリスク研究の権威である。計算の代わりに,人間は2つの異なったシステムに頼るのだ。すなわち直観と分析である。直観システムは,無意識で,すばやく,感情的で,経験やイメージによって大きく揺れ動く。一方,分析システムは脳の本能的な衝動に対して,自己を現実に適応させるように働きかけ,論理的で,慎重で,現実的である。
 1つのシステムがもう1つのシステムより優先される場合もあり,それは状況次第である。たとえば,次の問題について考えていただきたい。

 コーヒーとドーナツは合計で1ドル10セントである。コーヒーはドーナツより1ドル高い。ドーナツの値段はいくらか?

 最初に出した答えが10セントなら,答えているのはあなたの直観システムだ。それから考え直して正しい答え(5セント)に到達したら,それはあなたの分析システムが直観を支配下に置いたのである。

アマンダ・リプリー 岡真知子(訳) (2009). 生き残る判断 生き残れない行動:大災害・テロの生存者たちの証言で判明 光文社 pp.78-79

重要なのは動機づけ

 ハリケーン「カトリーナ」のあと,680人のニューオーリンズの住民を対象にした世論調査で,なぜ嵐の前に避難しなかったのかという質問がなされた。回答はさまざまだった。実際に移動手段がなかったという回答は50パーセントを少し超えた。だがそれは最大の理由ではなかった。それほどひどい嵐だとは思わなかった,という回答がもっとも多く,64パーセントにのぼったのだ。実際,「ヘンリー・J・カイザー・ファミリー財団」や「ワシントン・ポスト」紙のために行われた調査結果によれば,避難しなかった人たちの半数は,本当にそうしたいと思えば立ち去る手段を見つけることができた,と振り返っている。つまり,重要なのは移動手段よりも動機づけだったのだ。

アマンダ・リプリー 岡真知子(訳) (2009). 生き残る判断 生き残れない行動:大災害・テロの生存者たちの証言で判明 光文社 pp.71-72

災害で従順に

 実際に災害に直面すると、群集は概してとても物静かで従順になる。もちろん,9・11に階段にいた人たちはだれも,タワーが崩壊するとは思っていなかった。もしそのことを知っていたら,彼らがどんな行動をとったかは,知るよしもない。だが明らかにもっと悲惨な状況においてさえ,群集はいわれのないパニックに陥ることはない。たいてい,人々は一貫して整然としていて——親切である。普段よりもずっと親切になる。体重が135キロを超えているゼデーニョの同僚の1人は,車椅子に乗っていた。彼は1993年にも2001年にも,69階で働いていた。どちらのときも,彼の同僚は車椅子の男を抱えて延々と階段を降りていったのである。

アマンダ・リプリー 岡真知子(訳) (2009). 生き残る判断 生き残れない行動:大災害・テロの生存者たちの証言で判明 光文社 p.45

正常性バイアス

 なぜわたしたちは避難を先延ばしするのだろうか?否認の段階では,現実を認めようとせず不信の念を抱いている。我が身の不運を受入れるのにしばらく時間がかかる。ローリーはそれをこう表現している。「火事に遭うのは他人だけ」と。わたしたちはすべてが平穏無事だと信じがちなのだ。なぜなら,これまでほとんどいつもそうだったからである。心理学者はこの傾向を「正常性バイアス」と呼んでいる。人間の脳は,パターンを確認することによって働く。現在何が起こっているかを理解するために,未来を予測するために,過去からの情報を利用する。この戦略はたいていの場合うまくいく。しかし脳に存在していないパターンに出くわす場合も避けられない。言い換えれば,わたしたちは例外を認識するのは遅い。しかもピア・プレッシャー[仲間集団からの社会的圧力]の要因もある。だれだって不吉な前兆を経験することがあるが,たいていは事なきを得るものだ。違った行動をすると、過剰適応を受けて周囲を混乱させるリスクがある。だからわたしたちは控えめな反応をするという過ちを犯す。

アマンダ・リプリー 岡真知子(訳) (2009). 生き残る判断 生き残れない行動:大災害・テロの生存者たちの証言で判明 光文社 pp.40-41

確証バイアスと科学コミュニティ

 この人間の非合理的なふるまいは,学術的に「確証バイアス」と呼ばれている。自分の信念を支持する証拠はもっともらしく,自分の信念に反する証拠は怪しく見える心理的なクセがあるのだ。投稿された論文の査読者は,つねに自分の信念に照らして判断していることが,社会心理学の調査でたびたび裏づけられている。ある仮説に同意している査読者は,その仮説に肯定的な結果を示している論文の価値を高く評価する一方,同意していない査読者は,同じ論文に誤りがあると判断する傾向がある。前者の査読者は掲載を勧めるのに,後者は掲載を拒絶するのである。最終判断は編集者にゆだねられるが,たまたまその編集者もその仮説に同意していないとすると、その論文は掲載されない可能性が大である。そうすると,その論文が扱っている証拠は,科学コミュニティにとって存在しないに等しい。この結果,科学界には,受け入れやすい考え方ばかりを表明する「いい子ぶりっ子」の上流クラブが形成される。そのため,受けいれにくい考え方は,流れ者がつどう場末の溜まり場に託される。幸運なことに,ほとんどの科学者は好奇心のかたまりであるから,その上流クラブの規則は,粘り強い働きかけがあれば変更可能だろう(年長のいい子ぶりっ子が引退したときがチャンスかもしれない)。

ディーン・ラディン 竹内薫(監修) 石川幹人(訳) (2007). 量子の宇宙でからみあう心たち:超能力研究最前線 徳間書店 pp.151-152

会話スタイルが異なる

 男と女が,互いに相手から話を妨害されたと感じるのは,それぞれの会話スタイルが違うからにほかならない。会話を「競合」としてとらえる男は,他人の話の聞き役に甘んじるよりは,むしろ会話を自分の思いどおりの方向——たいていは自分が主役になって話したり,ジョークを披露したり,知識を誇示したりできる方向——へと,導こうとする。しかし,そのときには,相手もまた自分と同じように,会話の主導権を守るために応戦するものと考えている。
 ところが女性は,そうした戦いを避けがちだ。ただし自分に自信がないからではない。<和合>を大切にするから,争いは敬遠しようとするだけのことである。女性は,話題を自分の思いどおりに変えることを,会話というゲームにおける1つの「手」だとは考えない。ゲームのルールを破る「反則」と見なしてしまうのだ。

デボラ・タネン 田丸美寿々(訳) (2003). わかりあえる理由・わかりあえない理由:男と女が傷つけあわないための口のきき方8章 講談社 pp.258-259

男女の関係における非対称性

 時代が変わり,男と女の関係においても,いろいろな面が変わった。今では,「オレは男でオマエは女。だからオレのほうが偉いんだ」などと,口に出して言う男性はまずいまい。しかし,お互いの関係の中で,どこかにそんな男性の潜在意識を感じて,不満に思っている女性がかなりいることも事実である。
 せっかくの「会話」が,いつの間にやら「講義」に変わり,男は先生よろしく一方的に講釈しまくり,女は生徒よろしくただただ忠実な聞き手にまわされる——こんな場面も,ときに見受けられる。
 ここにも,男女の関係における「非対称性」が見てとれる。もしも男と女が交互に先生と生徒を演じていくのなら,問題はない。しかし,女性は<和合>を築こうとするあまり,どれほど情報や専門知識をもっている場合でも,それを誇示するよりは控えめにふるまうことが多い。
 一方の男性は,<地位>を重視するから,それを誇示できる機会を見つけては,ここぞとばかりに主役の座を狙うのである。

デボラ・タネン 田丸美寿々(訳) (2003). わかりあえる理由・わかりあえない理由:男と女が傷つけあわないための口のきき方8章 講談社 pp.153-154

求めるものがわからない

 男と女では,何が重要で,その重要な話題を会話の中でいつもち出すかという考え方についても,ときどき大きな差が見られる。
 同僚の女性からは,こんな話を聞かせてもらった。彼女はたまに兄の声が聞きたくなって電話をかけることがあるが,たいていはまともな「会話」にならないそうだ。まず最初に彼女から「そっちはどう?」と切り出すのだが,兄からの返事はたいがい「別に——」。彼女は子れを,「話すようなことは何もないよ」という意味に単純に受け取ってしまうので,自分から一方的に近況などをしゃべりまくって,結局はもの足りない気分で電話を切るのだという。
 けれども,男性にとって「別に——」という返事は,会話をはじめるときの決まり文句ではないだろうか。その証拠に,会話がしばらく進んだあとで,兄はボソボソと,「また女房のやつと,ひと悶着あってさ」などと話し出すそうだ。そんな「重要な」話題をもち出すのがあまりに遅く,あまりにさりげない調子なので,彼女はまともに話につきあってあげることもなく,電話を切ってしまう結果になる。兄だって,きっともの足りなさを感じているに違いない。
 男には,女の求めるものがわからず,女には「どうして男には女の求めているものがわからないのか」が,わからないのである。

デボラ・タネン 田丸美寿々(訳) (2003). わかりあえる理由・わかりあえない理由:男と女が傷つけあわないための口のきき方8章 講談社 pp.105-106

期待が異なる

 トラブル・トークにおいて,男と女の間にすれ違いが起きるのは,お互いが相手に違った種類の反応を期待しているからだ。男は相手の悩みを和らげようとするときに,その悩みの原因となっているものを攻撃する——つまり相手の抱えている問題を大したことじゃないとして撃退する——という間接的なアプローチをとりがちである。
 しかし,自分の心情に対する直接的な理解の言葉を期待する女は,そうした男の姿勢を,大したことじゃない(と男が言うような)問題で悩んでいる自分自身への攻撃としてとらえてしまいがちである。

デボラ・タネン 田丸美寿々(訳) (2003). わかりあえる理由・わかりあえない理由:男と女が傷つけあわないための口のきき方8章 講談社 p.84

男女の「自由」の違い

 社会学者のキャサリン・K・リースマンが,離婚者を対象として行なった調査によれば,離婚によるメリットとして,「自由」が増したことをあげている。ただし,この「自由」という言葉の意味するものが両者の間ではちょっと違っているようだ。
 女性の場合は,夫に対するさまざまな気づかい(たとえば気難しい夫への対応など)からの解放であり,男性の場合は,妻(家庭)の束縛からの解放ということになる。こうした結果からも,人間関係において,男と女がそれぞれ何を重視しているかがわかるだろう。女は夫との<和合>に心を砕き(それだけに気疲れしてしまうことがある),一方,男は束縛を受けぬ<独立>を維持しようと躍起になっているのである。

デボラ・タネン 田丸美寿々(訳) (2003). わかりあえる理由・わかりあえない理由:男と女が傷つけあわないための口のきき方8章 講談社 pp.53-54

親和と独立

 たいていの女性は,夫や恋人に相談をもちかけるのを,とても自然なことと考えている。けれども男性は,決断を下す際,自分ひとりで決めてしまう場合が多い。女は,話しあうことに<親和>を感じ,決断もお互いの合意のもとに下されることを望んでいる。
 ところが男は,とるに足らない(と思えるような)決断を下すのに,妻や恋人を相手に長ったらしい話しあいなど不要だと考える。しかも,誰かに相談しなければ行動できないのは,ひとつの束縛であり,<独立>の危機として受け取ってしまう。女性が話しあいの口火を切るべく,「あなたはどう思う?」と水をさし向けたときにすら,決断を下してほしいと言われたものと勘違いする男性が,存外たくさんいるのではないか。
 人の世で生きていくためには,<親和>が求められる。一方,自分らしく生きていくためには,<独立>が必要だ。人と人とのコミュニケーションは,この<親和>と<独立>という相対立する2つの要素のバランスをとりながら進められる,微妙なかけ引きだといえるだろう。

デボラ・タネン 田丸美寿々(訳) (2003). わかりあえる理由・わかりあえない理由:男と女が傷つけあわないための口のきき方8章 講談社 p.37-38

発想の転換

 シヴァーズによれば,中国の一部の医師は,担当する人たちが健康ならば報酬をもらえるという。彼らが病気になれば,それは医師の責任なので,医師は報酬をもらえない。担当する人を健康にし,それを保つことが医師の目標なので,それが報酬を決めるのだ。
 デンマークのあるスポーツジムは,会員が少なくとも週に1度来店すれば,会費が無料になるプログラムを実施している。だが1週間に1度も来店しなければ,その月の会費を全額納めなければならない。その心理効果は絶大だ。毎週通うことで,自信がつくし,ジムも好きになる。いつか忙しいときが来て,来店できない週が出てくる。そうすると会費を支払うが,そのときは自分しか責められない。行きもしないジムに会費を支払うというありがちな状況とは異なり,このジムの会員は脱会したいと思うよりも,もっとジムに通おうという気持ちを強くするのだ。

クリス・アンダーソン 高橋則明(訳) (2009). フリー:<無料>からお金を生み出す新戦略 日本放送出版協会 p.47

行動にいたる閾値の集合

 集団に見られる不可解な行動を前にしたとき,人がよく口にするのは,群衆が狂気に走ったり分別をなくしたりすること,つまり集団行動や群集心理である。群衆の行動を予測するのがどんな場合でもきわめて難しいのは事実だ。けれども,群衆の気まぐれな行動の背後にある理由は,少なくとも一部は,実際にはそれほど不可解なものではない。1970年代の後半にマーク・グラノヴェターは,ちょっとした数学を使って,このことを見事なやり方で立証している。
 グラノヴェターは,だれにも騒乱に加わる「閾値」があるという発想から出発した。大半の人は理由もなく騒乱に加わることはないだろうが,周囲の条件がぴったりはまったときは——ある意味で,限界を越えて駆り立てられれば——騒乱に加わってしまうかもしれない。パブのあちこちに100人がたむろしていたとして,そのなかには,手当たり次第にたたき壊している連中が10人いれば騒動に加わる者もいるだろうし,60人あるいは70人が騒いでいなければ集団に加わらない者もいるだろう。閾値のレベルはその人の性格によって,またこれは一例だが,罰への恐怖をどの程度深刻に受け止めているかによっても変わってくる。どんな状況におかれても,また何人が参加していようとも,暴動に加わらない人もいるだろうし,反対に,自分の力で暴動の口火を切ることに喜びを覚える人も,ごく少数ながらいるだろう。
 むろん,ある人の閾値を実際に判定するのはかなり難しいだろう。しかし,このことはそれほど重要ではない。理論的に考えれば,だれもがなにがしかの閾値をもっているはずだ。グラノヴェターが述べているように,この閾値とは「問題となっている行動(いまの場合なら暴動に加わること)をする個人にとって,考えられる利益が考えられる犠牲を上回る」ところである。そして興味をそそられるのは,この閾値,というよりむしろ閾値が人によって異なるという事実が,複雑で予測不能な集団の行動にどのような影響をおよぼすかである。
 具体的に示すために,パブにいる100人の閾値を0から99までとし,各人の閾値はその人特有で,同じ閾値の人はいないと考えよう。ある人は閾値1,別の人は2,さらに別の人は3という具合である。このケースでは,大きな暴動は避けられない。閾値ゼロの「過激分子」が口火を切ると,これに閾値1の人が加わり,騒乱は燎原の火のように広がっていって,最後には非常に高い閾値をもつ人までもが呑み込まれてしまう。しかし注目してほしいのは,騒乱の連鎖に加わっているたった1人の人物といえども,その性格次第で結果を微妙に左右してしまうということである。かりに,閾値が1だった人が2の閾値をもっていたとすれば,最初の人物が物を手当り次第にぶち壊しはじめても,残りの人々はただたむろして眺めているだけで,警察を呼ぶことすらしたかもしれない。だれも2番手になって騒ぎに加わろうとしなければ,連鎖反応は生じようもない。
 このようにたった1人の人物の些細な性格のちがいでも,集団全体に大きな影響をおよぼすことがある。けれどもグラノヴェターが述べているように,もしこのような2つの種類の事件を報道する新聞があったとしても,その微妙なちがいを区別することはしないだろう。区別するなら,最初の事件は「過激な連中が放埒な振舞いに加わった」という記事になり,もう一方の事件の記事は「厄介者が狂ったように窓ガラスをたたき割っているのを,分別ある市民たちのグループはじっと見ていた」となるだろう。

マーク・ブキャナン 阪本芳久(訳) (2005). 複雑な世界,単純な法則:ネットワーク科学の最前線 草思社 pp.167-168
(Buchanan, M. (2002). Nexus: Small Worlds and the Groundbreaking Science of Networks. New York: W. W. Norton & Company.)

弱い絆がポイント

 グラノヴェターが取り上げたいちばんのポイントは,不可解に思えても非常に重要だ。社会の架け橋は社会のネットワークを1つにつなげるうえできわめて大きな力となるから,架け橋になっているのは強い絆,たとえば親友間の絆のはずだと思うかもしれない。しかしすでに見たように,強い絆はこの点に関してはほとんどの場合,まったく重要でない。なくなってもたいして影響はないのだ。事実は正反対で,架け橋となるのはほとんどどんな場合でも弱い絆である。グラノヴェターは単純な論理のもつ鋭い刃先を巧みにあやつって,驚くべき結論に到達することができた。すなわち,強い絆よりも弱い絆のほうが重要性をもつ場合が多いのは,弱い絆は社会のネットワークを縫い合わせるうえで不可欠な紐帯の役割をしているからだというのである。弱い絆は社会の「近道」で,これらが失われてしまうとネットワークはバラバラに崩れ落ちてしまうだろう。「弱い絆の強さ」は,グラノヴェターのきわめて重要な1973年の論文の絶妙なタイトルになっている。論文の中心をなす考え方は不思議な印象を与えるが,実世界の状況に置きかえれば直観的に理解できるようになる。
 だれでも,家族や仕事の同僚,友人などとは強い絆で結ばれている。かりにこれらの人々とのあいだの直接の絆の1つがなくなっても,他の人たちとはまだ共通の友人や家族の別のメンバーなどを通じて短い道筋でつながっているだろう。したがって,個人的なレベルでは交友関係がどれほど重要なものであろうと,また,その交友関係がその人の社会的な活動にどれほど大きな役割を果たしていようとも,そのような強い絆がきわめて重要な社会の架け橋となり,社会のネットワークを1つに貼り合わせる接着剤の役割をしているとは考えられない。他方,めったに顔を合わすことも連絡を取り合うこともない知人もいるだろう。たとえば大学の同窓生で,当時もそれほど親しくなかった人たちである。こうした人たちとのつながりは弱い絆ということになる。10年前の夏にいっしょに仕事をした男性が,いまはオーストラリアのメルボルンの水産会社で働いているなら,こちらから見れば,彼はすべての面で異なる社会的世界で活動していることになる。この男性との絆が社会の架け橋になるかもしれない。男性とは2,3年に1度,手紙をやりとりする程度かもしれない。しかし,もしこのかすかなつながりが壊れてしまえば,お互いの消息を聞くことも,思いがけず再会することも2度とないだろう。

マーク・ブキャナン 阪本芳久(訳) (2005). 複雑な世界,単純な法則:ネットワーク科学の最前線 草思社 pp.62-63.
(Buchanan, M. (2002). Nexus: Small Worlds and the Groundbreaking Science of Networks. New York: W. W. Norton & Company.)

ステレオタイプは結果

 しかし,サイダニアスとプラットーは圧倒的な量の証拠を集め,支配にはステレオタイプ以上のものがあること,ステレオタイプは原因ではなく結果だということを示している。実際彼らは,多くの行動が,自分の集団とともにいたいとか,自分の出自集団をひいきにしたいという欲求に由来するだけでなく,ほかの集団を低い地位にしたまま自分自身の集団をひいきにしたいという欲求にも由来することを示している。人種的なステレオタイプは,ほかの集団のメンバーが真に危険であり,自分たちの集団の連帯の利益を脅かすという直観を解釈するために生み出された表象のひとつである。明らかに,連帯の構造を理解できない理由のひとつは,それらが時に私たちの道徳的基準と矛盾するということである。このことは,なぜ多くの人々が人種差別主義をきわめて効率的な経済的戦略の結果としてよりも,不幸にも方向を誤った概念の結果として考えたがるのかをおそらく説明するだろう。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 pp.375-376
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

集団メンバーの自覚

 社会心理学でもっとも確かで有名な発見のひとつは,人々を集団に任意に割り振っただけで,集団のメンバーであるという自覚や強い連帯感がきわめて容易に作り出せる,ということである。必要なのは,参加者を組に分け,彼らを,たとえば,「青組」と「赤組」と指定することだけである。集団を指定したら,メンバーになんらかの些細な仕事(どんな仕事でもよい)を自分の組の仲間たちとさせる。短時間のうちに,ほかの人たちよりも自分の集団のメンバーに対して,より好感をもつようになる。魅力,公正性や知性についても,自分たちの集団がすぐれていると感じるようになる。ほかの集団のメンバーをだましたり,暴力をふるうことさえも,いとわなくなる。たとえ参加者全員が組の分け方が恣意的だと完全にわかっている時ですら,そしてそれが明示されている時ですら,そうした感情をもたないようにすることも,集団のメンバーになんらかの隠れた本質的な特徴があると考えないようにすることも,困難なようである。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 p.372
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

ステレオタイプによる男女差

 「女は……であるべきだ」という考え方をステレオタイプと呼ぶが,女性が自分自身に対して持つステレオタイプが空間能力の差を生んでいることを示唆する研究は少なくない。
 たとえば,心理学者のブロスナンは,こんな巧妙な実験をしている。その実験では,複雑な図形の中に埋め込まれた図形を探すという課題を行った。この課題は本来は空間能力を試すものだが,ある群にはその通りに教え,別の群には「これは共感性を試すものだ」と偽って実験をした。
 もし女性が自分に対するステレオタイプのために,空間的課題で能力を無意識のうちに発揮できないとしたら,「空間能力のテストだ」と言われた群の成績はやはり男女で差があるだろう。しかし,一般に共感性は女性の特性だと思われているから,「共感性のテストである」と偽って告げられた群では,男女の差はそれほど生じないと予想される。そして,結果はまさにその通りだったのである。

村越 真 (2003). 方向オンチの謎がわかる本 集英社 pp.78-79

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