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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「社会心理学」の記事一覧

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具体的で難易度の高い目標

「ベストを尽くせ」よりはるかに有効なのが,「具体的で難易度が高い目標」の設定です。組織心理学者のエドウィン・ロックとゲイリー・レイサムが,このタイプの目標の驚くべき効果を明らかにしています。2人は,「具体的で難易度が高い目標」が,「曖昧で難易度が低い目標」に比べ,はるかに高いパフォーマンスを生み出すことを発見しました。これは「自分で設定した目標」「他者が設定した目標」「他者と共に設定した目標」のすべてに当てはまります。
 このタイプの目標は,なぜ動機づけを高めるのでしょうか。「具体的」についての説明は簡単です。何が求められているかを正確に知ることで,適当な仕事でお茶を濁したり,自分自身に「これくらいで十分だ」と言い訳をしたりすることができなくなります。
 目標がはっきりしていなければ,低きに流れるのは簡単です。疲れている,気分が乗らない,退屈だ——そんな理由で,簡単に誘惑に負けてしまいます。
 しかし,はっきりとした目標があればごまかしは利きません。達成できるかできないか——白か黒のどちらかしかないのです。
 「難易度が高い」についてはどうでしょうか。ハードルを上げれば,自ら災難を招いてしまうことにはならないのでしょうか。嬉しいことに,そうはなりません。もちろん,あまりにも難易度の高い非現実的な目標は設定すべきではありません。キーワードは,「難しいが可能」,です。難易度の高い目標は,自然と意欲や集中力を高めてくれます。粘り強く目標に取り組み,自ずと最適な方法を選ぶようにもなります。

ハイディ・グラント・ハルバーソン 児島 修(訳) (2013). やってのける:意志力を使わずに自分を動かす 大和書房 pp.32-33
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誤解のきっかけに

微表情という概念は広く関心を集めているが,その科学的な信頼性は,今のところ,どうひいき目に見ても高くない。第1の理由は,人間の感情は知らず知らずに外に漏れ出て,他人にもはっきりわかるという考え方は,客観的な事実というより自己中心的な幻想に思えるからだ。被験者に,嘘をつかせたり強い感情を隠してもらったりする実験では,被験者は自分の本心が相手に悟られてしまう可能性を,実際よりはるかに高く見積もっていた。良くも悪くも,人間は,自分が思う以上に嘘をつくのが上手なのだ。第2の理由は,研究者が,相手が嘘をついていることをうかがわせる表情を必死に探しても,それが見つかるケースはごくわずかで,さらに嘘を述べているときも真実を述べているときも,微表情の出方は変わらないからだ。ある実験で,被験者にいろいろな感情を呼び覚ます写真を見せて,その時々に感じたことを正直に出したり,逆に隠してもらった。すると,実験で見られた679の表情のパターンのうち,完全な微表情(顔の上半分と下半分のどちらにも出る表情)は1つもなく,部分的な微表情(顔の上半分か下半分のどちらかに出る表情)は14個(全体の2%)しかなかった。そして14個のうち,半分は本当の気持ちを隠そうとした時のもので,残りの半分は,本当の気持ちを正直に出した時のものだった。つまり,微表情はめったに見られるものでなく,しかも本当の気持ちを表しているかもしれないし,逆にそれを隠しているかもしれないのだ。もちろん,すべての感情が隠せるわけでもない。とはいえ意外なのは,人間の本当の気持ちはめったに漏れ出るものではなく,顔に出る表情は本当の気持ちを誤解するきっかけにもなるということだ。

ニコラス・エプリー 波多野理彩子(訳) (2015). 人の心は読めるか? 早川書房 pp.254-255

共通点より相違点

男女の性別を論じる人も,当然,1人の人間であり,私たちと同じく,共通点より違う点に注目してしまう。男女の共通性を論じることを提案した唯一の心理学者であるジャネット・ハイドは,性差に関する大規模な研究では,2つの性に驚くほど共通点があることが示されているにもかかわらず,それらを引用した二次研究では,男女のステレオタイプを定義づける小さな違いのほうに焦点が当てられてしまう,と指摘する。影響力のある作家もマスコミも,こうした共通点のことは申し訳程度に触れるだけで,その後は,もっぱら研究結果で得られた男女の違いを取り上げる。

ニコラス・エプリー 波多野理彩子(訳) (2015). 人の心は読めるか? 早川書房 pp.206

グレーゾーン

ステレオタイプが完全に正しかったり間違ったりすることはまずない。ステレオタイプがもたらすイメージは,集団の平均像を的確に捉える場合と,まったく的はずれな場合のあいだに広がる無限のグレーゾーンに位置している。

ニコラス・エプリー 波多野理彩子(訳) (2015). 人の心は読めるか? 早川書房 pp.197

ステレオタイプ

あなたも,私の調査に回答した人も,保守派とリベラル派,豊かな人と貧しい人,男性と女性の考えの差を想像するときに,実際に外に行って直接話を聞く必要はなかったはずだ。というのも,彼らの考えに対してある種の印象をすでに持っているからである。その印象こそが,ステレオタイプ——「集団独自の特徴に対するイメージ」——だ。これらの印象は,どこからともなく沸いてくるものではない。ステレオタイプは,他人の考えを推測するため,自分や他人が得た情報をもとに,複雑な世界から平均的な傾向を導き出そうとする脳の試みを反映している。リベラル派と保守派,豊かな人と貧しい人,男性と女性に対して持っているあなたの印象には,いくらかの真実が含まれており,今回取り上げた調査でいえば,両者の違いの方向性は正しく認識していた。だが,あなたの印象には間違いも含まれていて,今回の調査でいえば,認識の差の程度をまるっきり間違えて予測していた。

ニコラス・エプリー 波多野理彩子(訳) (2015). 人の心は読めるか? 早川書房 pp.192

非人間化

要するに,非人間化とは,相手の人間性を認めないことだ。人が非人間的な扱いに抵抗するのは極端なケースが多いので,そこまで頻繁に起きている現象ではないと思えるかもしれない。だが,実際はそうではない。相手を心のない存在として扱うケースは,目立たないかもしれないがあちこちで見られる。あなたの家の冷蔵庫にも,その名残が入っているかもしれない。フランス人がイギリス人向けにシャンパンを作りはじめたとき,シャンパンの製造業者は,イギリス人がフランス人よりはるかに辛口を好むことを知った。だが,フランス人にとって,イギリス人が好きな味はおいしくなかった。そこで,彼らには粗野に思えたイギリス人をからかって,イギリス人向けのシャンパンを「ブリュット・ソバージュ(野蛮な辛口)」と呼んだ。この冗談は,フランス人にしっぺ返しを食らわせることになる。今や「ブリュット」は世界でもっとも人気のある種類だからだ。

ニコラス・エプリー 波多野理彩子(訳) (2015). 人の心は読めるか? 早川書房 pp.75-76

自分で気づかない

びっくりするのは,人間は,本当は自分のことがわかっていないにもかかわらず,内省によっていとも簡単に,よくわかっている気分に陥ってしまうことだ。自分が事実をそのまま伝えているのではなく,物語を作り出していることにも気づかないのである。たとえば,あなたが,車のディーラーのショールームで日がな一日車を眺め,あの車とこの車を頭のなかであれこれ比較し,最後に,もっとも強く惹かれた1台に決めたとしよう。その車で家に帰る途中,あなたは,自分がなぜ別の車ではなく,この車にしたのか,はっきりわかっているはずだ。この車がいちばん光り輝いていたからだ,とか,いちばん乗っていて心地よかったからだ,とか,いちばん馬力があったからだ,というように。

ニコラス・エプリー 波多野理彩子(訳) (2015). 人の心は読めるか? 早川書房 pp.62-63

右と左

ここで,ショッピングモールの買い物客に,商品を選んだ理由を尋ねるという簡単な実験を紹介しよう。まず,買物客に四足のストッキングを見せて,いちばん好きな商品を選んでもらう。実は,四足のストッキングはまったく同じ商品だ。実験の結果,選択の鍵となっていたのは,商品の順番だった。ストッキングをどの順番で並べても,いちばん多く選ばれたのは右端の商品(最後に見せられた商品)で,いちばん選ばれなかったのは,左端の商品(最初に見せられた商品)だった。ところが,なぜそれを選んだのかと買物客に聞くと,商品が並ぶ順番のことを理由に挙げた人は一人もいなかった。さらに,選ぶときに商品の順番が気になったかと単刀直入に聞いても,「ほぼ全員が,質問を聞き違えたのか,相手は頭がおかしいのか,という顔で否定した」という。ストッキングの順番が商品を選ぶ決め手だったのに,買物客は,それが自分たちの選択に影響を与えていることに気づかなかった。

ニコラス・エプリー 波多野理彩子(訳) (2015). 人の心は読めるか? 早川書房 pp.61-62

わかることとわからないこと

はじめに,よいニュースだ。一連の実験から,総じて人間は,グループ全体の自分に対する評価をわりあい正しく予測できていることがわかった。自分が予測した数字と,ほかのメンバーの実際の数字の平均値の相関係数は,非常に高かった(正確な数字を知りたい人のためにいうと,0.55だった)。これは,父と息子のあいだの相関係数(約0.5)と,ほぼ同じくらい高い数字だ。完璧に把握できているとまではいかないが,まったく見当違いというわけでもないレベルである。いいかえれば,人は他人の考えを,ある程度は予測できるのだ。
 次に,悪いニュースだ。この実験では,グループの個々のメンバーの評価を,どれだけ正確に予測できるか,というテストもした。たとえば,同僚たちからは,おおむね頭が切れると思われていることは理解できても,同僚一人一人の評価には幅がある。ある人は,ナイフのように鋭いと思っていても,別の人は,スプーンくらいの鋭さだと思っているかもしれない。その違いを感じとれるのだろうか?
 答えはノーだ。この問いに対する正答率は,当てずっぽうで答えたときの数字をわずかに上回る程度だった(予測と実際の評価の相関係数は0.13で,まったく関係ない人同士が予測した場合より少し高いだけだった)。同僚たち全体から,どれくらい優秀と思われているかを予測することはできても,とくに優秀と思ってくれている人や,そこまで優秀とは思っていない人を見分ける手がかりはまったくないようである。この実験に関わった研究者の言葉を借りれば,「特定の人から自分がどう思われているか,ということについて,人はほんの少ししかわからない」ようなのだ。

ニコラス・エプリー 波多野理彩子(訳) (2015). 人の心は読めるか? 早川書房 pp.28-29

ブレインスコープがあったら

実際,人は,他人から見た自分の印象をいちばん知りたいと思っている。メアリー・ステッフェルと私が行ったある調査では,インターネット上で500人のアメリカ人に対し,他人の頭のなかを覗ける<ブレインスコープ>が発明されたときのことを想像してもらった。それを使えば,相手の考えや気持ちが完璧にわかるという代物だ。そして,その道具をだれに対して,何を知るために使いたいかと訊ねた。すると驚いたことに,金持ちや有名人や権力者の考えに興味を持つ人はほとんどおらず,ほとんどの人は,パートナーや恋人,上司や家族や近所の人など,自分に最も近い人の頭のなかを知りたがった。つまり,自分が一番よく知っていると思っている人の頭のなかを覗きたいわけだ。しかも,被験者がもっとも知りたがったのは,相手が自分をどう思っているのか,ということだった。ほとんどの人が,<ブレインスコープ>を魔法の鏡のように使いたいと考えたのである。

ニコラス・エプリー 波多野理彩子(訳) (2015). 人の心は読めるか? 早川書房 pp.26-27

集団の思考の病理

集団は,思考の病理をいろいろと生むことがある。その1つ目が分極化だ。おおむね同じような考えをもった人々を1つの集団にして,そのなかで徹底的に議論をさせてみると,各人の意見はさらに似てくるようになり,しかもさらに極端になってくる。リベラルな集団はよりリベラルになり,保守的な集団はより保守的になる。2つ目の集団の病理は,鈍化だ。この力を心理学者のアーヴィング・ジャニスは「集団思考(グループシンク)」と呼んでいる。集団はそのリーダーに,彼の聞きたがっていることを言う傾向があり,異議は抑えこまれ,ひそかな疑念は検閲され,固まってきたコンセンサスに矛盾する証拠は取り除かれることになりやすい。そして3つ目が,集団間の敵意である。もし自分が数時間,自分の好まない意見を持つ誰かと1室に閉じ込められたとしたら——と想像してみよう。たとえばあなたはリベラルで,相手は保守派,またはその逆とか,あるいはあなたが親イスラエルで,相手が親パレスチナ,またはその逆,といった具合である。このときに,そこで対話するのがあなたと相手の2人だけだったら,おそらくその対話は礼儀正しく,ほのぼのとしたものにさえなるだろう。しかし,もしあなたの側に6人がいて,相手の側にも6人がいたとしたら,どうなるか。おそらく多くの人が大声でわめき,顔を真っ赤にし,ひょっとしたら小さな暴動さえ起こるかもしれない。要するに問題は,集団というものが各人の思っている自らのアイデンティティを一手に引き受けてしまうということであり,各人の集団内で認められたいという思いと,別集団の考えより自分たちの考えを優勢にしたいという思いとが,各人の分別ある判断を上回ってしまえるということなのだ。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.331

快楽は返し波の中

バウマイスターによれば,サディズムも同じような軌跡をたどる。攻撃者は被害者を傷つけたことへの嫌悪感を経験するが,その不快さはいつまでも続いてはくれず,最終的には攻撃者を安心させ,活気づけるような反対の感情が出てきて,攻撃者の平衡状態をニュートラルに戻す。そして残酷な行為を何度かくり返すうちに,活気を取り戻すプロセスがどんどん強化され,嫌悪感は以前よりも早く消え去っていく。最終的にこれが主体になると,プロセス全体が楽しみのため,高揚感のため,そして強い欲求のために働くようになる。バウマイスターが言うように,快楽は返し波のなかにあるのだ。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.327

暴力の分類

暴力の分類法はいくつもあるが,どれも区別のしかたはたいして変わらない。ここではバウマイスターの4分類法を採用し,なおかつ,そのカテゴリーの1つを2つに分けたいと思う。
 暴力の第1のカテゴリーは,言ってみれば実際的,道具的,搾取的,捕食的なものである。これは最も単純な種類の暴力で,ある目的のための手段として力を行使する。探索系によって設定される食欲や性欲や野心などの目標を追い求めるために暴力が配備され,背外側前頭皮質を格好の象徴とする脳内の知的な部分すべてによって暴力が誘導される。
 暴力の第2の要因は,ドミナンス(支配,優位性)である。ライバルよりも自らが優位に立とうとする衝動的欲求のことだ(バウマイスターは「エゴティズム」と呼んでいる)。この欲求は,テストステロンを燃料とする支配系やオス間攻撃系と結びつくこともある。ただし,この欲求がオスだけのものというわけではなく,さらにいえば,個人に限られたものでもない。このあと見るように,集団同士も優位性をめぐって争いをする。
 暴力の第3の要因は,リベンジ(報復,復讐)である。これは,受けた被害を同じように返そうとする衝動的欲求のことだ。この動因の直接的な主導力となるのは怒り系だが,その目的のために探索系を引き込むこともある。
 暴力の第4の要因は,傷つけることそのものを喜びとする,サディズムである。この奇妙であり,かつ同じくらい恐ろしくもある動機は,私たちの心理,とりわけ探索系のもっているいくつかの奇癖の副産物なのかもしれない。
 そして暴力の第5の要因にして,最も論理的に納得のしやすい原因は,イデオロギーである。あるイデオロギーを心から信じている人びとは,さまざまな動機を一本の教義に織りなし,底に他人を引き込んで,破滅的な目標を遂げさせる。イデオロギーは脳のどこかの領域とも,脳全体とも結びつくことはない。なぜならこれは,多数の人々の脳に広く配布されるからである。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.240-241

自己奉仕バイアス

自己奉仕バイアスは,私たちが社会的動物であるために支払う進化的代価の一部だ。人間が集まって群れをつくるのは,磁力によって互いに引き寄せられるロボットだからではなく,それぞれの内に社会的な感情や道徳的な感情をもっているからだ。人間は温情や同情や,感謝や信頼や,孤独や罪悪感や,嫉妬や怒りを感じる。それらの感情は,人が社会生活——相互交換と協調活動——において損失を負うことなく,確実に利益を得られるようにしてくれる内面の調節器だ。この場合の損失とはすなわち,嘘つきや社会の寄生者に一方的に利用されるということである。私たちは自分に協力してくれるだろうと思える人に共感を覚え,信頼し,感謝して,お返しに自分もその人に協力する。そして自分をだますのではないかと思われる人に対しては,怒りを感じて仲間外れにし,協力を差し控えたり罰を与えたりする。ある人がどれだけよい人であるかは,協力者としての評判を育むことで得られる尊敬と,こっそり他人をだますことで不正に得る利益とが,秤にかけられた結果である。社会集団は,いわば親切さと信頼のレベルがさまざまに異なる協力者たちで成り立っている市場で,各人は自分が損をしない範囲において最大限に親切で,信頼性の高い協力者であることを宣伝する。その損をしない範囲というのはだいたいにおいて,実際よりも少しだけ親切で,少しだけ信頼性が高いというレベルになるのかもしれない。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.210

カテゴリー化の問題点

ではカテゴリー化の何が問題なのか?それは,往々にして統計という範囲を超えてしまうことにある。第1に,人はプレッシャーがかかったり,何かに気を取られたり,感情的になったりすると,カテゴリー化が大づかみなものであることを忘れ,まるでステレオタイプがすべての男女,子どもに例外なくあてはまるかのように行動してしまうことがある。また,人は自身の属するカテゴリーを道徳的に解釈しようとする傾向があり,同類には称賛に値する特性を,敵には非難すべき特性をあてがう。たとえば第二次世界大戦中,アメリカ人はドイツ人よりソ連人の国民性のほうが望ましいと考えていたが,冷戦期になると,その考えは180度逆転した。第3に,人は集団を本質的なものと見なす傾向がある。出生後すぐに親と別れた赤ん坊は,養父母と生物学上の親のどちらの言葉を話すようになると思うかを尋ねる実験がある。子どもの被験者は,生物学上の親の言葉を話すようになると考える傾向が強いが,成長するにつれ,特定の民族や宗教の集団に属する人びとは,生物学的本質に準ずるものを共有すると考えるようになる。それによって他の集団とは明確に区別できる,同質で変わることのない,予測のつく存在になるのだ,と。
 人をカテゴリーの一例とみなす認知習慣は,人と人とが衝突する場面では実に危険である。ホッブズの言う3つの暴力の誘引——利益,恐怖,抑止——が,個人間のケンカの原因から民族紛争の理由に変わってしまうのだ。ジェノサイドはこの3つの誘引に,さらに2つの“毒素”が加わって引き起こされることが歴史的研究によって明らかになっているが,これについては後述する。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.563

ステレオタイプ化

人は他者を,その帰属や慣習,外見,信念などにしたがって心理的に分類する。このように対象を型にはめ,ステレオタイプ化することは,精神的欠陥の1つだと考えたくなるところだが,カテゴリー化は知性にとってなくてはならないものだ。カテゴリーに分類することで,観察されるいくつかの資質から,観察されない多くの資質を推論することが可能になる。たとえば,ある果物を色と形からラズベリーだと分類すれば,それを甘くて空腹を満たしてくれ,毒ではないということが推論できる。政治的公正さに敏感な人は,人間の集団にも果物と同様に共通の特徴があるという考えに怒りを覚えるかもしれない。だが,もし共通の特徴がなければ,称賛すべき文化的多様性も,誇るべき民族的資質も存在しないことになってしまう。集団が結束し,まとまるのは,たとえ統計的にであれ同じ特性を共有しているからだ。したがって,カテゴリーにもとづいて人間について一般化する心理は,その事実によって欠陥だということはできない。今日,アメリカ系アフリカ人のほうが白人よりも生活保護を受けることが多く,ユダヤ人のほうがアングロサクソン系白人新教徒(WASP)より平均所得が高く,ビジネス専攻の学生のほうが芸術専攻の学生より政治的に保守的——あくまで平均的にだが——なのは事実なのだ。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.562-563

本質は意地悪

ヒトは協力行動をやむを得ずしているのであれば,親切行動を見たときに,その行動の意図が認知できずに,不自然さを感じるのは当然です。また,親切行動が不自然な行動と認知されていることから,ヒトの本質には親切心があるわけではないのかもしれないということも示唆されます。マキャベリ的知性仮説(ヒトは複雑な社会生活環境へ適応するために脳と知性を進化させたという仮説)に基づけば,ヒトは生き残るために,いじわるを積極的に身につけてきた可能性さえあるのです。そうであればむしろ,ヒトの本質はいじわるなのかもしれません。この点については,引き続き多角的な研究の発展が望まれます。

中野信子・沢田匡人 (2015). 正しい恨みの晴らし方:科学で読み解くネガティブ感情 ポプラ社 pp.184

決断の5段階

幸い,社会心理学者は,どのような条件があれば,私たちが他人を助けようとするのかを細かく分析しています。私たちが,偶然居合わせた困っている見ず知らずの他人を助けようと決断するまでには,次の5つの段階があることがわかっています。

 他人を助けようという決断をするまでの5段階
 (1)出来事を認識する。
 (2)緊急事態であることを理解する。
 (3)自分に問題に対処する責任があると感じる。
 (4)問題に対処するための方法がわかる。
 (5)行動を決断する。

ロバート・ビスワス=ディーナー 児島 修(訳) 2014). 「勇気」の科学:一歩踏み出すための集中講義 大和書房 pp.199-200

EFL

地球上の無数にいる人の中には,嘘の見抜き方を熟知している者がいる。それが“真実を見ぬく魔法使い”だ。1万5000人以上の人にいくつかの映像テストをおこなった結果,嘘を感知するスーパースター軍団が発見された。普通の人が嘘を的確に見破る確率は5分5分——つまり,まぐれ——なのに対して,“真実を見ぬく魔法使い”は80パーセント以上の確率で嘘を見破る。現時点で,実験によって発見された“真実を見ぬく魔法使い”は50人ほどいる。
 そのひとりの女性は自分のことを“嘘が見える目(アイズ・フォー・ライズ)”,略してEFLと呼んでいる。EFLは中年で,茶色の髪に茶色の目。ジャーナリズムの学士号と,科学の修士号を持っている。彼女にとって嘘の感知は,ヨーヨー・マやジミ・ヘンドリックスにとっての音楽と同じだ。その分野の鬼才というわけだ。

マシュー・ハーテンステイン 森嶋マリ(訳) (2014). 卒アル写真で将来はわかる:予知の心理学 文藝春秋 pp.122

嘘を見破る迷信

目をそらす
 体を前後に揺する
 唇を噛む せわしなく足踏みをする
 鉛筆をもてあそぶ
 耳にさわる
 左を見る
 鼻にさわる
 わざと友好的な態度を取る

 以上のような手がかりのせいで,なぜ嘘を見抜くのが苦手なのかがはっきりわかる。私たちは嘘を見抜くための手がかりを知っていると思いこんでいるが,その手がかりの多くが実はあてにならないのだ。右に挙げた手がかりが必ずしも嘘の証拠というわけではない。
 とはいえ,そういった手がかりのいくつかが嘘を表していると,あなたが思い込んでいたとしても不思議ではない。ある研究で,サモアから中国まで58カ国の人々に,どんなしぐさによってうそがわかるかと質問した。回答として無数のしぐさが挙げられたが,目をそらす——メラニーのように目を合わせない——というのが一番多く,それこそがもっとも確実な嘘の証拠と考えられていた。だが,実際には,人がどこを見ているかということと,嘘をついているかどうかに明確な関連はない。嘘の証拠として多くの人が信じこんでいる手がかりの大半は,迷信のようなもので,なんの証拠もないのだ。

マシュー・ハーテンステイン 森嶋マリ(訳) (2014). 卒アル写真で将来はわかる:予知の心理学 文藝春秋 pp.109-110

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