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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「臨床心理学」の記事一覧

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偽陽性と偽陰性

どのような診断テストであっても,当然ながら「偽陽性(病気でないのに,病気であると診断される者)」や,「偽陰性(病気であるのに,病気でないと診断される者)」が,ある程度の割合で存在する。しかしそれは,検査の利用法とのかねあいで考察されるべきものだ。たとえば,HIV検査のように大規模に実施する検査では,血清陽性者を見逃さないために,できる限り偽陰性を減らすことが望ましい。その際に,ある程度の擬陽性を許容することになる。そのような検査の次に,陽性と判断された者たちだけを対象に,費用のかかる,より精密な診断法を実施して,偽陽性を除くのだ。その結果,病気でないのに病気であると診断された者も安堵する。
 しかし,自閉症の検査の場合,そのような二次検査は,これもまた不確実な臨床検査を除いて存在しない……。自閉症は人間関係の問題でもあるので,このようなきわめて曖昧な検査結果から生じる予測が,子どもを自閉症にしてしまうリスクがある。つまり,「高いリスク」をもつと見なされる子どもは,両親たちの不安が向けられる対象になってしまう。極端な場合,自閉症ではないのに子どもが自閉症になってしまうかもしれない……。自閉症の検査は,予測には役立つとしても,従来の生体検査とはかなり性格が異なるのだ。

ベルトラン・ジョルダン 林昌宏(訳) (2013). 自閉症遺伝子:見つからない遺伝子をめぐって 中央公論新社 pp.42-43
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主要な遺伝子は存在しない

こうした分析から導き出せる唯一の結論は,次の通りだ。躁うつ病にしろ,統合失調症にしろ,これらは遺伝子の欠陥バージョンが深刻な影響をおよぼすような,「主要な遺伝子」というものが存在しない。それらの病気が遺伝子要因になることはまちがいないが,その原因には,疑わしい複数の遺伝子が関係している。だが,個々の遺伝子の影響は小さいため,それらを明らかにすることは難しい,と。

ベルトラン・ジョルダン 林昌宏(訳) (2013). 自閉症遺伝子:見つからない遺伝子をめぐって 中央公論新社 pp.30

環境も

ここで注意すべきは,一卵性双生児は,一方の子が自閉症であればもう一方の子も必ず自閉症である(あるいは自閉症になる運命にある)のではないということだ。高い一致率が意味するのは,一卵性双生児の双子が同じ環境に置かれたならば,同じように成長する確率が高いということだ。言い換えると,このような強い遺伝子的影響も,環境の役割を完全に打ち消すものではなく,環境を変えれば,その子が自閉症に罹るリスクは減るだろうということである。この場合は,誕生時から別々の家で暮らす一卵性双生児の事例を研究すればよいことになる……。だが,そのような事例は稀であり,また研究対象にするには注意が必要である(完全に別々に暮らしていない場合や,きわめて似通った家族と暮らしている場合などがある)。そのような研究から確たる結論を導き出すには,統計データが少なすぎるのだ。

ベルトラン・ジョルダン 林昌宏(訳) (2013). 自閉症遺伝子:見つからない遺伝子をめぐって 中央公論新社 pp.17-18

受け入れる基盤

整理していえば,多重人格のストーリーを受け入れていく人々の様子は,それの持つ悲劇性を脱色した上で,まるでそれを自分たちの生活と地続きの事態であると考えているようであったということだ。では彼らは多重人格のどこを見て自分たちがその延長線上にあると感じたのだろうか。学生たちの感想から読み取れたのは,多重人格が場面によってまったく異なる顔を見せるというその点において自分の振る舞い方と親近性があるということであった。
 多重人格の場合,場面と場面とをつなぐ記憶の糸が切断されているため,振る舞い方が一貫せず,しばしば致命的なまでにちぐはぐとなる(そしてその結果が「発見」されもする)。学生たちの場合,そのような記憶の断片化が生じているわけではもちろんないだろうが,それでも自分たちの振る舞いをあたかも多重人格の場合のそれと同じであるかのように感じていたのである。これはどういうことであろうか。
 多重人格を自分たちに近しいものと思う感覚。その背景には,多重人格的と表現したくなるような対人関係のある様相の広がりがあったのではないか,というのがここで提起してみたい仮説である。

浅野智彦 (2013). 「若者」とは誰か:アイデンティティの30年 河出書房新社 pp.165-166

多重人格概念を待ち望んだ日本人

ところで『ビリー・ミリガン』が多重人格という現象を広く日本人に認知させたのはまちがいないのだが,その認知の広さと速さとはむしろ日本人がその言葉,その概念を以前から待ち望んでいたのではないかとさえ思わせるものがあった。つまり,あたかも彼らが欲していながら手にしていなかった何かを多重人格という概念が与えたかのようにさえ見えるのである。

浅野智彦 (2013). 「若者」とは誰か:アイデンティティの30年 河出書房新社 pp.163

影が薄かった

研究室生活が1年を過ぎた頃から臨床心理学という分野が研究室の話題となってきた。今でこそ臨床心理学という分野は,心理学の中でも臨床心理士,認定心理士,スクールカウンセラーなどという職種もでき,心理学の中では最も市民権を得た重要な領域であるが,その頃はまだまだ影の薄いものであった。
 海外,特にアメリカではClinical Psychologyとして定着していたが,我が国では精神科領域というよりは,法務関係の鑑別所とか,少年院,児童相談所,刑務所などで心理職の採用が認められていた程度であり,応用心理学,異常心理学の一分野であるというような認識でしかなかった。研究室で臨床心理学ということが話題になったのは,法務庁関係の仕事についていた先輩たちの話とか,大学院の授業で精神衛生特論という講義が始まり,某大学医学部の精神科外来に実習に行き始めたことが発端であった。

三宅 進 (2006). ハミル館のパヴロフたち:もうひとつの臨床心理学事始め 文芸社 pp.52

ロールシャッハ

「関学の研究室は学習の研究を実験的にやっているところだから,性格とか人格といったたぐいの文献は本学図書館にはない。アメリカ文化センターならそういったものの最新情報を載せた雑誌があるはずや」
 ということになって大阪市内船場にあったアメリカ文化センターに足を運んだ。そして行き当たったのがロールシャッハ・テスト(Rorshach test)の研究を特集した文献であった。これが私が初めて出合った臨床心理学の文献である。
 私は辞書を片手に連日通いつめ,訳の分からない図柄を見て,それが何に見えるかを問い,その答えで性格を分析するものであるということがおぼろげながら分かってきた。ところがそのオリジナル図版が研究室にも図書館にもない(1952年当時)。研究誌に載っている図版は,全部がモノクロームの小さな写真で,全体の図柄の一部分をピックアップし,詳細な分析を加えた代物がほとんどである。オリジナル図版にでくわしたのはそれから間もなくであったが,「なるほどすごいことを考えたもんじゃ。アメリカ人は偉い。戦争に負けるのも当たり前や」と,ロールシャッハ・テストがアメリカのものであると信じる無知なる男は,単純に感に耐えてその図版に見とれていた。見て感心しているだけでは卒論に届かない。といって分析のことを細かく解読してゆく英語力も,心理学の知識もない。そこで考えたのがロールシャッハの10枚の絵柄であった。その中には色彩のある図版があるが,「もし色抜きのモノクロームであれば反応が違ってくるのではないか。よし,これや」と,色彩図版と同じモノクロームの図版を作って比較してみようと思い立ったのである。「これは実験や。うちの教室にふさわしい仕事になる」と思い込んだのである。そして,誰の指導も受けないで卒業論文を仕上げた。

三宅 進 (2006). ハミル館のパヴロフたち:もうひとつの臨床心理学事始め 文芸社 pp.27-28

ネット依存は病気か

いまにも流行する可能性が最も高いのは「インターネット嗜癖」である。野火が広がるすべての要素が整っている——警報を発するおびただしい数の本,雑誌や新聞に載るべき記事,テレビによる広範な告知,氾濫するブログ,怪しげな治療プログラムの登場,何百万もの患者候補,新たに誕生した「オピニオンリーダー」役の研究者や臨床医による盛んな喧伝などだ。DSM-5は自制を示し,インターネット嗜癖を正式な精神科の診断として認めず,あいまいな補足事項にとどめた。しかし,DSM-5の完全な支持がなくても,インターネット嗜癖が盛りあがることにならないか,注意しなければならない。たしかにわれわれの多くは,映画館のなかや真夜中でもEメールをこっそりチェックしたり,電子の世界の友人たちから少しのあいだ引き離されるだけで寂しくなったり,時間が空けばネットサーフィンやEメールやゲームをしたりする。
 だがこれはほんとうに嗜癖と言えるのか。いや,必ずしも言いきれない。嗜癖と言えるのは,執着が強迫的で,報酬や実益がなく,現実生活への参加やそこでの成功の妨げになっていて,著しい苦痛や機能障害を引き起こしている場合である。ほとんどの人にとって,インターネットとの結びつきは,たとえそれにどれほど夢中でかじりついていようとも,苦痛や機能障害をはるかにうわまわる快楽や効率をもたらしてくれる。それは隷属と言うよりは熱中や道具の活用に近い——精神疾患と見なすのは最善ではない。あらゆる人々の日常生活や仕事の不可欠な部分になっている行為を精神病と定義するのはばかげている。

アレン・フランセス 大野裕(監修) 青木創(訳) (2013). <正常>を救え:精神医学を混乱させるDSM-5への警告 講談社 pp.296-297

嗜癖概念の拡大

「嗜癖」という語は,あらゆる熱中や傾倒を含むものへと拡大解釈されつつある。かつてのそれは限定されていて,薬物やアルコールへの身体的な依存のみを指していた——ハイになるための量がしだいに増え,やめれば重い離脱症状が出るような依存だ。その後,「嗜癖」は脅迫的な薬物乱用も指すものへと拡大された。これに陥っている人は,もうなんの意味もないのに,薬物を摂取しなければならないと感じる。快感は消え失せ,重大な悪影響があるだけなのに,つづけずにはいられない。最近では,種類にかかわりなく,頻繁な薬物の使用に「嗜癖」が軽々しく不適当に用いられている——まだ強迫的な使用に至っていない,純粋に快楽を求めての使用であっても。DSM-5は拡大解釈の最後の段階を踏み,われわれはアヘンに病みつきになる人とちょうど同じように,好みの行為に依存しているのだとしている。
 「行為嗜癖」という概念には,われわれはみな「行為依存者」だとする根本的な欠陥がある。快楽を繰り返し求めるのは人間の本質の一部であり,当たり前すぎて精神疾患とは見なせない。何百万もの新しい「患者」が勝手に作り出され,あらゆる熱中を医療の対象にし,刹那主義に「病者役割」という口実を与えてしまうかもしれない。

アレン・フランセス 大野裕(監修) 青木創(訳) (2013). <正常>を救え:精神医学を混乱させるDSM-5への警告 講談社 pp.292-293

悪人か病認か

息子が癇癪を起こすのは,成長の過程なのか,それとも双極性障害の徴候なのか。娘が学校で注意散漫なのは,注意欠陥・多動性障害なのか,それとも単に頭がよすぎるせいで授業がつまらなくて退屈しているのか。息子が幼いうちからロケットやSFに興味を持っているのは喜ぶべきなのか,それとも自閉症を心配するべきなのか。自分が経験しているのはよくある不安と悲しみなのか,それともこれは全般的不安障害なのか。人の顔や事実を思い出せなければ,アルツハイマー病の手が迫ってきているのか。悲嘆は失意のしるしであり,つらくとも有用で自然なものなのか,それとも大うつ病の病性障害なのか。自分のティーンエイジャーの娘は型にはまらない風変わりな子なのか,それとも危険な薬が必要な重い精神病の予備軍なのか。タイガー・ウッズは精神疾患をかかえているのか,それとも単なる女好きなのか。残忍なレイプ犯はただの悪人なのか,それとももしかしたら病人なのか。われわれはだれしも,精神病の軽い症状が短時間出ることがある——これはわれわれがみな,精神疾患と戯れていることを意味するのか。

アレン・フランセス 大野裕(監修) 青木創(訳) (2013). <正常>を救え:精神医学を混乱させるDSM-5への警告 講談社 pp.76

強引なカテゴライズ

しかし,落とし穴がある。紙に書いてあるとそうは思えないものだが,現実世界では,ある疾患と別の疾患を分ける境界線はずっとあいまいだ。DSMのどのハードルにも,魔法めいたところや神に定められたようなところはない——黒と白の分岐点らしく見えても,そこにはグレーの影が存在する。大うつ病の条件を5つの症状が2週間つづくとするのは,主観にかなり頼った選択の産物であり,科学的な必然性があるわけではない。同じくらい簡単に,ハードルはもっと高くできる——6つの症状が4週間続かなければならないというように。ハードルを高くすれば,「感度」は損なわれるが(それゆえ,診断が必要な病人の一部を見落としてしまうが),「特異度」は高まる(正常な人々にまちがったレッテルを貼りにくくなる)。感度と特異度は密接な相対関係にある——一方を損なわずに他方を高めるのは不可能だ。両者のあいだには必ずトレードオフがあり,過剰診断と過小診断のリスク便益の適切なバランスをとらなければならない。どこに基準を設定するかの最終決断はつねに主観的な判断になる。いくら研究が進んでも,ほかの選択肢ではなくある特定のハードルを選ぶように命じる明白で説得力のある答は得られていない。

アレン・フランセス 大野裕(監修) 青木創(訳) (2013). <正常>を救え:精神医学を混乱させるDSM-5への警告 講談社 pp.62

理論と現実

ここで目下の疑問が首をもたげる——統計学を何らかの単純明快な形で用いて,精神の正常を定義することはできるのだろうか。ベル形曲線は,だれが精神的に正常で誰がそうでないかを判断する科学的な指針になるのだろうか。理論的には答は「当たり前だ」だが,現実的には「とんでもない」である。理論的には,最も障害の重い人たち(全人口の5パーセントでも10パーセントでも30パーセントでもいいが)が精神疾患で,残りは正常だと勝手に決めることはできる。そして調査法を開発し,あらゆる人にスコアをつけて,ベル形曲線を描き,境界線を定めて,病人にレッテルを貼ることだってできる。だが現実的には,けっしてそんなふうにはならない。統計,状況,価値にまつわる判断があまりにもたくさんあって,統計学による単純な解決を妨げるからだ。

アレン・フランセス 大野裕(監修) 青木創(訳) (2013). <正常>を救え:精神医学を混乱させるDSM-5への警告 講談社 pp.38

意図せざる悪しき結果

何より不穏な話を語ったのは,精神医学の世界で私が最も古くから知っている友人だった——知恵,経験,誠実さを兼ね備えた人物で,統合失調症の苦しみを和らげることに生涯を捧げていた。彼が確信していたのは,「精神病リスク症候群(PRS)」という新しい診断を導入し,いずれ統合失調症を発症する恐れのある若者の早期発見と予防治療を進めれば,DSM-5は劇的な影響を及ぼせるということだった。この友人は,時間が経ってから負担の重い治療をするかわりに,早いうちに負担の軽い介入をしたがっていた。ひとたび脳が病んでしまうと,もとどおりになおすのは困難になる——妄想や幻覚を生み出す回路が使われれば使われるほど,それを切るのはむずかしくなる。だからこそ,統合失調症を完全に予防できればすばらしいことだし,たとえそれが無理でも,病気の全体的な重荷を軽くすることができればやはりすばらしいことである。
 目標としては立派な話だが,これには5つの強力な反論ができた。第1の反論は——「精神病リスク症候群」という恐ろしげな診断をくだされる人たちのほとんどは,実際には誤ったレッテルを貼られるだけだ——ふつうに考えれば,精神病になる人の割合はごくわずかだろう。第2の反論は——実際に精神病を発症するリスクがあったとしても,それを予防する確実な方法はない。第3の反論は——多くの人たちが,肥満や糖尿病や心臓病を引き起こして寿命を縮めかねない抗精神病薬を必要もないのに飲まされて,二次被害に苦しめられるだろう。第4の反論は——もうすぐ精神病になるという推測が完全に誤っていれば,偏見と不安を生む。第5の反論は——「リスク」があることと,「病気」であることが,いつから同じになるのか。私は友人の考えを変えようと試みたが果たせず,こちらの意見に少しでも耳を傾けさせることさえできなかった。「精神病リスク症候群」はすでに走り出していた。友人の理想は,意図せざる悪しき結果という悪夢を生むとしか思えなかった。

アレン・フランセス 大野裕(監修) 青木創(訳) (2013). <正常>を救え:精神医学を混乱させるDSM-5への警告 講談社 pp.22-23

人間関係が必要

 良心のない人が妬み,ゲームの中で破壊したいと望むのは,良心をもつ人の人格だ。そしてサイコパスが標的にするのは地球そのものや,物質的世界ではなく,人間である。サイコパスは他の人びとにゲームをしかける。彼らは無生物の威力には興味をもたない。世界貿易センタービルが爆破されたのも,ねらわれたのはその中に人がいたから,そして大惨事を見聞する人びとがいたからだ。
 言ってみれば,サイコパスも,人類そのものとなにがしかのきずなを保っているのだ。だが,彼らの中に羨望を生むこの細いきずなは一面的で不毛であり,多くの人びとがおたがいにしめす複雑で生き生きとした感情的反応とはくらべものにならない。

マーサ・スタウト 木村博江(訳) (2012). 良心をもたない人たち 草思社 pp.77

ゲームの中で

 暴力行為は派手で,起きた場合はあたえるショックも大きいが,残虐な殺人は良心の欠如が生む典型的な行為ではない。それよりも,肝心なのはゲームだ。世界を支配することから,昼食代を払わないことまで,勝つことがすべてなのだ。ゲームの仕方はつねにおなじ——支配し,人をあっと言わせ,勝つ。感情的愛着や良心が欠けている場合,人間関係で残っているのは相手に勝つことだけだ。関係に価値がなくなると,相手を殺すことで支配を達成する場合もある。だが支配の仕方で最も多いのは,カエルを殺す,性的な征服を誇る,友人をだまして利用する,チリの銅山を食い物にする,人が騒ぐのを見るためだけに切手を盗む,といったところだ。

マーサ・スタウト 木村博江(訳) (2012). 良心をもたない人たち 草思社 pp.74-75

良心をもたない人

 良心をもたない人は,自分自身と,自分の生活に満足していることが多い。効果的な“治療法”がないのも,まさにそのためなのかもしれない。たいていの場合,サイコパスがセラピーを受けるのは,裁判の結果であったり,患者になったほうが自分にとって都合がいいからだ。よくなりたいという気持ちでセラピーを受けることはめったにない。これらの事実を重ね合わせると,疑問が湧いてくる。良心の欠如は精神障害なのか,それとも裁判用語なのか,それともまったくべつのものなのか。

マーサ・スタウト 木村博江(訳) (2012). 良心をもたない人たち 草思社 pp.25-26

問題の核心

 DSMの問題の核心は,DSMがあるふれた行動から診断カテゴリーをつくっており,それがどんどん異常ではないふるまいを飲みこんで成長していることである。その開発と決定の過程はますます込み入ったものになり,政治的なものとなった。提案がなされ,対案が示唆され,妥協が諮られ,最終的な決定が委員会の投票によって行なわれるというプロセスを,私たちは明らかにした。開発者たちは「科学とデータに基づいて決定されている」と主張する。だが,実際に行われていることは,科学という言葉にふさわしいものではなく,使われたデータもしばしば,平凡な意見ほどにも価値がないのである。

ハーブ・カチンス,スチュワート・A・カーク 高木俊介・塚本千秋(監訳) (2002). 精神疾患はつくられる:DSM診断の罠 日本評論社 pp.302

PTSD

 DSMにPTSDが収載されたのは,戦争体験から生じた傷害について認識し,治療や補償を得ようとしたベトナム帰還兵の努力の結果である。悪名高いミーライ村の戦闘での生存者には,惨劇を目撃しただけの帰還兵もいたが,それに加担したものもいた。PTSDの採用を主張する際,帰還兵らは,残虐行為に加わったものと単なる目撃者を区別しなかった。傷を負わせた戦闘員なのか非戦闘員であるかを問わず,皆が残忍な戦争の後遺症に苦しむ参戦者だとみなされたのである。

ハーブ・カチンス,スチュワート・A・カーク 高木俊介・塚本千秋(監訳) (2002). 精神疾患はつくられる:DSM診断の罠 日本評論社 pp.146-148

科学的であろうと

 DSM-IIIの出版が決められた時には,開発者たちには特別な実地試験のデータがあったので,新版は(DSM-IIに比べ)「遥かに大きな」「素晴らしく良い」「かつてないほどの」「以前よりはるかに良い」信頼性が期待されるので,「元気づけられる」と臆面もなく言えた。1982年に出た論文では,彼らはさらにボルテージを上げ,DSMの信頼性を「信じられないくらい良い」などと言っている。
 そうした主張をするにあたって,開発者たちはやや新しい統計的な指標(「カッパ」という合意を計測するための指標)を使い,データを大きな表にして発表した。この表は,専門家にも判読不能な複雑なもので,DSM-IIとの直接比較もなされていなかった。ほとんどの臨床家は,そうした数字の出所となった研究を批判できる立場になかった。というわけで,彼らは「信頼性があり科学的である」という開発者たちの主張を受け入れてしまった。

ハーブ・カチンス,スチュワート・A・カーク 高木俊介・塚本千秋(監訳) (2002). 精神疾患はつくられる:DSM診断の罠 日本評論社 pp.68-69

神経症の削除

 DSM-IIIをつくるにあたって多くの論争が繰り広げられたが,最も象徴的な論争は,1つの言葉,神経症(neurosis)の削除をめぐるものであろう。神経症,それは心的葛藤から生じると推定される傷害であるが,長い間,精神分析の大黒柱であった。DSM-IIIの実行委員会は,マニュアルからその言葉を放逐する提案をした。なぜならその語は障害の原因を強く含意するからであり,新しいマニュアルは「無・論理的」かつ「記述的」に指向されていたからである。精神力動的考えを持つ多くの精神科医は,この精神科言語の革命的提案を警戒し,精神分析を専門とする協会は強く反対した。1976年からDSM-IIIが出版された1980年まで,実行委員会と精神分析家の間には激しい対立が燃え上がった。競合する学派は,神経症という単語の採否をめぐって,戦闘を繰り広げた。戦闘はカンファレンスで,委員会の会合で,精神科のニュースレターで,私的通信で行なわれた。提案と反対提案がなされ,合意は潰され,妥協が生まれ,またそれは廃棄された。強硬派は脅しを用い,穏健派は妥協に走った。時間がたつにつれ,戦闘はエスカレートし,やがて制御不能となり,アメリカの精神医学が大混乱に陥る恐れも出てきた。5年間にわたって準備されてきたDSM-IIIの最終的な登場が,妨害される恐れも生じた。結局,ばか騒ぎも収まり,DSM-IIIは是認された。論争の的になった単語,神経症は,いくつかの場所にカッコ付きで用いられるという象徴的な存在となった。APAの理事会はDSM-IIIを是認した。なぜなら新マニュアルの影に,多くの「官僚的なうごめき」が生じていたからである。6年の準備,かなりの財政出費,多くのAPAの機関誌と大衆新聞紙上でのプロモーションを経て,新しい製品を拒否することは困難になっていたのである。

ハーブ・カチンス,スチュワート・A・カーク 高木俊介・塚本千秋(監訳) (2002). 精神疾患はつくられる:DSM診断の罠 日本評論社 pp.60-61

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